玉鳳院を辞して、次の特別公開寺院である寿聖院へ向かう途中、上図の大方丈の前を通りました。大方丈は江戸期の承応三年(1654)の再建で、内部の障壁画は狩野探幽、狩野洞雲ら狩野派の筆になります。入母屋造、檜皮葺の典型的な方丈建築で、国の重要文化財に指定されています。
大方丈の玄関にあたる唐門も堂々たる構えです。普段は閉じられていて、勅使の参向、住持の入山、の儀式の時のみ開かれます。
それで、左にある上図のもう一つの唐門が、通常の玄関として使われています。 これも江戸期の承応三年(1654)の再建で、玄関口の前に唐破風を備えた真前唐門を置く形式となっています。国の重要文化財に指定されています。
その左隣にみえる建物は、寝堂と呼ばれる建物で、もとは客間にあたる施設でしたが、現在は法堂で儀式が行われる際の控えの間として用いられています。江戸期の明暦二年(1656)の建立で、国の重要文化財に指定されています。
寝堂の渡り廊下の下をくぐって西へ進み、上図の大庫裏の建物を通用門からのぞきました。U氏が「あれはちょっと古めかしい雰囲気がするけどな」と言いましたが、その通り、妙心寺においては古いほうの建築にあたります。室町期の享禄元年(1528)の再建で、江戸期の承応二年(1653)に改築されています。屋根は、元は杮葺きでしたが、文化五年(1808)に瓦葺きに改められて、現在に至っています。国の重要文化財に指定されています。
大庫裏の西側から北総門への石畳道をたどり、金牛院の辻を西へ折れて、少し進むと、上図の寿聖院の特別公開案内板が見えてきました。この塔頭は今回が初の特別公開であるようでしたが、石田三成ら石田家の菩提寺として昔から知られ、境内の一角にある石田家墓所のみは昔から参拝可能であったと聞きます。
寿聖院の山門です。U氏が「ついに来たな」と感慨深げに呟いて、門前で小さく一礼しました。私もそれに倣いました。
U氏が楽しみにしていたのが、ここの石田家墓所でした。山門脇の標柱には、石田三成一族菩提所、と刻まれています。
山門をくぐって正面には庫裏玄関がありますが、その前を左へ進みました。
そして再度左に曲がって、土塀の間を抜けると、上図の石田家墓所に入りました。そこでU氏はぴたりと立ち止まり、墓所全体に向かって深々と頭を垂れました。
U氏の出身地の茨城県はもと常陸国、石田三成とは仲の良かった佐竹義宣の本拠地ですから、U氏も当然ながら関ケ原戦の西軍びいきです。佐竹義宣は、東軍に属しながらも三成への義理を通して西軍に与した、超のつく律義者であり、その律儀さに徳川家康も困惑し、結果的には改易を思いとどまって秋田への転封にとどめています。
そんな佐竹義宣を尊敬しているU氏ですから、佐竹義宣の盟友であった石田三成にも尊敬の念を抱いているわけです。
そして上図の石田三成の墓塔の前に進み、恭しく御辞儀をして合掌し、小声で「関ケ原役の西軍の総指揮の御勤め、御苦労様でした・・・」と話しかけるU氏でありました。 (続く)