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北山鹿苑寺6 不動堂と大塔跡

2022年05月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 茶室の夕佳亭を辞して、同じ高台上の北東隅に位置する上図の不動堂に行きました。鹿苑寺で観光の名所になっている舎利殿(金閣)にたいして、不動堂は信仰の名所としていまも多くの参詣者を集めています。本尊の鎌倉前期頃の石造不動明王像は秘仏で開扉されたことがなく、最近は平成15年に像を安置する石室の調査が実施されていますが、その際にも一般公開はされなかったと聞きます。
 国内でも屈指の作域を示す石造不動像の名品として図版等に写真が紹介されていますが、出来ることなら、一度でいいから直に御姿を拝してみたいものです。

 この秘仏石像とは別に、堂内脇壇にはもう一躯、木造の不動明王像が祀られていました。これも鎌倉前期に遡る遺品で、秘仏石像よりも古い時期の成立になります。かつての西園寺不動堂の本尊として嘉禄元年(1225)十月に造立されたことが藤原定家の「明月記」に記録されており、西園寺伝来の像として本尊阿弥陀如来像(現西園寺本堂本尊)、妙音堂妙音天像(現白雲神社本殿御神体)とともに知られています。
 この木造不動明王像は、いまは本寺相国寺の承天閣美術館に移されて時々常設展示に出ていますので、御覧になった方も少なくないでしょう。

 

 不動堂の背後には御覧のような断崖がそそり立ちます。樹木に覆われてあまり目立ちませんが、不動堂の建つ平坦地はもともと背後の不動山の南麓斜面を削って造成したため、その周囲は急斜面および崖となっています。その真下の奥まった所に不動堂が建っています。

 

 断崖の下には、上図の「独鈷井」と刻まれた石標があり、その周囲に大きな石が並びます。かつて不動堂の横にあった滝の跡とされています。発掘調査未実施のエリアであるため、遺跡の詳細はまだ分かっていませんが、西園寺北山第の頃から存在したという「龍門滝」の痕跡ではないかとする説もあるようです。

 本来、不動明王信仰の拠点には滝や水流が付きもので、滝に打たれる修行場が不動堂に接している事例は全国各地にありますから、ここの滝跡も不動堂との関連にて理解しても良さそうに思います。

 

 不動堂の脇、南側に回りました。不動堂そのものは西園寺家の北山第に既に存在し、足利義満が北山殿を造営して後に鹿苑寺が創建された時点でも舎利殿(金閣)、護摩堂と共に不動堂があったといいます。足利義教、足利義政ら歴代将軍の不動堂への参詣記録も残されており、さらに文明七年(1475)六月には内大臣三条西実隆も訪れて日記「実隆公記」に「詣石室之不動、仏龕■舎」と記しています。

 これらの記録から、室町期の鹿苑寺において不動堂が現在とあまり変わらない状態で貴顕の信仰を集めていた事が伺えます。不動堂は本尊秘仏石造不動明王像を安置する石室と、木造瓦葺き建物の礼堂とで成り立っており、上図のように両者はくっついているので一体化して見えます。これを不動堂と総称している形です。

 

 不動堂の奥に位置する石室部分を見ました。この石室に礼堂部分がぴったりとくっつけられており、石室は礼堂内陣から拝む形式になっています。石室本体は、壁面に刻まれた銘文中に「康永」や「文和」などの鎌倉期の元号がみられることから、その時期より前に造られたものと考えられています。

 当時の西園寺家は、北山第西園寺を創建した西園寺公経(きんつね)より七代後の西園寺実俊(さねとし)が当主であり、康永の頃には三位中将、文和の頃には内大臣や右大臣を歴任しています。この西園寺実俊の後に西園寺家は衰えて北山第も荒廃に向かっていきました。
 不動堂石室には、京都では産出しない貴重な石で現在でも遺品が稀な緑色片岩の一メートル以上の巨石が多用されており、よほどの財力が無いと造れません。西園寺実俊の時期に可能であったかはわかりませんが、それ以前の西園寺当主のいずれかであれば、もっと財力があった筈ですから、その頃に現在の石室が築かれたものと思われます。

 なお不動堂はその後荒廃して一時は廃れたようで、鹿苑寺第三世鳳林承章(ほうりんしょうしょう)の「隔蓂記(かくめいき)」によれば、戦国期の天正年間(1573~1592)に宇喜多秀家が寄進して再建、さらに江戸期の正保二年(1645)に幕府からの修理奉加料が銀子で納められています。
 したがって、現在の不動堂は宇喜多秀家による再建の堂を江戸期に修理したものであることが分かります。

 

 不動堂を辞して、裏手の売店横の門から拝観有料区域の外に出て上図の長い階段を降りました。この階段の長さからも、不動堂のある高台が鹿苑寺境内の最高所であることが実感出来ます。

 

 それから参道横の休憩所の横にある、上図の大きな土壇を見に行きました。規模は約40メートル四方で、平成28年に塔の屋根上を飾る九輪の大型の断片が出土して、北山殿に足利義満が建てた七重塔「北山大塔」の基壇跡であることがほぼ確定した場所です。
 現在は境内外遊路の一部になっていて園路が通り、北側と東側は観光駐車場になっています。それで駐車場から直接寺の総門に行けるようにと、上図の園路が土壇の上にも通されているのですが、これは文化財保護の観点にたてば明らかな遺跡破壊にあたるのが残念なところです。

 

 観光駐車場の側から土壇を見ました。長年の間に表土が流れ落ちて相当の変改が見られますが、もともと高い土壇であったためか、土台状の高まり自体はなお保たれています。既に発掘調査も実施されて遺構の範囲が確定しており、出土した九輪断片から推定復元されるその直径が2メートル以上になる事も知られています。

 現在の日本に現存する木造層塔の最高は、東寺つまり教王護国寺の五重塔(基壇よりの高さ56メートル)で、その九輪の直径は約1.6メートル、基壇は約19メートル四方を測ります。「北山大塔」は九輪の推定直径が2メートル以上、基壇が約40メートル四方なので、教王護国寺の五重塔より大きくて高かったことは間違いありません。
 一説では、高さ100メートル余りの木瓦葺き(木製の瓦で屋根を造る、現存建築の例は中尊寺金色堂)の塔建築であったと推定されていますが、それは遺跡地から瓦がほとんど出ていない事実にもとづくのでしょう。

 北山大塔は、足利義満が応永十年(1403)に相国寺に創建した七重大塔が落雷で焼失したため、翌年に北山殿の一角に場所を移して同規模で再建したものに当たります。山科教言の日記「教言卿記」の応永十二年六月条に心柱の立柱の儀式のことが記され、三年後の応永十五年(1408)年二月十二日には塔安置本尊像の検討のために教王護国寺へ調査に出向いていますから、塔の建築は完成間近であったようです。

 しかし、伏見宮貞成親王の日記「看聞日記」の応永二十三年(1416)正月条に「北山大塔七重。為雷火炎上云々。雷三度落懸。僧俗番匠等捨身雖打消。遂以焼失。併天魔所為勿論也。」とあってこれも落雷で焼失したことが分かります。しかも「造営未終功之處又焼失」とありますので、未完成のままに焼失したわけです。

 その巨大な土壇遺構については現状は従来からの園路のままですが、将来的には重点史跡に含めて基壇復元展示する案でも出ているのか、その範囲調査と周辺保持への施策が継続されていると聞きます。足利義満が果たせなかった壮大な夢のひとつの跡ですから、現状のようなただの園路ではなく、しかるべき状態で保全を図っていただきたいと思います。

 

 参道に戻って東口を出ました。一般の観光客ならばこれで金閣寺観光は終了となりますが、私にはあと一つの探索テーマがここからスタートするので、これで鹿苑寺散策は終了、ではありませんでした。  (続く)

 

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