気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

妙心寺桂春院の方丈と唐門

2022年07月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 妙心寺塔頭の桂春院の続きです。書院および庭園の「侘の庭」を鑑賞したのち、上図の花頭窓のある通廊を経て本堂の方丈に向かいました。

 

 京都府指定有形文化財の方丈の東縁に進みました。江戸期の寛永八年(1631)に建立された単層入母屋造、桟瓦葺の建物です。東側は南側と同じく庭園に面して廊下の周囲に外縁が巡らされ、庭園の鑑賞空間ともなっています。

 

 方丈の東縁から北を見ると、先ほど鑑賞してきた書院庭園「侘の庭」の門にあたる「梅軒門」が見えました。その南から下ってゆく道の先の飛び石の範囲が、「思惟の庭」にあたります。地形的には窪地のような、低い所に「思惟の庭」があるようで、方丈東縁からは見るというより見下ろす形になります。逆に言うと、方丈が高台の上に建てられているわけです。

 

 方丈の南側つまり正面に進みました。

 

 正面戸口上に掛けられた寺号額です。江戸期に清より渡来した黄檗宗の中国人僧、独立性易(どくりゅう しょうえき)の筆になります。独立性易、は日本にて黄檗宗の祖である隠元隆琦(いんげん りゅうき)を師として得度した後の僧名で、それ以前は戴観胤または戴笠と名乗って医術を生業とした方です。もとは杭州の人、明朝に仕えた文官で優れた文化人であったようですが、清朝の圧政を逃れて日本に亡命し、長崎を本拠として活動しました。中国から篆刻を日本へ伝えたことでも知られますが、桂春院との関わりについては殆ど不明であるそうです。

 

 方丈内部の襖絵です。U氏はこれを見た途端に「おー、狩野派だねー」と言いました。流石です。芸大で共に学んでいた頃に氏が美術史学概論のレポートで綴っていたのが狩野派の絵画様式に関するテーマだったと記憶しています。

 

 御覧のとおり、狩野派の狩野山雪の筆になるもので、画題は「金碧松三日月」です。そのまんまです。

 

 襖絵をしばし眺めた後、南縁を西側へ移動しました。

 

 方丈の西側に連接する玄関廊まで行きました。御覧のとおり両側に唐破風を配した贅沢な構えの建物です。十数年前の拝観時にはこちらが受付になっていて、ここから方丈にあがったと記憶していますが、今回は庭園への通路として使用されていました。ここで下駄を履いて下の庭園へ降りて園路を歩くことになります。

 

 庭園に降りる前にいったん玄関口正面へ出て、外側の唐門の姿を見ました。U氏が「ここの唐門も綺麗だな。大徳寺塔頭群の唐門に決して劣らないな」と率直な感想を述べましたが、私も同感でした。

 

 江戸期の幕府政治が安定期に入った頃の建築で、経済や文化が発展期および円熟期に向かう直前の質素な寺社建築の様相をよく示しています。細部の装飾意匠はまだ控えめで造りも小さいですが、切り放ちの処理や削り仕上げの状態が非常に丁寧になされています。破風の刳り線もさりげなく優美に拵えてあり、練達の職人の手になったことをうかがわせます。長きにわたる戦国乱世が終息して平和な時代になったからこその、地味でありながら美しい気品を漂わせる造りです。  (続く)

 


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