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北山鹿苑寺5 安民沢と夕佳亭

2022年05月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿苑寺境内の北側の高台に登りました。上図のように奥に池が見えますが、その池が安民沢と呼ばれる池で、北の大文字山からの出水や伏流水を受け止める鏡湖池の沈砂池としての機能を果たしています。もとは北山殿鹿苑寺の前身の西園寺家北山第の庭園の池であったものです。

 

 安民沢の周辺がかつての西園寺の旧境内地と推定され、発掘調査も行われましたが、「明月記」や「増鏡」などに描写される壮麗な伽藍堂塔の明確な遺構はまだ検出されておらず、池のみが鎌倉期の様相をとどめて今に伝わっています。

 

 池の東寄りに白蛇塚と呼ばれる中島があり、その中央には五輪塔の笠を五段に重ねて五重と成した石塔が建ちます。

 

 その石塔を望遠モードで撮りました。鎌倉期の石造遺品で、西園寺家の鎮守であった白蛇塚の祭祀にまつわる仏塔であったものと推定されますが、現在は塔の基部のみが残り、その上に五輪塔を載せて塔状に形を作ってあります。

 

 安民沢の南側、金閣や鏡湖池を見下ろす台地べりは上図のようにやや高く盛り上がっています。安民沢の溢れ水をせき止める堤防の役目を果たしたようで、水そのものは池の南東隅の水門および木樋(もくひ)と呼ばれる木製の導水施設から下の鏡湖池に流していました。これが室町期の北山殿の時期にも活きていたようで、安民沢から鏡湖池への流れがおおよそ復元出来ます。

 

 これが安民沢の南東隅の水門です。現在も機能していて、水路は近年に開渠形式に改められています。木樋(もくひ)は水門の下の池底に埋め戻されて保存されているので、いまは見ることが出来ません。

 

 安民沢から見学路をさらに登って北東の高台に登りました。夕佳亭の建つ場所です。その一角には足利義政遺愛の品と伝える手水鉢がありますが、これも俗伝でしょう。立札には富士形とありますが、富士の形によく似た自然石というのが実態に近いです。

 

 鹿苑寺の茶室、夕佳亭です。江戸期の鹿苑寺の「修理寄進帳」に「茶屋建立、金森宗和指図」と記されるのに該当します。明治初頭に焼失し、これを明治七年(1874)に再建したのが現在の建物です。元の建物は、鹿苑寺第三世の鳳林承章(ほうりん じょうしょう)が慶長十六年(1611)八月の住持着任後に行った鹿苑寺伽藍の修理整備事業において建てられたものとされています。

 鳳林承章(ほうりん じょうしょう)の日記「隔蓂記(かくめいき)」によれば、鹿苑寺堂舎の整備事業が書院の新築をもって一段落したのが寛永十三年(1636)四月のことでしたが、その九月に新築書院披露のために近衛信尋(このえのぶひろ 後陽成天皇の第四皇子で近衛信尹の養子、近衛家19代目当主)らを招いています。その際の近衛信尋のお供の一人が金森宗和であり、近衛信尋らは「茶屋」において接待を受けていますが、この「茶屋」が夕佳亭にあたるのかは分かっていません。
 ですが、その翌年に鳳林承章が当時有名であった医師半井琢庵(なからい たくあん)の賀茂柳芳軒の見事な庭園と茶屋を訪ねているのは示唆的です。完成間近の鹿苑寺整備事業に関して色々と参考にしていたのでしょう。

 

 そして四年後の寛永十九年(1642)11月、鹿苑寺整備事業完成の披露として、京都所司代板倉周防守重宗、淀藩主永井信濃守尚政ら幕府要人を招いての宴席が開かれ、鳳林承章が客人達を案内してもてなした経緯が「隔蓂記(かくめいき)」に綴られますが、その時に客人たちが「茶店」から境内地を遠望したことが知られます。原文で「到茶店、被遂遠覧」とあり、板倉重宗が「茶店之様子殊勝之由」を述べて感服したことが伺えます。

 この「茶店」が、境内地を「遠覧」出来る高台にあってその様子を京都所司代が「殊勝之由」と述べていることから、いまの夕佳亭の立地および奇特の構えを連想させて興味深いものがあります。六年前に金森宗和の訪問を受けてから、その影響によって鳳林承章が鹿苑寺整備事業の最終段階にて「茶店」を新造した可能性が考えられるからです。

 

 しかしながら、鳳林承章は「隔蓂記(かくめいき)」にて鹿苑寺の「茶屋」および「茶店」に関して具体的な詳述をしていないため、その外見や構造については全く分からず、夕佳亭そのものであったのか、その前身の建物であったのかは確かめようがありません。

 夕佳亭そのものが広く知られるようになるのは江戸中期からであり、秋里籬島(あきさと りとう)が著した「都林泉名勝図絵」の巻四の鹿苑寺庭園紹介の絵図には夕佳亭も細かく描かれて、上図の現況とほぼ変わらない外観が知られます。また国立国会図書館蔵の江戸期の「十八囲之図」にも鹿苑寺茶室の平面図が収録されており、夕佳亭の名は記されないものの、「金森宗和好、鹿苑寺二有之」とあって、内部空間構成も夕佳亭のそれと一致しています。

 

 夕佳亭は、現在は外観のみ見学可なので、内部空間は公開されておらず、上図の内部写真が建物の軒先に展示されています。建物の茶室部分が右に屈折しているので、土間からは全然見えないからです。

 その代わり、本寺の相国寺の承天閣美術館に夕佳亭の実物大復元模型があり、こちらは江戸幕府老中松平定信の「楽翁起こし絵図」の一葉に「北山鹿苑寺二有之金森宗和好茶室建地割」と記された夕佳亭の起こし絵図とも違わない江戸期当時の状態を再現展示しています。これは奥の茶室部分も見られるように三方向からの見学が可能となっていますので、鹿苑寺の夕佳亭に関心をお持ちの方は参考までに見ておくことをおすすめします。

 

 夕佳亭の内部写真の横に並べて置かれる内部平面図です。土間から入る茶室と、右側に折れて進む奥の茶室とがありますが、奥の茶室は展望所も兼ねていたようで、三方の障子窓を開け放つと、眼下に金閣の屋根や鏡湖池の広がりが望まれます。それが、京都所司代板倉周防守重宗、淀藩主永井信濃守尚政ら幕府要人が、鳳林承章の接待時に「遠覧」した景色であったのでしょう。  (続く)

 

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