鹿苑寺東口より、いま俗に「金閣寺道」と呼ばれる上図の鞍馬口通りを東へ進みました。足利義満の北山殿の時期には総門は南にあって、いまも敷地神社(わら天神)の西に「衣笠総門町」の地名にて由緒が伝えられています。総門の次に東門を通って北山殿の御所空間へ入ったことが西園寺公衡の日記「公衡公記」記載の「北山殿南屋宸殿指図」等から知られます。この構えが北山殿を鹿苑寺となして後にも引き継がれ、やがて南の総門が廃されて東口が総門となり、江戸期の伽藍整備期に至ったとされています。
それで江戸期には現在と同じく総門が東に向かう配置に定まり、参道も東に向かい、門前集落が東の紙屋川沿いに形成されていました。正保二年(1645)九月に幕府の命令で作成された「北山鹿苑寺境内之図」にも、その様子が明確に描かれています。
その東への参道および当時は「大北山村」と呼ばれた門前集落の道が、現在もほぼ残されているのかどうかを、これから実際にたどってみることにしました。
鹿苑寺の東口から「金閣寺道」つまり鞍馬口通を降りて、上図の西大路通との交差点に出ました。付近に市バス停「金閣寺道」があり、観光客の大半はそこから金閣を目指して登ってゆきます。鹿苑寺参道はさらに東へと続きますが、上図中央に見える鞍馬口通がそれにあたります。
西大路通を東へ渡って、上図の鞍馬口通を100メートルほど進みました。「北山鹿苑寺境内之図」ではこの道に沿って紙屋川からの支流が水路となって通り、そのまま門前集落まで続いています。門前集落の生活用水路の役目を果たしていたようです。その支流水路は、現在では市街地化して痕跡すら残っていませんでした。
鞍馬口通を100メートルほど進むと、西大路通から三つ目の辻に着きます。現在は交差点になっていますが、江戸期は一本道で右に曲がって上図の南への下り坂道へ続くのみでした。
この南への下り坂道が「大北山村」と呼ばれた門前集落のメインルートで、「北山鹿苑寺境内之図」ではこの道の両側に並ぶ民家の列が描かれます。その周辺は寺領の田畑が広がっていて、現在の市街地の地割が当時の田畑の畝などの境界線をほぼなぞっているのが現況地図との比較観察によって知られます。
南への下り道は、やがて登り坂に転じます。これを登り切って進むと左手に上図の緑地が続きます。地図で見ると衣笠南道公園となっていますが、すぐ西に花山天皇紙屋上陵がありますので、昔はその関連園地であったのかもしれませんが、詳細は不明です。
現在の公園は戦前の昭和12年に整備されたようで、紙屋川西岸の段丘上に造成されていて、階段を降りて下の広場に行く形になっています。もとは衣笠南通児童公園といったそうなので、いま歩いている上図の道は衣笠南通であるようです。「北山鹿苑寺境内之図」ではこの辺りは門前集落の外れになるようで、道が南の三叉路および「高橋」まで続きます。
その南の三叉路に出ました。東西に通るのが蘆山寺通で、上図奥に架かる橋が「北山鹿苑寺境内之図」にも描かれる「高橋」の後身です。紙屋川に架かるこの橋が、鹿苑寺領の南東隅にあたっていたようで、高橋から西へ通る現在の蘆山寺通が、鹿苑寺領の南の境界線にあたっていたようです。
「高橋」をいったん東へ渡って振り返ったところです。現在は、この橋を境目にして西を蘆山寺通、東を寺之内通と呼んでいます。
江戸期まで「高橋」と呼ばれた橋の現在の名称は「寺之内橋」です。寺之内通の西端にあたっていて、ここから東へ進めば寺之内通ですが、室町期には上京地区への主要幹線路の一つとして機能していた重要なルートでした。鹿苑寺の門前道はここから枝分かれしているのであって、おそらくは足利義満の北山殿の時期に上京地区との連絡路として設けられた道を踏襲しているのではないか、と思います。
橋から紙屋川を見下ろして、かなりの高低差があるのに驚きました。さきに見た衣笠南道公園が紙屋川西岸の段丘の上に位置していましたから、その高低差がそのまま南へと続いているわけです。
見ていて、この深さが室町期からのものであるならば、これは天然の水濠だな、と気付きました。鹿苑寺領の東の深い谷川なので、そのまま室町幕府の時期には北山殿の防御線としても機能したのだろう、足利義満がこの地に目をつけたのは、防御性にも優れた扇状地状の地形であるうえに東を紙屋川が区切っていて、いざという時に守りやすいからだったのだろう、と推定しました。
そもそも、足利義満は源氏の棟梁にして武門の統領たる征夷大将軍でありました。その重要な拠点を北山に据えたのも、単に風光明媚で知られた西園寺家の北山第だから、という理由では無かった筈です。当時の京都の中心街であった上京地区と連絡出来る要地で、地形的に攻めるに難く護るに易い場所を探して北山第を選んだのに相違ありません。
「北山鹿苑寺境内之図」に描かれる門前への道の探索は「高橋」つまり現在の寺之内橋で終了しました。室町期からの道かどうかは分かりませんが、江戸期の門前集落「大北山村」を通る東口への道は、いまも位置をとどめて機能していることを確認しました。
それで満足したので、帰りのバスに乗る前の時間つぶしに、上図の敷地神社(わら天神)にお詣りして鹿苑寺散策の成就を報告しておきました。この神社も「北山鹿苑寺境内之図」に「北山天神之森」と記されて社殿が描かれているからでした。 (了)