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龍と仁と天と14 天龍寺方丈の本尊の謎

2022年08月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 今回の天龍寺での拝観範囲は、内陣に本尊像を安置する大方丈のみに絞った。賑わう石畳道を真っ直ぐに進み、拝観受付のある上図の庫裏に向かった。

 

 受付にて拝観料を支払って中に進むと、天龍寺前管長の平田精耕師の筆になる大衝立の達磨図が迎えてくれた。同じ作になるもう一幅の達磨図が奥の書院に掛けられるが、そちらの法衣は天竺以来の黄に表される。対してこちらは朱の法衣につつまれて日本独特の雰囲気を醸し出す。
 朱の色は、古代より日本では魔除け、火除けとして崇められ、古社寺の建築塗粧にも用いられる。上図の朱衣の達磨図にも、魔除けの祈りが込められているのであろう。
 達磨図の右奥の造り厨子内には韋駄天像が安置される。火盗双除伽藍守護を祈願しての像で、禅宗寺院には一般的にみられる仏像である。

 

 個人的には、この雲版(うんぱん)が面白かった。近世期まで禅刹で一般的に使用された梵音具の一種で、寺僧に時刻や合図を知られるのに使われた。輪郭を雲形につくるところから雲版の名で呼ばれるが、天龍寺のは丸くて殆ど円板というに等しい。下のほうに叩いた跡が円形の凹みとなって残っていた。

 

 大方丈の廻縁の北側に、庫裏空間との仕切りのように置かれた衝立の馬の図。

 

 大方丈の空間内に進んだ。建物は明治三十二年(1899)の再建で、正面と背面に幅広い広縁を持ち、さらにその外に落縁が巡らされる。落縁の南東隅には時鐘が吊るされている。

 

 大方丈と云うだけあって内部は広い。一見して六間取りと分かった。つまりは表に三室、裏に三室を拝した標準的な方丈形式で、大徳寺塔頭群の拝観でも同型式の方丈を幾つか見てきた。上図の中央が48畳敷きの「室中の間」で、本尊像を祀る内陣前の間にあたる。その左右の部屋はともに24畳敷きで、「室中の間」をはさんで表の三室を構成する。

 

 拝観順路は廻縁のみで表裏六室への立ち入りは出来ないため、ぐるりと縁側をたどりつつ「室中の間」を拝した。本尊像を安置する内陣は48畳敷きの奥であるから、廻縁からはかなりの距離がある。そのことは前回の拝観時に分かっていたから、双眼鏡を持参していた。

 

 本尊像に相対し拝礼する前に、頭上の扁額を仰いだ。大方丈東側の正面に懸けられた「方丈」の雄渾な筆致は、天龍寺二百四十一世にして第八代管長の関牧翁師のそれである。

 

 それから息を整え、しばらく瞑目し合掌して祈った後、双眼鏡で本尊の釈迦如来坐像を拝した。内陣仏壇は垂れ幕と柵に囲まれるので、像容は上図のように肩以下より膝部までがなんとか見える程度である。そのことは分かっていたから、以前に国重要文化財の集成の図版にて尊容を把握しておいた。しかし、図版を見るのと実像を拝観するのとは見え方も情報も全然違うから、やはり一度は拝観しておかねば、前に進めない。

 果たして、図版の印象とはどの程度違うかな、と思ったが、実見すると相当の乖離が感じられた。図版写真では絶対に分からない、定朝様式展開の最終段階とおぼしき円やかな起伏と滑らかな彫りのタッチがありありと見てとれた。仏像彫刻史専攻にして研究対象のメインが藤原期の定朝仏およびその周辺の仏像であった私の胸に、瞬時にして感動と確信とが広がった。念のためもう一度双眼鏡をのぞき、間違いない、上限は11世紀後半期になるな、と考えた。

 

 そうなると、この像がなぜ天龍寺に在るかという問題にどうしても直面せざるを得なかった。周知のように天龍寺の創建は室町期の康永四年(1345)であるから、いま11世紀後半から12世紀初頭ぐらいと視た本尊の釈迦如来坐像とは約200年もの隔たりがある。天龍寺本来の仏像でないことは明らかであった。

 したがって、他から持ち込まれたか、天龍寺開創以前にこの地にあった幾つかの寺の旧仏を引き継いだか、の二通りの可能性が考えられる。当地には平安期には檀林寺や舎那院など、幾つかの寺院や草堂があったことが史料や古絵図から知られるが、いずれかの寺の仏像であったのかもしれない。

 残念な事に、いまの天龍寺においては、本尊仏像に関する詳細および由来は伝わっていないようで、公刊の天龍寺関連資料や専門書、案内解説書の類にも、釈迦如来坐像に関する記事は、推定年代を12世紀、平安後期とするのみで何も述べられない。由緒が完全に忘れ去られてしまった、文字通りの謎の仏像である。

 ただ、あの優雅な定朝様式最終段階の美麗さの下限を仮に鎌倉期に下げた場合、天龍寺の前身の亀山殿こと亀山離宮の存在が俄かにクローズアップされる。荒廃した檀林寺の旧地に鎌倉期13世紀代に建てられ、後嵯峨天皇ゆかりの持仏堂も備わっていたと伝わるが、天龍寺はその亀山殿を寺に改めて寺号も霊亀山としており、当地においては最も亀山殿に近い位置にあった。現本尊の釈迦如来坐像は、亀山殿の旧仏であったのを引き継いだ、というのが最も自然な仮説としてまとまってくる。同時に、それ以上の推考は根拠を欠くので意味を成さない、という点も確定する。

 

 思案がとりあえずまとまって落ち着いたので、大方丈正面の東縁にしばらく坐して上図の中門を眺めた。大方丈への正式な出入口であるこの中門は、創建以来の天龍寺伽藍中軸線上に位置し、東面する寺域の中心線がどこにあるかを教えてくれる。大方丈と同じ頃の建立のようであるが、その建物は一山の格式を示してか、立派に造られる。  (続く)

 


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