大徳寺塔頭巡りの最初は、龍源院に入って表門から右手の上図の庫裏に向かいました。庫裏に拝観受付があるからです。
その庫裏の立派な建物を見上げつつ、U氏が「なんか、中世戦国期のものには思えんなあ、かなり新しく見える建物だな」と言いましたが、その見立ては正解でした。篤志の檀越の寄進によって昭和に建てられたものです。隣接する本堂の方丈が昭和41年(1966)に解体修理を完了し、併せて総合的防災設備工事も施したのにあわせて庫裏を新築したとききます。
その庫裏の煙出しまでの吹き抜け空間を、U氏とともに見上げました。小屋根組みの部材に一部古い材が使われているのが見えたので、おそらく以前の庫裏の建物の古材とかを再利用しているのでは、と思いました。
庫裏は南側に書院を併設しており、その境目を上図の廊下が通ります。それがそのまま拝観順路でした。
廊下から南の書院へ行ってその南縁に出ました。
書院の南の石庭の西側には、上図の黒っぽい礎石のような石が据えられて白砂の円と草葉の間に挟まれていました。
石庭から土塀越しに本堂の玄関である唐門が望まれました。本堂の附玄関として同じ永正年間(1504~1520)に建てられたもので、室町期の正統的な折玄関の遺構として国の重要文化財に指定されています。
U氏が「石庭の説明文があったぞ」と言うのでそちらを見ました。なんだか名前負けしそうだな、別名の阿吽の石庭のほうで充分じゃないか、と思ったりしましたが、さきに見た礎石のような石が聚楽第の遺品とあるのには「えっ!」となりました。
この黒っぽい礎石のような石が、聚楽第の礎石・・・ですか。単なる言い伝えかもしれませんが、何でもないところや見落とされがちな場所に本物がさりげなく存在していたりするのが京都の奥深さのひとつですから、これは違うと言いきれない遺品が多いのも事実です。大徳寺には豊臣秀吉も大いに関与していた歴史が知られますから、聚楽第の遺品が全く無いとは言い切れません。
そして石庭の反対側、東側にも似たような礎石がありました。これも聚楽第の遺品と伝えていますが、個人的にはもっと古い時期の礎石じゃないかな、と感じました。六波羅蜜寺の境内地にあった六波羅探題の礎石と伝えるものに雰囲気が似通っている気がしました。
書院の床の間を見ました。U氏が「おい、エスピンガルダがあるぜ」と指さしました。
確かにエスピンガルダでした。先込め式火縄銃のことです。戦国期当時は南欧系の火縄銃をそう呼んだそうです。長いのと短いのとがあって上下壇に二挺並べてありましたが、U氏が「おい星野、下の銃が古いよな」と言いました。私も同意見でしたから、頷きました。
種子島伝来初期の火縄銃は比較的大型で、上図上段の短いほうが堺や国友などで小柄な日本人向けに改良されたタイプです。「台カブ」と呼ばれる床尾が短く造られるのが特徴のひとつです。
火縄銃の説明文です。U氏が「ふーん、元目当が近いのも古い要素なのか」と感心していました。目当(めあて)とは照準器のことで、火縄銃の場合は銃口上につく「先目当」と火鋏や火皿などの機関部の前につく「元目当」の二つがあり、前者が照星、後者が照門にあたります。両方の目当てを一直線上に見据えて狙いを定めるわけです。そのうちの「元目当」が機関部寄りになるほど古い時期の銃である、というのは私も初めて知りました。
いずれにしろ、天正十一年(1583)の銘があるとなれば、最古クラスの遺品です。この年は賤ヶ岳合戦があり、柴田勝家が北ノ庄にて滅亡し、羽柴秀吉が大坂に築城を始めた年にあたりますから、まだ戦国期真っ只中です。当時の火縄銃は完全な実用品で同時に消耗品でもありましたから、使われて捨てられて鋳つぶされて、という繰り返しで古いものはドンドン新品に換えられてゆくのが普通でした。
だから、その頃の火縄銃が残るというのがどんなに稀なことかがよく理解出来ます。こちらの遺品は在銘であることから、実用品ではなくて最初から寺への奉納品として造られておさめられたものかもしれません。
そういえば、平成17年に盗難にあい、程なく犯人が逮捕されて戻ったという大徳寺の日本最古の火縄銃の話を聞いたことがありますが、この遺品がまさにそれでありました。 (続く)