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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

紫野大徳寺7 興臨院の方丈と茶室

2022年06月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺塔頭の興臨院の続きです。折玄関廊より本堂の方丈を見ました。室町後期の典型的な方丈建築の様相をよく伝えています。昭和五十年(1975)より三年間の解体復元修理を受けて、玄関、表門とともに創建時の姿を取り戻しました。いずれも国の重要文化財に指定されています。

 寺伝では天文二年(1533)頃の創建としていますが、修理前の発掘調査にて本堂のほぼ全ての礎石が火災に遭ったことが確認されており、創建直後に本堂が焼けて、その後すぐに再建されたのが現存の建物であることが判明しました。その最初の桧皮屋根の葺き替え工事が天正九年(1581)に行われた記録があるので、当時の檜皮葺屋根の葺き替えが約二十年毎であったことを考え合わせると、その二十年ほど前の永禄年間(1558~1570)には既に現存建物が存在していたものと推測出来ます。

 

 「龍寶山大徳寺誌」の「龍寶塔頭位次」という史料には、現存本堂の内部に江戸期まであった障壁画に関して作者が「古法眼」と記されます。古法眼とは狩野派二代目の狩野元信の通称ですが、彼は永禄二年(1559)に亡くなっていますので、本堂の障壁画が描かれたのはその前と分かります。したがって本堂そのものも、その前に建てられていたことがわかります。

 

 さらに本堂正面上方に掲げてある上図の寺号額にも本堂建築の建立時期を示唆するヒントがあります。額の右端に「為日本国天啓和尚」と記されていますが、天啓和尚とは大徳寺第九十四世住持の天啓宗歅(てんけいそういん)で、興臨院の開祖の小渓紹怤(しょうけいじょうふ 大徳寺第八十六世住持)の法嗣にあたります。
 その天啓和尚への為書(ためがき)が額に記されているので、天啓和尚の在世時に額が掛けられたことが分かります。天啓宗歅は天文二十年(1551)に亡くなっていますから、この額が本堂に掛けられたのはそれよりも前となります。額は本堂の完成直後に掛けられるものですから、現存の本堂の竣工時期も天文二十年(1551)より前であることが確定します。

 以上の事柄をまとめると、興臨院の現在の本堂は、天文二年(1533)頃に創建された最初の本堂が火災で失われた後に規模を同じくして再建され、天文二十年(1551)には存在していた事が分かります。大徳寺の史料のひとつ江戸期の「龍寶摘撮」にて、開基の畠山義総(はたけやまよしふさ)の創建堂が焼けた後に天文年間に畠山義総の孫の畠山義綱(はたけやまよしつな)が建立したとの記載があるのと一致します。つまり、現在の本堂は畠山義綱(はたけやまよしつな)の建立した建物であるわけです。

 

 本堂の前庭も、本堂と同時期のもので、修理復元工事によって往時の姿をよみがえらせています。寺の古文献にもとづいて復元されていますが、景石の大半はそのまま使用されているそうです。天文二十年(1551)当時にこのような姿であったかは分かりませんが、石のレイアウト自体は変わっていないようです。

 天文二十年といえば、その三月には三好長慶(みよしながよし)暗殺未遂事件があり、七月には相国寺合戦で三好長慶軍が細川晴元軍を撃破し、九月には周防の大内義隆(おおうちよしたか)が陶晴賢(すえはるかた)の謀反により自刃するなどの出来事があり、十月にはイエスズ会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本を離れインドへ帰っています。戦国争乱の戦雲が色濃くたなびいてきた頃ですが、この年に尾張では織田信長の父の織田信秀が病死しています。
 そんな物騒な情勢のもとで、このような庭園を丁寧に造営していたのですから、戦国期においても大徳寺山内は平和であったということでしょうか。

 

 U氏が特に熱心に観察していた、本堂正面中央の双折桟唐戸(ならびおりさんからど)の外扉板です。御覧のように唐草の透かし彫りが斜め格子にちりばめられて一種の美麗さを醸し出しています。室町期の建築装飾意匠の全盛期の遺品に比べるとやや粗っぽさが感じられますが、それも戦国争乱期の殺伐とした空気を反映しているのでしょう。

 

 扉に貼ってあった説明文です。本堂の再建時期を天文二年(1533)頃としており、創建の堂が火災で焼けた後にすぐ再建したとする従来の認識のままになっています。京都に限らず、古社寺の遺構の説明文には、こうした古い認識や学説のままの内容が多いので、そのまま鵜呑みにしてしまうと、最新の研究成果や学術調査成果との隔たりが大きくなってきて、歴史への理解も歪んで正確さを失ってしまいます。注意が必要です。

 

 本堂前縁に立って、玄関廊のほうを見ました。U氏が「ただの廊下なのに贅沢に造ってあるよなあ」と感心していました。

 

 確かに贅沢な造りです。玄関からの通路空間の屋根は、当時は簡素な板葺が一般的であったらしいのですが、興臨院においては本堂と同じく檜皮葺とし、壁も漆喰の白亜塗りとしています。床面も四半瓦敷きで仕上げて水はけ効果を高めてあります。戦国争乱の時期の建物ですが、室町幕府全盛期の平和な時期の建物のような雰囲気です。

 

 本堂の西側に回りました。U氏が「能登守護職修理大夫参るうぅぅぅ」と妙な節で低く唸り、なぜか軒下の疎垂木(まばらたるき)を指さして、「エヘヘヘ」と不気味に笑うのでした。能登守護職修理大夫、とは現本堂を建立した畠山義綱(はたけやまよしつな)の公称なので、なりきっていたのでしょう。はたから見ると奇人変人の類です。

 

 ここでも紅葉が見事でした。

 

 本堂背面を庫裏へと回りました。御覧のように背面東側の一部が北縁に突き出ています。手前の開け放たれた障子口から中をのぞいて、方丈建築の空間の一部「眠蔵(めんぞう)」であることを確かめました。U氏が「メンゾウって、納戸のことかね」と思い出しながら言ったので、大きく頷いておきました。納戸や後室の空間を北に拡げる手法は、室町後期から戦国期の建築によくみられます。

 

 庫裏の北側に隣接する茶室の「涵虚亭(かんきょてい)」です。昭和三年(1928)に実業家の山口玄洞が寄進建立したものですが、基本設計には古田織部こと古田織部助重照(ふるたおりべのすけしげなり)の「織部好み」とされる意匠表現が織り込まれているそうです。

 

 「涵虚亭(かんきょてい)」は庫裏から通廊でつながっていて参拝順路に含まれるので、内部を見ることが出来ます。昭和の建築で文化財指定を受けていないせいもあるのでしょうが、大徳寺山内の塔頭にて茶室までが公開されている所はあまりないので、ある意味必見の見どころかもしれません。  (続く)

 

コメント
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