廬山寺、梨木神社を経て、上図の清和院御門から再び御苑内に戻りました。それから大宮御所の築地塀を右に見ながら西へまっすぐ進みました。
まもなく右手に上図の説明板が見えてきて、近寄って一通り読みました。藤原時代の仏教美術を長く研究していた身ですので、土御門第という名称には数えきれないほど接していましたが、その跡地を実際に訪れたのは今回が初めてでした。
土御門第は、もとは宇多天皇を祖とする一条左大臣こと源雅信の屋敷地で、かつては平安京の土御門大路に面していたことに由来します。この道が大内裏の上東門から伸びる道であったために上東門殿とも呼ばれました。後に源雅信の娘の倫子と藤原道長が結婚し、源雅信の没後にその屋敷地を継承したのが、のちに土御門第と呼ばれたわけです。藤原道長はここを本宅としたため、その東側の鴨川沿いに菩提寺の法成寺を建立することになります。
そして藤原道長は後に後一条天皇の摂政を務め、ほどなく太政大臣に達し、三人の娘を次々に皇室に嫁がせて外戚となりました。寛仁二年(1018)10月16日、道長の三女威子が後一条天皇の中宮になった日、ここ土御門邸にて宴がひらかれて、道長が有名な望月の歌を披露したのでした。
この広い屋敷地のどこかで、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と歌ったわけです。
現代の感覚からすると増上慢の極みということにもなりますが、しかし当時の藤原道長は藤氏の長者でもあり、日本という国を気儘に操れるという最高のポジションに上りつめていました。その勢威にかなう相手は日本には存在しなかったのです。これに匹敵する権力をもった政治家は、他には室町期の足利義満ぐらいしか思い浮かびません。織田信長でも格下になってしまいます。
この藤原道長をパトロンとして日本美術史上最高の栄誉に輝き、前人未到の美的表現世界を体現せしめて宇治平等院に極楽浄土の結構を具現させたのが仏師定朝ですが、私の藤原時代仏教美術研究の中心がその仏師定朝の事績と彫刻世界でした。それで藤原道長のことも色々勉強したわけですが、その邸宅跡へはいままで全然行ったことが無かったのですから、我ながら可笑しくなって笑ってしまいました。
土御門第邸跡の奥では、5月にオープンする予定の清和院休憩所の建設工事が進行中でした。5月になったら再訪しよう、と思いました。
続いて、斜め向かいの仙洞御所に寄ってみましたが、上図のごとく、コロナ禍により当面の間は公開休止ということでした。志摩リンふうに「おいマジか」と呟いてしまいました。
仕方がないので、斜め向かいの御所のエリアに向かいました。皇宮警察の黒いパトカーが私を追い越して走り去ってゆきました。常時パトロールしていて何度も御所の周囲を巡回していますから、この日の御苑散策中に5回ぐらいは見かけたと思います。
御所の南西隅に西面する建春門です。前回の御所参観では内側から見ましたが、今回は外からその立派な構えを見ました。
建春門は、御所正門の建礼門に次いで二番目に格式の高い御門です。唐破風を付けるのは、天皇専用の通用門であることを示します。江戸期の文久三年(1863)7月30日および8月5日に、会津藩等の天覧馬揃え(天覧の軍兵訓練)がこの門外で行われたことで知られます。時の孝明天皇はこの建春門の北側に臨時に建てられた桟敷より馬揃えをご覧になったといいます。
嫁さんに「御所の建礼門や建春門を見るんなら、絶対に要りますよ」とすすめられて持参した双眼鏡が役に立ちました。格式の高い門には装飾彫刻も立派に設えられてあり、蟇股(かえるまた)や笈形(おいがた)などに刻まれたの花や動物などの様々な彫刻を見ました。あれは雲龍、こちらは獅子か、と順に見ていって、扉の花狭間(はなざま)と呼ばれる銀杏葉文様の透かし彫りをしばらく眺めて雅の装いの粋を堪能しました。
門の北へ続く築地塀です。その向こうの隅が、さきに行った猿ヶ辻です。築地塀自体をよく見ると、基礎の石積みがこちらに近づくほどに高くなっています。御所を含む御苑全体が僅かに北から南へ傾斜していることがよく分かります。
建春門の前から仙洞御所の方角を振り返りました。上図の築地の左端に見える門が参観入口となっている北門で、右奥に見える門が大宮御所正門です。今回は残念ながら公開休止となっていて参観がかないませんでしたので、公開再開の情報が入り次第、再訪したいと思います。 (続く)