気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

二条城8 二の丸御殿 上

2025年02月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南門から再度唐門をくぐり、左の園路に進んで、二の丸御殿の外観を見てゆきました。嫁さんが「二の丸御殿を構成している六つの建物って、外見とかに違いはあるんですか?」と訊いてきたからでした。私自身もあまり考えたことが無かったので、じゃあ、見て行こうか、となりました。

 二の丸御殿は、周知のように徳川家康が慶長六年(1601)に造営しましたが、その当時の建築は殆ど伝わっていないとされています。現在の建築は、後水尾天皇の二条城行幸に備えて寛永元年(1624)から同三年(1626)までに行われた大改修を経たもので、改修といってもほとんど新築に近いものでありました。

 なので、現在の御殿は寛永の大改修時の状態を伝えており、内部の設えや障壁画についても寛永期の作であることが近年の研究で明らかになっています。

 

 二の丸御殿の南からの三つの建物を見ました。右より「遠侍」、「式台」、「大広間」です。江戸期の古絵図にはそれぞれ「御遠侍」、「御式台」、「御広間」と記されています。

 

 そのうちの「式台」の手前まで近づくことが出来ます。園路は「式台」の手前の柵までとなっており、上図の右前に柵が見えます。

 「式台」は、二つの部屋から成ります。南側の「式台の間」と北側の「老中の間」があり、ここで老中と大名が挨拶をかわし、将軍への取次ぎが行われました。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。

 ちなみに徳川将軍家以外の諸家諸藩の城の御殿は、復元図や古絵図資料などを見ますと、「式台」と「遠侍」が逆であったり、「遠侍」に該当する建物が別になっていたりします。
 諸藩の御殿の基本形式は徳川家のそれに倣ったとされていますが、その場合、いまの二条城二の丸御殿のレイアウトが基本タイプと見なされますので、それを参考にしてゆくと、諸藩の城の御殿の様子や特色がある程度わかってまいります。

 

 「式台」の横から「遠侍」を見ました。「遠侍」の右奥に玄関である「車寄」の檜皮屋根が見えました。

 「遠侍」は二の丸御殿の六棟の建物のなかで最も規模が大きく、内部も九つの空間に分けられます。二の丸御殿を訪れた人がまず通されて、対面を待つ場所です。 来客の身分や職制に応じた部屋割りがなされ、一の間から三の間、柳の間、若松の間、芙蓉の間、そして勅使の間があります。
 それぞれの部屋の襖や壁には金地の障壁画「竹林豹虎図」が描かれており、虎之間とも呼ばれました。

 

 こちらは「大広間」です。二の丸御殿の諸建築のなかで最も格式が高い建物です。徳川将軍家の表向きの対面に用いられた公式的かつ儀礼的空間であり、将軍が諸大名と対面する際に使用されました。内部は五つの部屋に分かれ、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間から成ります。

 

 「大広間」の外装は障子戸で統一されています。縁側が回りますが、基本的に縁側へ出るとか、縁側に上るとかのケースはあまり無かったそうで、障子戸を開け放って庭園を鑑賞する際にも廊下から眺めたといいます。
 その場合は縁側の下に護衛の侍が控えており、縁側があることによって彼らの姿が廊下から見えないようになっていたといいます。

 

 嫁さんが「式台」と「遠侍」の連接部の西側に付く上図の黒っぽい施設を指して「あれ何ですか?将軍家の隠密の部屋?」とのたまいました。ただの戸袋や、と答えると「トブクロ、ってなに?」と再び訊いてきました。

 君は戸袋を知らんのか、障子や雨戸を収納するための箱状の施設やけど、と教えると「ふーん、宮廷建築にはあんまり見かけない施設なので分からなかった・・・」と言いつつ、メモに書き込んでいました。

 そういえば、嫁さんの専門である平安期からの宮廷建築、皇族の宮殿や公家の邸宅建築には、こういう戸袋はあんまり無いな、障子や雨戸自体が武家建築の書院造のパーツだったなあ、と思い出しました。

 ですが、中世以降の宮廷建築や公家邸宅建築には逆に武家建築からの影響があったりしたようで、江戸期の建築になると書院造の基本パーツも武家と公家であまり違いがなくなってきます。

 

 二の丸御殿の西側に広がる庭園の苑池です。これも寛永の大改修によって造り替えられたもので、「八陣の庭」とも呼ばれます。典型的な池泉回遊式庭園の形式で、小堀遠州の代表作として挙げられています。

 

 「大広間」の北に繋がる「蘇鉄の間」の建物を見ました。「蘇鉄の間」は「大広間」と「黒書院」を繋ぐ廊下殿で、外の西側に広がる庭園に蘇鉄が植えられているのが見えるようになっています。

 ちなみに、蘇鉄とは、熱帯や亜熱帯地域に自生するソテツ科の植物を指します。「生きた化石」と呼ばれ、原始的なシダ植物の形態を残した起源の極めて古い植物です。

 日本では蘇鉄は、九州南部より以南の地域に一種だけが自生するとされ、関東より南の地域では、路地植えの庭園樹木として古くから親しまれてきた歴史があります。京都でも古社寺の歴史的な庭園や京町家の庭木として数多くみられ、有名な所ではここ二条城の蘇鉄のほか、京都御所や仙洞御所、桂離宮、西本願寺の大書院庭園などの蘇鉄が有名です。
 城郭では、各地の主要城郭の御殿の区画に植えられたものが現存している例が多く、大阪城や岡山城、掛川城、川越城などに見られます。

 

 なので、ここの「蘇鉄の間」も、庭園の蘇鉄を鑑賞するための空間であったと言えるでしょう。この建物だけが障子と板戸とを交互に並べているのも、歩きながら庭園鑑賞が出来るように障子を等間隔で開けるからです。

 

 「蘇鉄の間」の北には、上図の「黒書院」があります。その連接部にも戸袋が設けてありますが、嫁さんはわざわざ指差して「とぶくろ」と声に出し、「よし覚えましたよー」とのたまうのでした。  (続く)

 

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