愛の輝きとつぶやき

写真、アート(絵画、書、詩)日記

武士道とは?その④

2015-07-24 22:48:00 | 今に生きる

武士道とは何か?その④

その③に続き、新渡戸稲造と「武士道」について

「武士道と日本人の心」 山本博文[監修] 青春出版社 より抜粋

 

第二章 武士道の精神

 其の一 他人を思いやる心から生まれる「愛」のかたち

◇新渡戸が強調した礼という徳目の本質

慈悲の心である仁から生じるのが、「礼」という徳目である。

新渡戸は、礼の根底には他人の感情を尊重することから生まれる謙譲や

丁重の心があると説く。

日本人は丁重で上品な物腰であり、礼儀正しいと外国人から一般に見られている。

しかし、その作法は非常に細かい。たとえば他人に挨拶する時の頭の下げ方、

歩き方、座り方などである。

外国人の中には、それを馬鹿げた行為だと批判する者もいると新渡戸は触れる。

たしかに、礼儀作法の中には不必要な細かい点があると新渡戸も同意する。

一方で、これに対しての反論も述べている。

そもそも礼とは、他人の気持ちを思いやる心の表れである。

それは、つまるところ愛だ。

品のよさを損ないたくがないために礼に適った振る舞いをするのではない。

礼とは、社会的地位に対して、相応の敬意を払うことなのである。

つまり、主君の仁に対して、臣下の礼があるということだ。

そして、日本人は礼儀を厳しく遵守することで、他者への思いやりを学んでいくのだと

新渡戸は強調する。

 

とはいえ、新渡戸は礼を称揚はするものの、決して徳の第一位に置くものではないとした。

そもそも徳とは、どれも個別に成立するものではなく、それぞれの徳と相互関係のもとに

あるからである。

 

○現代の礼儀作法

(お辞儀の作法)

会釈 15℃  他人の近くを通る、知り合いにすれ違うなどの時に使う。

敬礼 30℃  目上の人、来客の対する挨拶などの時に使う。

最敬礼 45℃  深い感謝、謝罪を示す時に使う。

 

(席次の作法)

応接室  出入り口からもっとも遠い①が上座

和室   床の間に近い①が上座。出入り口に近い④が下座。

 

新渡戸は、「礼が社交に不可欠な要件にまで高められたとき、礼儀作法の詳細な体系が

流行するのは当然だ」と述べている。

それは現代においても変わらず、他者と接するときは、礼の作法が重んじられる。

 


武士道とは何か?

2015-07-24 00:24:17 | 今に生きる

武士道とは何か?その③

その②に続いて、新渡戸稲造と「武士道」について

武士道と日本人の心」 山本博文[監修] 青春出版社 より抜粋

 

武士道の定義 ――「騎士道」との違いを浮き彫りにした武士の精神

◇騎士道にたとえた武士道の定義

欧米諸国に日本人の思考法と風習を伝えるために編まれた『武士道』の第一章

で、新渡戸稲造はまず、「武士道とは何か」という定義について触れている。

武士道を英語でどのように表現するのか。

新渡戸はまず「chivalry」と英訳した。「chivalry」を辞書で引くと、

中世のヨーロッパに成立した「騎士道や騎士道的精神」であると記されている。

つまり新渡戸は、武士道をヨーロッパの騎士道のような精神や道義であると

定義した。

 しかし、武士道と騎士道とは決してイコールではない。

「じつは騎士の倫理よりも深い意味がある」として、新渡戸は次のように

定義する。

 「武士道は、語句の意味でいえば、戦う騎士の道―すなわち戦士がその職業や

日常生活において守るべき道を意味する。

ひと言でいえば、『戦士の掟』、つまり戦士階級における『ノブレス・オブリージュ

(高貴な身分に伴う義務)』のことである。

 

◇武士道と騎士道の違い

ノブレス・オブリージュとは、中世ヨーロッパの貴族社会における、「貴族や富裕

層は自らの階層に応じて無償で社会への役割を負うべき」だとする精神である。

ただし、騎士道精神は身分の異なる者には発露されなかった。

それに対して、武士道精神は、弱者に対して向けられた。つまり、「高貴な身分

の者」、支配階級や社会的リーダーは、「義務」、公共の利益のための責任や

自覚を求められたのである。

 

たとえば、米沢藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)(1751~1822)は、

藩財政の立て直しのため、藩に倹約令を布いた。ただ布告するだけではなく、

自らの仕切り料(しきりりょう)(衣食や交際料)をそれまでの藩主の七分の一に

あたる二百九両にとどめ、また、食事においても、朝は粥二膳と香の物、

昼と夕を一汁一菜と干し魚を基本とした。

自らの生活を切り詰めることで、藩士、藩民の意識を変え、見事窮迫していた

藩財政を立て直したのである。

 

また、江戸時代中期、寛政の改革を指揮した人物として名高い

松平定信(まつだいらさだのぶ)(1785~1829)も、弱者救済に尽力し、

飢民の救済や囲米(かこいまい)の制(飢饉など非常時に備えて蓄えた米)、

人足寄場(無宿などを収容した社会更生施設)の設置などの政策を次々と

打ち出していった。

定信は、自らが立案した政策が成果をあげ、人々が喜ぶ様子を見るのが

無上の喜びだったという。