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魅惑の醍醐寺5 醍醐寺清瀧宮へ

2024年11月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年10月17日、久しぶりに醍醐寺へ出かけた。ビーノでのんびりと走って30分ほどで北門をくぐり、北の参拝者駐車場の脇にビーノを停めた。その際に北門へと続く白い土塀を撮ったのが上図である。

 

 この白い土塀は醍醐寺塔頭の理性院(りしょういん)のそれである。理性院には2023年春の特別公開で初めて入って、書院の狩野探幽の壁画や本堂の建築、本堂内陣安置の秘仏大元帥明王の厨子および国重要文化財の不動明王像など、興味深い文化財の数々を拝観して色々と新たな学びや気づきを得させてもらった。

 

 その理性院の山門前で立ち止まり、一礼した。門内の石畳道の奥に横たわる石仏群の赤い前掛けが鮮やかに望まれた。そして、なんとなく、真言密教の秘奥義のひとつとされた大元帥法がここ理性院に伝承されていることの意味に思いを馳せた。

 大元帥法(たいげんすいほう)は、真言密教において怨敵や逆臣の調伏および国家安泰を祈って修される法である。平安初期の承和六年(839)に入唐八家(にっとうはっけ)のひとり常暁(じょうぎょう)が唐から請来して山背国法琳寺(ほうりんじ)に伝えたのが初めである。その翌年に常暁は大元帥法の実施を朝廷に奏上して認められ、仁寿元年(851)に太政官符により大元帥法の毎年実施が正式に決定された。
 以来、毎年の正月に宮中の治部省にて催され、明治まで続けられた。儀式に必要な備品などは常暁ゆかりの大和国秋篠寺が調達する慣わしであったが、その秋篠寺にも大元帥明王を祀る堂とゆかりの閼伽井があり、秘仏の鎌倉期の大元帥明王像(国重要文化財)が祀られる。

 私自身は奈良市に長く住んでいたが、そのうちの20年余りは秋篠町に住して秋篠寺の近隣であったため、その秘仏大元帥明王像を6月6日の公開日に拝見するのが毎年の習慣であった。
 秋篠寺もかつては真言密教の拠点として常暁とも接点があり、その坐像が大元帥明王像と同じ大元堂にまつられているのを毎年拝んでいたので、大元帥法についても関連論考を幾つか渉猟(しょうりょう)して一通りの知識は得ていた。

 それで、当然ながら法琳寺、醍醐寺理性院の名も知っていたが、前者は中世期に廃絶して遺跡も定かではなく、後者は昨年初めて拝観の機会を得たばかりである。大元帥法が如何にしてここ理性院に伝承されたのかについても知りたかったが、その契機なり資料なりには、未だ接していないままである。いずれ法琳寺の遺跡とともに、詳しく追究してみるべきかな、と思いをめぐらせた。

 

 理性院の山門前を過ぎて少し伽藍域に近づいた左側に、上図の鳥居が建つ。醍醐の氏神とされ、醍醐寺伽藍の鬼門を守る鎮守社の地位にあった長尾天満宮の参道入口である。今回は時間の関係で入らず、通り過ぎた。

 

 醍醐寺の正門たる仁王門の前に着いた。西を正面とする下伽藍の正門に相当し、東に醍醐山の薬師瑠璃光浄土を望んで両脇を雄渾たる体躯の金剛力士像が護り固める。いつ参ってもこの門前に至れば襟を正し頭を深く垂れざるを得ない。

 

 受付を経て参道に進んだ。かつては両脇に諸塔頭の築地と門が並んだであろうが、いずれも廃絶して遺跡すら地上にはとどめていない。ただ、地表にとどめられる造成面の痕跡が、緩傾斜地に並んだ塔頭の境内地の地形を偲ばせる。

 

 それらの塔頭跡の大部分は、いつしか「醍醐の杜」と呼ばれて、かつては深い境内森林の下に静まっていたのだが、平成30年の台風にて木々がなぎ倒されたという。いまはそれらの倒木も除去されて、跡地の一角には上図の説明板が立つ。

 文中の「復興」とは、植栽および育成による「醍醐の杜」の復原を指すのであろうが、少なくとも百年単位の事業になるものと思われる。並行して諸塔頭の遺跡の発掘調査などが行われれば、未だに不明の部分が少なくない醍醐寺の歴史に数条の解明の光がもたらされるかもしれない。

 

 かつての「醍醐の杜」の現状である。上図の範囲には無量光院や灌頂院が存在したというが、後者はいまの三宝院の前身であるといい、その区画だけでも調査すれば、三宝院の不明な前史についても何らかの手掛かりが得られるかもしれない。

 

 無量光院跡の東には、上図の清瀧宮本殿が建つ。延長四年(926)に創設されたここ醍醐寺下伽藍の本来の計画には無かった施設であるが、醍醐山上の上醍醐に寛治二年(1088)に創建された清瀧宮より、永長二年(1097)に分祀してここに創建したものという。

 当時の社殿は文明年間の兵火で焼失、現在の上図の建物は永正十四年(1517)の再建である。国の重要文化財に指定されている。

 

 その東には上図の拝殿が建つ。現在の建物は御覧のように桁行(けたゆき)、梁間(はりま)とも三間の規模であるが、元の建物は宝暦十三年(1763)の指図によれば桁行が七間あったというから、その後に規模を半分以下に縮めて建て替えられたことが分かる。その建て替えの時期は不明だが、建物の形式からみて江戸期半ば以降であろうと推測される。

 

 再び西に転じて本殿に横から近づいた。本殿は乱石積(らんせきづみ)の基壇上に建ち、四周には透塀(すかしべい)を巡らせて東に向き、正面中央に幣門を置く。その左右には摂社が2棟ずつ配置されており、北から白山社、横尾社、黒保社、八幡社という。

 このうち、白山と八幡は分かるが、横尾と黒保は京都ではここにしか無い珍しい神様であるという。個人的には横尾と聞くと信州上田の諏訪神の別名だったかな、と思い、また黒保というのは上州赤城山の神奈備の古称だったかと思い出す。中世期に醍醐寺を軸とする真言宗の勢力が当山派修験の活動によって東国にも及んだ歴史と無関係ではないように思う。

 

 本殿をデジカメのズーム機能で引き寄せて見、撮った。典型的な三間社流造の建物で、懸魚(げぎょ)の左右の雲形(くもがた)が丸く広がる点に室町期の特色を示す。永正十四年(1517)の再建というのも頷ける。

 祭神の清瀧権現(せいりょうごんげん)は、仏教においては善女龍王(ぜんにょりゅうおう)と呼ばれ、教義的には中国密教の守護神と位置づけられて「清龍」と称された。唐の長安青龍寺の鎮守となっていたのを、弘法大師空海が勧請して京都洛西の高雄山麓に鎮座せしめたのが、日本における清瀧権現の創祀であった。のちに入唐八家のひとり恵運(えうん)もこれを山階の安祥寺に勧請しているが、昌泰三年(900)頃に理源大師聖宝(しょうぼう)がこれを醍醐寺山頂に降臨せしめ、以後は醍醐寺の真言密教を守護する女神となったという。

 なので、こちらの社殿は里宮であって、本宮は上醍醐のほうにいまも鎮座する。久しぶりにそちらへもお参りに登るか、と考えたことであった。  (続く)

 


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