本丸の天守台に登りまして、周囲を見回しました。嫁さんも私も、天守台に登るのは今回が初めてでしたので、本丸を中心とした四方の景色がいずれも見応えがあって、20分ぐらいはとどまって眺めていました。嫁さんは北に見える上図の西門跡を最も長く見ていました。
「あの西門跡も張り出してますねえ、東の櫓門よりも張り出しが広いですねえ、お城の本でよく見かける枡形(ますがた)っていう部分はああいう場所ですか?」
「うん、あれも枡形やな。基本的には、動線を二度直角にクランクさせて、敵が城内にストレートに進めないようにしたものを枡形というの。城の出入り口を虎口(こぐち)というんやけど、その虎口の動線を枡形にしたものを枡形虎口と呼ぶの」
「ふーん、枡形虎口、ですね」
「そう、一般的に枡形虎口は塀や石垣で区切った四角い空間に二つの門を配置して造られる空間なんやけど、あの西門もそういう枡形虎口の構えになってた。いまは門や建物が全然残ってへんけれど、江戸期はあの橋が架かってる内側に門があって、内側の石垣の塁線上に建ってた多聞櫓の真下に門があったから、二重の門構えになってた。古絵図ではどちらも「御門」と書かれてるんで、東櫓門みたいに「二階御門」とは書いてない」
「あっ、だからさっき東櫓門のところで、西も同じ櫓門かどうかは分かんない、て言ってたわけですね」
「うん、枡形虎口としては西側のほうが防御効果が高い。門と門の間の空間が広いから、一定の人数を配置出来るし、ここ天守台からもこう、見下ろせるやろ、ここから火縄銃で撃っても充分に届く。向こう側の隅にも三階建ての櫓が建っていたから、西の門は両側の天守閣と三階櫓からもガードされてたわけ」
「うん、分かります。めちゃめちゃ護りが固い門ですねー」
その西門から内側にも門を経て通路がクランクしていて、江戸期は多聞櫓と本丸御殿の土蔵とにはさまれた通路空間が東の櫓門の内側の通路空間に繋がっていました。
そのため、本丸へ侵入した敵はその狭い通路空間に閉じ込められて三階櫓や多聞櫓から迎撃にさらされ、本丸御殿の土蔵が塀代わりになっていましたから、本丸御殿に入ることも難しく、東西の門の守備兵の反撃を受けて相当のダメージを受けます。
かつての本丸御殿は、いまのような旧宮家の御殿建築とは違って、戦闘時には防御区画として機能するように造られていましたから、天明の大火の飛び火で焼けてしまわなければ、現在も国宝指定を受けて見られたかもしれません。
残念ですねえ、と嫁さん。
天守台から西の南寄りには上図の細長い建物が見下ろせます。城内に幾つかあった米蔵のひとつ、南米蔵です。北に位置する北米蔵とともに寛永改修の本丸増築時の建物で、国の重要文化財に指定されています。
それから東の端へ移動して東の景色を見ました。本丸を囲む水濠の静かな水面が鏡のように見え、に木々の影や建物の姿が水面にも写っていました。嫁さんが「そういえば」と私を振り返りました。
「ここに建っていた天守閣、説明板では寛延三年(1750)に落雷で焼失、とありましたけど、伏見城からの移築だったらしいですね」
「まあ、そういうことになってるな」
「それで思ったんですけど、慶長の築城の時に二の丸の北西隅に建ってた天守閣はどうしたんですか?こっちに移さなかったんですかね?」
「ああ、それはな、寛永改修の時に淀城に移築したということになってる。確か、淀城天守閣は指図とかの古絵図が残されてるんで、建物の形や構造が判明していると聞いた」
「ふーん、なんで淀城へ移しちゃったんですかね」
「そりゃ、二条城の寛永改修よりも前に淀城の築城が始まってたからね。秀忠の側近、久松松平家の越中守家綱が淀に入部して、廃止された伏見城に代わる山城国の重要拠点として淀城を築いてたんで、これが元和九年(1623)やった筈。二条城の改修が始まったんはその翌年からなんで、江戸幕府としては、山城国での布石として淀城の築城と二条城の改修をセットで進めていたことになるわけ。だから二条城の最初の天守閣は淀城へ、というのも計画のうちにあったんやろうと思う」
「でも、でもですよ、淀城からみたら伏見城のほうがうんと近いじゃないですか、伏見城の天守閣を移せば楽でいいのに、わざわざ遠くの二条城から移してきて、伏見城のもわざわざ遠くの二条城へ持っていくって、かなり手間とか費用を無駄にかけてるような気がするんですよねえ」
「おー、君もそう思うか・・・、そうなんや、そうなんやよ・・・僕も同じことを思ったの。淀城の天守閣以外の建物はだいたい伏見城からの転用だったらしいので、なんで天守閣だけ別にしたんだ、って思った。どうしても二条城へ持っていかないといけない理由があったんかな、って調べてみたんやけど、全然分からないままなの・・・」
デジカメの望遠モードで、東の桃山門や二の丸御殿の建築群の一部を引き寄せて撮りました。江戸期には本丸の石垣の上にぐるりと多聞櫓が続き、四隅には櫓および天守閣が建っていましたから、いまのような景色とは違ってもっと迫力がある城郭の構えの景色が望まれた筈です。二条城においても、失われた部分がかなり大きいのだと改めて理解出来ます。
天守台を降りて、本丸庭園の園路を歩きました。
本丸御殿へと向かいました。今回の一般公開は予約制で、時間ごとに人数を限って順番に見学するシステムでした。予約は全部嫁さんがやってくれましたので、私はついていくだけでした。
本丸御殿の玄関口は西側にあります。もとの本丸御殿は先述のとおり玄関口が東側にあって、東櫓門からの虎口空間に連接していましたから、いまは建物も配置も全然違っていて玄関口も反対側になっていることが分かります。
おかげで、二条城の最終防御区画にあたる本丸の本来の様子や城郭としての構えが、いまでは分かりにくくなっています。文化庁はそのあたりは放置しているようで、昔さかんに論議されていた本丸地区の一部の復元案というのも、立ち消えになったままです。
本丸御殿の案内説明板です。これを読んだ後、係員の誘導で本丸御殿に入り、見学しました。内部の撮影は禁止でしたので、一切の画像はありません。
約30分ほどで本丸御殿の見学を終えました。嫁さんは大満足だったようで、やっと旧桂宮邸の御殿建築を見ることが出来ました、と御機嫌でした。もとは京都御苑の旧桂宮邸跡にあったのを移築していますが、また元の場所へ移築して復元整備したらいいのに、などと話していました。
嫁さんの言うように、いまの本丸御殿を再び旧位置に戻すことが出来れば、これまで不可能だった本丸地区の発掘などの学術調査、および江戸期本丸御殿の復元が可能となります。近年に復元が成った名古屋城本丸御殿よりも規模が大きくて立派だったとされる二条城本丸御殿ですから、その勇姿を見てみたいものです。
上図は西門跡の虎口空間から北の水濠と北米蔵をみたところです。
そして南には、本丸の石垣塁線と天守台が見えます。さっきまで登っていた天守台です。嫁さんが「あそこから火縄銃で撃てる、って聞きましたけど、西門に届くんですか?」と聞きました。
「江戸期の火縄銃は、確実に当たる有効射程距離がだいたい100メートル以内と聞くけど、角度をとって大きく弓なりに弾を飛ばしたら500メートルぐらいはいくらしい。命中率は思いっきり下がるけどな」
「ふーん」
「むしろ弓矢のほうが効果的かもしれん。和弓なら有効射程は200メートルぐらい、伸ばせばもっといくかも」
「そしたら天守台からも西門に届きますねー」
「せやから天守閣が西側に配置されてるのは、西門の防御を意識してると思う」
「うん、よく理解出来ましたー、お城っていろいろ面白いですねー」
西橋を渡りながら西門の枡形虎口の空間を見ました。東櫓門の虎口よりも広くて、動線が左にクランクするのが分かります。奥に壁の如くそびえる高い石垣の上にはかつて多聞櫓が続いていましたから、その狭間から放たれる弓矢、鉄砲の射線が西門をカバーしていたことも分かります。
西の「御門」は現存する東の門と同じ櫓門形式であったかどうかは分かりませんが、普通の二脚門または高麗門であったとしても、その固い枡形虎口と周囲の櫓からの防御射撃による効果により、護りがきわめて堅固であったことが伺えます。
ひょっとすると、東門よりもこちらの方がガッチリかも、と嫁さんが話していましたが、同感でした。 (続く)