愛の輝きとつぶやき

写真、アート(絵画、書、詩)日記

今に生き切るー2

2015-06-16 14:19:05 | 言葉と言霊

「今に生きる」-2

続き…

今の自分には過去の自分の因子で成長し生存していますが、嫌な因子だからといって

取り去る事は出来ません。では生涯嫌な因子に苦しめられずに生きていく何か良い方法は

ないのでしょうか。

そこで魂の因子の構成根元を探って見なければならないのです。

因子には喜びの因子も嫌な因子もありますが、これは全て過去の自分が作ったものですか

ら、誰の責任でもありません。因子は魂の固まりです。彼奴が憎い、怨めしい、口惜しい、

悲しいと強く思い込むと、それが魂の粒になって因子になるのです。

堅く固まった粒は必ず芽を出します。あまり堅くなかったら融けてしまいます。

丁度稲の実が硬く稔って居れば、芽を出してやがて同じ稲の実を何十倍にもして

稔らせますが、未だ固まっていない実は芽を出しても実は成りません。

それと同様に良いことは堅く固めれば良いけれども、嫌なことは堅く固めないことが

肝要です。憎い、口惜しいと思っても堅く固めないことです。

然しこれは今生きて自分が心掛けることで、過去の自分は既に固めてしまって、

今も自分の中で働いているのですから、どうすることも出来ません。

といってしまっては、人は生涯宿命に泣くことになります。

それでは過去につかまっていることになりますから次の世に行けないし、よし行けるとして

も、大変な難産になり、悪く行けば死産になってしまいます。

 

何とかして少しでも楽に次の世に行ける方法はないでしょうか。

あります。その為に調和の神霊があるのです。

神霊を拝むのではありません。自分のものにしてしまうのです。

我々は肉体と心の結合で生存しています。

この両者を結んでいるものがあるはずです。

この働きをしている神霊が、次の世への媒体となって行かせてくれるのです。

この神霊を月読命(つきよみのみこと)といっておきましょう。

私たちが生まれる時は、汐が満ちて来る時で、死ぬ時は汐が引く時です。

汐の満干は月の働きであることは誰でも知っています。

植物の種を旧暦の十四、五日(満月の時期)に穫って、種にすれば虫がついて困りますが、

みそかに穫って種にすれば、虫がつきません。

竹を月夜の日に切れば、半年も経たない内に虫がつくが、闇夜の日に切れば、

何年置いても虫はつきません。つまり月夜は固まりをほぐし、闇夜は堅くしまるのです。

植物が育つのは真夜中です。

月夜の蟹には身がイッパイ入っています。夜植物が炭酸ガスを吸って、酸素を出すのも

月の波動の働きです。

このように月は万物を養い、調和を持って私達を導いてくれているのです。

故に月の波動によって与えられた理法を用いれば、案外楽に次の世に行けることに

なります。

月読命は何万年も前に今日の我々の為に、河岸に渡る秘法を呈示して下さっていたので

あります。

 

次回へ続く…

 


今に生き切る

2015-06-13 12:54:17 | 言葉と言霊

 「今に生きる」-1

地球上での生物つまり、鉱物・植物・動物が過去も未来も考えていなく、

ただ「今」に生きている姿があります。

人間にとって「今に生きる」ことの大切さは、幸せに生きることに繋がってきます。

「頭」優先の考え方や行動がどんなに人間を窮屈にしているか、これまでの

歴史を振り返り、現在の状況を鑑みるに明らかです。

エゴ=欲望が優先しているので、昨今の目に余る事件の数々が増えていくばかり

なのです。

今に生きるとは、ただ無責任に“今が幸せなら何やってもいいではないか”では

ありません。

最近は、「中今に生きよう」とか「直感に生きよう」、「気を使いこなそう」などと

書籍やブログなどで言われています。

私なりに思うことはありますが、これまで学んだことが別の角度から述べている

本を再読して、分かり易いと思いますのでご紹介させて頂きます。


浜本末造:筆名 橘 浩堂

著書「万世一系の原理と般若心経の謎」より抜粋

 

◎今に生き切る

今の世は水の世界です。次の世は神の世界です。神の世界とは気の世界

のことです。

私達は丁度母の体内の水の中で生長して来た胎児が、今空気の世界に出よう

としているようなものです。否が応でも母の体から出なければなりません。

若し出なかったら、母も自分も死んでしまいます。

一旦母の体から出て、ヘソの緒を切ったら、空気で生きる事になり、

再び母の体内にも帰れないし、水の中でも生きられません。

それと同様に今の世の中が良いといっても、どうしても気の世界に行かなければ

なりません。これを彼岸というのです。

胎児が生まれる時には陣痛があります。

水の世界から次の世界に行くには大きな陣痛がある筈です。

その陣痛を超えれば、親が裸で生まれた子に産湯を使わせて、着物を着せて

くれるように、神がなにもかも用意して待ってくれています。

陣痛がひどければ難産もするし、死産もします。

陣痛を軽くする方法を考えなければなりません。

母の体内から空気の世界に出ても、人の形が変わる訳ではありませんし、

世の中が変わっている訳でもありません。

今の世から次の世に行っても、私達が変わることも今の世が変わる訳でも

ありません。

気の回りが変わって考え方と生き方が変わって来るだけです。

従って次の世に生きた事のない我々が次の世がどうなるかということは

言えません。

ただ安心して生きて行ける世の中である事は間違いないのです。

そこで在るのは今と未来だけです。その未来も来てみなければ判りません。

そして未来は今の自分の中にあるので、」それが未来を作るのです。

今なら我々にも判りますから、今だけ幸せなら未来も幸に決まっています。

即ち今に生きるということが、清まりも穢れもない人生なのです。

過去は一切捨てることです。

未来に大きな希望を持って、今だけに生き切ることが

清まりにつながるのであります。


ところが今の自分には過去の自分が入っています。

即ち過去の自分が、今現れているのであり、今の自分は過去の自分の因子で

成長し生存しているのです。

従って過去の因子が嫌なものであれば、今の自分に嫌な形になって現われて

来ます。嫌な因子だからといって、取り去る事は出来ませんし、

若し取り去る事が出来たとしても、それでは今の自分もありません。

因子を取り去ることが出来ないとしたら、生涯嫌な因子に苦しめられなければな

らないのでしょうか。それではたまったものではありません。

何か良い方法は無いでしょうか。

次回へ続く…

 


エデンの園とは!?

2015-06-11 17:53:31 | 言葉と言霊

エデンの園とは神代の日本のことです。

遠い遠い超太古の昔、人は神と直接交流し神と人が一体化して調和した、

幸福な時代であったことが聖書に書かれています。

それがエデンの園と言われています。

そのエデンが東にあったということは、「光は東方より」と古今東西で言い伝えられています

ように、その理想郷が極東の日本の地であったということになります。

「竹内文書」の中にも、そのころの神代の時代、世界の中心は日本であり、日本から

世界の人々を文明的に指導していたことが書かれています。

さらに現代の常識では考えられないことですが、日(霊)の本の高い文明を学ぶために

モーゼやキリストが日本に来て学んでいることも書かれているのです。

これらのことはすでに知っている人には常識のことなのです。

エデンの園の時代、神と人が交流して一体化=神人として生きていた時代、

神は人々にコトバや文字、その他いろいろな文化や人としての生き方」を

教えてくださっていました。

神は、人が平和に幸せに、仲良く互いに助け合い、争わず共に満たされ、

共に栄えることを願いました。

相手が望む幸せは己の幸せ、共に喜び、共に楽しみ、共に悲しむ。

優しく、美しく、真の富に満ち溢れた、真の平和に包まれた世界を作り、顕現していた

素晴らしい時代でした。

そのうち、神と人が相和して歩んでいた時代が幾万年かの歳月が経過するに伴って、

言葉が乱れ、エゴの心に片寄っていった私たちの遠い祖先たちは当然のこととして

神のご意図から外れ、人の世にいろいろな歪みが出てくるよになっていきました。

この太古の時代にはムー大陸やアトランティス大陸、レムリア大陸があったと言われていますが、

これらの大陸が次第に沈んでいくようになり、今ではわずかの痕跡を残すのみです。

1万3000年から1万8000年の間に沈没したと言われています。

その原因が、今と似たような科学万能で神を恐れず、エゴ優先の低次の神を操り、操られた

心の乱れから暴走していった人間でした。その想念・行為が宇宙の因果の法則によって、

因果応報の結果として起こったことと推測できます。

 

本来のエデンの園を取り戻すには、今、日本人が元々持っているDNAを目覚めさせ

縄文の頃のような精神的に高い、物心調和し共存共栄の、統合されたバランスのとれた

世界に意識を向けていくことにあります。

それを神道的には「体主霊従から霊主体従」へ転換といいます。



感謝の意味

2015-06-08 21:36:35 | 言葉と言霊

感謝の意味とは?

自分が今、生かされていることに感謝する日々です。

日々仕事があること、ささやかでも生活出来ていること、

おいしく食事ができること、

人と話せること、聴くことができること、周りの景色が見えること、

そして、大自然を感じることができることの有り難さ。

細かいことで欲を言ったらキリがありません。

物質的なものは、いずれ死んだら無くなるもの、そう思うと今、

ただ生きていられることに感謝しかありません。

陰陽の世界の中で様々な経験をさせて頂けるからです。

数々の失敗をしても気づきを与えて頂けるからです。

どうして「感謝」という字を使うのかなと思って、調べてみました。

「感謝」の「感」の意味は、下に心があるように「心が動き感じる」ということ。

「謝」は、言ベンに「射」です。「射」は矢を放つということですから、

「謝」は、「言葉を放つ→言葉を発する」というのが元の意味のようです。

そこから、(1)礼を言う (2)あやまる、恥じる (3)断る

などのような意味にも使われるようになったという。

「感謝」という言葉は、漢字の原義からは、心に深く感じて言葉を発する

ということになります。

現代では「感謝」という言葉のあとに、”ありがとう”の言葉も使いますので

「ありがたいと思う気持ちを表す」は、原義に沿っていると思います。

生かされていることに感謝すると、自然とご先祖様に感謝する気持になります。

今の体は、生んでくれた両親の、そのまた両親、そして代々繋がった

ご先祖様がいてこの世に誕生できるのです。

最近、NHKではシリーズとして、有名人の祖先の歴史を辿ったヒストリーの

ドキュメントが放映されています。

どの方も本人が知らない系図があり、歴史があることに涙が出ます。

今、この世に生きている証しが歴然とあります。それは他人事ではなく、

ずーっと突き詰めていけば、自身の祖先ともつながった大きな絆の環が

広がっているからです。

 


愛を表現させる。

2015-06-06 21:08:16 | 愛に生きる

愛の表現はシンプル

何か事が起きたときに自分のことより先に、他人のことを気遣ってあげられる

心、、そこには慈愛が表れています。

普段の仕事の場、電車やバスの中、家事にと、どのような場面でも

ちょっとした気遣いに眼がいき、優しさの空気が流れます。

そこには愛が息づいています。

愛するとは、誰か特定の人や家族を思うことばかりでなく、

ささやかなことでも心を向けて、ほほえみを湛えるだけで、その場の雰囲気が

変わります。

一人杖をつき、こわばったお顔で歩いているご老人にも、

優しいあいさつをかけるとちょっと間をおいて、緩んだ笑顔が返ってきます。

知っている人、知らない人に関係ない。同じ人間だから。

また、なにも反応が無くても気にしなくていいのです。

みんな、元々持っている愛のパワーは、出し惜しみしなくても無くならない。

自我に執着してハートを抱え込んでしまっている方は、

生きてるうちに、表現の仕方を忘れてしまったか、間違ってしまっただけ。

本来だれにでも内在している愛は、永遠無限の光。

気づいたら出し惜しみせず、贈りましょう。

愛の噴水は枯れないのです。