有栖川宮邸跡から少し東へ行ったところで、ベンチに腰かけて休憩をとり、お茶を飲みました。林間を吹き抜けてくるそよ風が、歩き回って汗ばんだ体をゆっくりと冷やしてくれました。スタートしてからずっと歩き続けでまだ弁当も食べていなかったのですが、空腹感はまだありませんでしたから、10分ほど休んだ後にまた歩きました。
仙洞御所の築地塀にそって南下し、次いで東へ折れて上図奥の寺町御門を目指しました。次の目的地も御苑の外、寺町御門の近くにありました。
次の目的地、旧九條邸の門です。現在は鴨沂(おうき)高校の表門として保存されています。もとは近くにあった九條家河原町邸の門で、最初は土手町の河原町通に面して建っていたものが、明治三十三年(1900)に現在位置に移築されています。説明板が見当たらなかったので詳細が分かりませんでしたが、建物の細部の意匠を見る限りでは江戸後期の建築であるようです。
ですが、公家屋敷の門で左右に潜り戸をもつのは珍しい形式です。武家屋敷の門であれば左右に潜り戸を持つのは一般的だが・・・、と思いつつ細部をよく見ると、向かって右側の潜り戸が土塀とともに構造材が新しく見え、門柱への組み付け部が後からの追加になっているので、右側の潜り戸は移築に際して門の機能を拡張するために追加されたものではないか、と推定しました。
鴨沂高校は、その前身であった新英学校及び女紅場が、土手町にあったかつての九條家河原町邸をそのまま利用して明治五年(1872)に開校したのに始まります。その後明治33年に校地が丸太町通を飛び越して現在地に移転しましたが、その際に九條家河原町邸時代より引き継がれた表門、茶室も移され、いずれも現存しています。
特に茶室は、これも現存する江戸期の公家屋敷茶室の遺構として貴重です。明治二十三年(1890)に京都府高等女学校と称していた時期に、当時の裏千家第13代宗匠の円能斎鉄中が教員として務め、女学校教育の中に茶道を取り入れる事に注力したといいます。そのゆかりの茶室なので、時折校内行事の関連で公開されることもあると聞きますが、一般公開はなされないようです。
旧九條邸の門を見た後、引き返して寺町御門から再び御苑内に戻り、富小路休憩所へ立ち寄ろうとしましたが、コロナ禍により休業中でした。それでラストの目的地、上図案内板が立つ堺町御門(さかいまちごもん)へ行きました。
堺町御門に着いた時点での撮影です。門の両脇にも建物が付属しているのはここだけですので、外観もなかなか見ごたえがあります。一見すると近世城郭の城門の構えのように感じられます。
いったん門をくぐって外に出て、外側からの正面観を撮りました。この堺町御門は、京都御苑の内と外とを隔てる外郭九門と呼ばれる門のうちのひとつで、京都御苑の南側に位置し正門と認識されています。
両側に門番所の建物がつく立派な構えです。この左右の門番所は明治33年(1900年)の増築部分になります。江戸期までは堺町御門のみで現在位置より50メートルほど北に建っていましたが、明治期の京都御苑設置にともなっての再整備により、御苑の正門と位置づけられて門番所が追加されました。
以後、現在に至るまで時代祭等の祭事行列の出入口としても親しまれています。近年に門番所などの増築部分の解体および外観復旧修理が実施され、明治33年当時の姿を取り戻しています。
この堺町御門をもって、今回の京都御苑散策は終了しました。京都御苑はまだ二回目の訪問でしたので、見る物全てが新鮮で興味深く、個人的には京都の面白い穴場スポットとして捉えています。まだ未訪の範囲もあり、特に御苑内各所にある休憩所施設へはコロナ禍休業のためまだ行けておらず、2022年5月よりオープンする新休憩所施設や情報館もいずれ見ておきたいと思いました。
そして今回も休業だった大宮御所、仙洞御所の参観にもいずれは行きたいし、京都迎賓館も一般公開されているそうなので、三回目の訪問を2022年5月以降にしてそれらも見学しよう、と決めました。まだまだ楽しみが一杯あるところだぞ、と思った次第です。 (了)