気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

黒森峰女学園 Ⅱ号戦車F型 完成です !!

2024年05月16日 | ガルパン模型制作記

 塗装作業にとりかかりました。最初に薄くサーフェイサーを吹き付けておいてから、劇中車のカラーに近似するミスターカラー37番RLM75グレーバイオレットで本塗装を行ないました。

 

 転輪のゴム部分はポスカの黒で塗りました。

 

 車外装備品や予備履帯などの金属部分、砲塔の機銃は28番の黒鉄色で塗り、木製部分は43番のウッドブラウンで塗りました。

 

 転輪を取り付けました。

 

 履帯を組み付けてゆきました。今回は4分割で作りましたので、まず上部と起動輪巻き付け部、誘導輪巻き付け部を繋ぎ、それから下部を繋ぎました。

 

 パーツの精度が良いため、ズレもなく隙間もなく、キッチリと綺麗に組み合わさって繋がりました。接着剤が固まるまでマスキングテープで仮留めしました。

 

 履帯が左右に仕上がりました。連結式履帯は苦手でしたが、今回のキットの履帯パーツは驚くほどに組み易くて、塗装後の組み付けもスムーズにいきました。ドラゴンやミニアートの履帯よりも楽に組めるアカデミーの履帯パーツです。これでアカデミーへの個人的評価が確実に三段階ぐらいはアップしたと思います。

 

 車体前部の車外装備品や予備履帯の組み付け状況です。

 

 車体後部の車外装備品の組み付け状況です。右フェンダーのボックスの間のS字シャックルやクランクロッドは、劇中車に合わせてジャンクより調達したものです。

 

 ヘッドライトは、キットのパーツだと違和感がありましたので、内部をガンダムマーカーのクロームシルバーで塗った後、レンズ部をウェーブのアイズのパーツに換えて、劇中車のヘッドライトの透明感に寄せてみました。

 

 校章マークは砲塔左右に対称に付けました。モデルカステンの「MGデカール ガールズ&パンツァー デカールVol.5」より長さ8ミリのサイズを選んで2枚使いました。

 

 以上で塗装後の組み立てが完了しました。仕上げにつや消しクリアーを薄く吹き付けました。

 

 側面観です。全体的にシャープな仕上がりで、オモチャ感のにじむタミヤ製品、精密感が強いドラゴン製品と比べると、各所のエッジが効いていてメリハリがあるという感じです。最近は精力的に新製品を出し続けている韓国のメーカーの現在のスタンスはこういうものか、と思わせられる出来です。

 

 最近の製品であるためか、綺麗な雰囲気があります。金型が新しいからランナーパーツも傷や不良が全く無くて、パーツの合いもタミヤ並みのクオリティになっています。
 いま、Ⅱ号戦車のおすすめキットを、と問われれば、初心者向けにも、このアカデミー製品を推しても良いと思います。正直言いまして、Ⅱ号戦車でこのレベルならば、同時期に発売されていたⅢ号戦車J型も楽しく作れそうだな、と思ってしまいました。

 

 以上で、最終章第4話の対聖グロリアーナ女学院戦で活躍した黒森峰女学園チームのⅡ号戦車F型が完成しました。製作日数は、2023年11月27日から12月1日までの5日でした。組み立てに3日、塗装および塗装後の組み立てに1日かかりました。

 今回のキットはアカデミー製品で、最近に発売された新しいキットです。Ⅱ号戦車F型のキットとしては最も新しいもので、パーツも精度が良く、それでいてパーツ数は初心者でも組み立て易いように抑えられています。組み立てガイドも見やすくて綺麗です。随所にユーザーへの配慮が織り込まれていて、よく考えられた製品だなと感心させられます。これからのⅡ号戦車F型の最適のキットとして評価される日も遠くないでしょう。

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その34 アプト区間を登る

2024年05月15日 | ゆるキャン△

 10時7分の発車直前に撮ったDD20形機関車5号機「AKAISHI」の車番です。アルナインのNゲージ金属製キットではこの部分はプレートのパーツになっていますが、実機では数字やアルファベットの金属板を直接車体に貼り付けています。実機と模型とが色々異なっている箇所の一つですが、これを忠実に1/150スケールの模型で再現するのは困難です。

 

 アプトいちしろ駅を発車しました。ホームに並ぶ紅葉の並びが綺麗でした。

 

 まもなく右にカーブしてトンネルに入っていきました。これを抜けたらアプト式区間に入ります。

 

 トンネルを抜けてアプト式区間に入りました。90パーミルの急勾配をもつ日本唯一のラック式鉄道(アプト式)区間で、アプトいちしろ駅と長島ダム駅の間に位置しています。上図のように、大井川の北岸の崖面上に橋梁を築いて線路を通しています。

 

 アプト式区間では、スピードが落ちて徐行になりました。急な坂を上るのですから、速度を上げたくても上げられないのでしょう。

 

 まもなく大井川の向こう岸に小さな平坦地が見えてきました。

 

 その平坦地が、ゆるキャンにも登場して有名になったアプトいちしろキャンプ場です。劇中では各務原なでしこがキャンプ場からアプト式列車の姿を見上げるシーンがあります。

 上図のようにアプト式列車からアプトいちしろキャンプ場を見下ろすシーンは劇中には出ませんが、各務原なでしこが奥大井湖上駅から戻る途中でアプトいちしろ駅まで乗っていれば、同じアングルの景色を見ている筈です。長島ダム駅で降りていれば、この景色は見られません。原作コミックの描写でも、各務原なでしこが奥大井湖上駅からどうやってアプトいちしろキャンプ場へ戻ったかは示されていません。

 

 続いて長島ダムの景色。

 

 10時15分、長島ダム駅に入ってゆきました。

 

 停車後、最後尾のアプト式電気機関車ED90形を分離する作業が行われました。

 

 アプトいちしろ駅での連結作業と同じように車掌さんが誘導して連結器の開放分離作業をテキパキと行っていました。列車の反対側にホームがありますので、大勢の乗客がホームへ降りてアプト式電気機関車ED90形の分離作業を見守り、撮影していました。

 分離されたアプト式電気機関車ED90形は、今度は反対側の上り線に待機して、井川または接阻峡温泉駅からやってくる千頭行きの列車に「合体」し、先に登ってきたアプト式区間を今度は降りてゆくのでした。

 

 分離されて、ゆっくりと分岐点へ戻り始めたアプト式電気機関車ED90形。アプト式区間の推進運転、ご苦労様でした。帰りにまたお世話になります・・・。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その33 アプトいちしろ駅のブッピガン

2024年05月14日 | ゆるキャン△

 奥泉駅を9時54分に出て、次のアプトいちしろ駅までは林間をひたすら走りましたが、地形的には崖面を削って造成された細長い平坦地のうえに線路を敷いていますので、右はゾッとするような崖、左は削られた荒々しい岩肌のみが窓の外を流れていきました。

 

 途中で左側に上図の分岐線を見ました。近くの大井川にかかる中部電力の大井川ダムおよび奥泉発電所への専用側線に続いているそうですが、長い事使われていないようで、線路のレールが半ば埋もれかけていました。

 

 まもなく大井川に架かる鉄橋を渡りました。左手を見ると、大井川ダムそのものは地形に隠れて見えませんでしたが、その関連施設とみられる白い建物が大井川の右岸に見えました。先に見た分岐線は、左側の崖上を通っている筈ですが、上図左端に大きな崩落跡が見えましたので、ひょっとすると線路も分断されてしまっているのかな、と思いました。

 

 トンネルを抜けてアプトいちしろ駅へ近づきました。その手前の左側の待機線に上図のアプト式電気機関車ED90形が2輌連結の形で停まっていました。今日の列車は長いほうなので、アプト区間の推進機関車は2輌か、と気付きました。

 

 既に分岐線の傍らには係員さんがスタンバイしていました。アプト式電気機関車ED90形の運転士でしょうか。

 

 アプトいちしろ駅のホームに入る直前に左側に見えた、ゆるキャンでもお馴染みの吊橋です。今は車道ですが、もとは大井川ダム奥泉発電所の工事に使われた専用軌道の橋だったそうで、金属製で頑丈に造られています。

 

 10時5分、アプトいちしろ駅に着きました。すぐにアプト式電気機関車ED90形が本線に入ってきて列車の後ろに近づいてきました。井川線アプトいちしろ駅名物の連結作業こと「ブッピガン」がこれから始まります。

 

 既に案内のアナウンスがありましたから、乗客の大半が降りて付近に集まってスマホやカメラを構えて待ち構えていました。列車の最後尾のDD20形機関車は、御覧のようにトーマスファミリーのトビー号の仕様でしたが、顔面は外されていて代わりに「せっそ」のヘッドマークが付けられていました。「せっそ」とは接阻峡温泉のことでしょう。

 

 ゆっくりと最徐行で連結点に近づくアプト式電気機関車ED90形。車番がED901ですから3輌あるED90形の1号機です。平成二年(1990)に日立製作所で製造されて以来、20年余り働いています。

 川本氏によれば、このED90形は警笛の音が3輌それぞれに異なっており、マニアなら音を聞いただけで何号機か分かるそうです。
 今回の上図のED901が連結直前にいったん停止し、短く「ファン」と鳴らした警笛は、かつてのスイス連邦鉄道のAe4/7形電気機関車に装備されていたのを、井川線アプト式区間開業記念に贈呈されたもので、つまりはスイス鉄道ふうの警笛音でした。
 ちなみにED902の警笛はドイツ製、ED903のは日本のクラリオン製だそうです。私自身は以前にED903の警笛音も聞きましたが「ワーン」という感じで、JRの普通列車などのそれと似た音域でした。ED902の警笛はまだ聞いたことがありません。

 

 いったん停止したアプト式電気機関車ED90形が、車掌さんの手旗誘導で再びゆっくりと進み始めました。

 

 ガチャ、と鈍い音が小さく響いてED20形機関車の開放テコがカタッと落ちる音がしました。開放テコに繋がった安全ピンが連結器の合体と同時に自動的に連結器の穴に落とし込まれたのでした。
 
 この開放テコの動きは、ゆるキャンアニメ3期の第5話でも忠実に再現されており、各務原なでしこが三重県からのお姉さんコンビに誘われて上図と同じ「ブッピガン」の見物にのぞむ場面でリアルに描写されています。

 実際には上図のように見物客が詰めかけるので、なかなか近くで見られませんが、私自身は初めて井川線に乗った時にその連結作業を間近で見たことがあります。DD20形機関車の開放テコが連結器にカタッと落ちる様子も初めて見て、機関車に付いている開放テコがどういう部品なのかを瞬時に理解しました。

 

 「ブッピガン」完了です。乗車を促すアナウンスが流れ、見物人たちはめいめいの車輛に向かい始めました。一部はまだ撮影を続けていました。

 

 このとき撮影した駅名標。

 

 10時8分、このアプトいちしろ駅への下車客を除いて全ての乗客が乗り込み、発車しました。長い事停車していたように感じられますが、実際には3分足らずでした。
 この3分足らずのうちにアプト式電気機関車ED90形の連結合体と安全確認、乗客の再乗車確認を素早く行うのですから、井川線の車掌さんは本当に優秀なんだなあ、と感心してしまいます。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺2 高山寺金堂

2024年05月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺の中興の祖であり、実質的な開基である明恵上人こと明恵房高弁の御廟にお参りした後、登って来た長い石段を降りて参道へ引き返しました。

 

 それから参道を道なりに奥へと進むと、左にカーブしてまもなく上図の鎮守社と金堂が見えてきました。嫁さんが「綺麗に直ったんですねえ」と言いました。

 高山寺金堂は、2018年に台風による境内林の大規模な倒木によって直撃を受け、棟木や小屋梁や向拝桁が折れ、枓栱や蟇股は割れ、建物全体も衝撃で後方に傾いてしまったので、2019年から修理を受け、2022年5月に落成しています。今回の初の特別公開は、その修理完成を記念しての特別企画でした。

 

 私自身も過去の二度の拝観でこの金堂の外観を見ていますが、その頃はこの辺りも鬱蒼とした林になっていて、薄暗い中に薄汚れたお堂が見えると言った風情でした。

 今回はその鬱蒼とした林が台風でなぎ倒され、特に樹齢200年から400年のような大木が300本近くも倒れるという大きな被害があった後の状況であり、2022年までの復旧整備事業でさらに周辺の木も危険防止のために伐採したそうなので、結果的に境内地の風景が見違えるほどに明るくなっていました。

 

 金堂の建物自体も、どこに被害を受けたのかが全然分からないほどの丁寧かつ完璧な修理を受けていて、これが5年前に半壊同然となって傾きかけたとは思えないほどでした。見事な修理の好例と言えましょう。

 

 靴を脱いで縁側にあがりました。嫁さんはこの時を楽しみにしていただけに、テンションが高止まり状態で、建物のあちこちをスマホで何枚も撮り、「中に入りましょ」と小声で嬉しそうに言い、建物の細部を観察していた私の腕を引っ張ってゆくのでした。

 

 建物自体は室町期の様相を示しており、もとは双ヶ丘(ならびがおか)にあった仁和寺の院家のひとつ真光院の堂宇であったといいます。江戸期の寛永十一年(1634)に現地へ移築されたそうです。要するに仁和寺の系列の建築で、舟肘木(ふなひじき)や蔀戸(しとみど)などに門跡寺院らしい気品が漂います。

 したがって、仁和寺の歴史を知る上でも重要な建築ですが、いまだに文化財未指定なのですから、ちょっと不思議な気がします。

 

 金堂の内部は撮影禁止でしたので、写真は外観のみにとどまりました。本尊の釈迦如来坐像も同じく初公開でしたので、私も初めて見ましたが、平安時代の古様を模倣して造られた室町期の遺品でした。金堂と共に仁和寺真光院から移したものといいますので、高山寺本来の仏像ではないわけです。

 もとの金堂は、明恵上人が承久元年(1219)に建立し、堂内の安置仏像は当時の慶派仏師のトップである運慶とその息子の湛慶があたりました。すなわち釈迦三尊像が運慶、四天王像が湛慶の作であったといいます。現存していれば、間違いなく国宝に指定されているでしょう。

 なお、現存する仏像群は全て東京および京都の国立博物館に寄託されています。そのなかに湛慶作とされる木造善妙神(ぜんみょうしん)立像および木造白光神(びゃっこうしん)立像があり、ともに国の重要文化財に指定されています。いずれも京都国立博物館などで何度か拝見していますが、いずれも見事な出来であり、かつての金堂の仏像群の素晴らしさが察せられます。

 

 金堂を見た後は、参道を引き返して、嫁さんが「宇治茶の発祥の地ですよ」という、上図の「日本最古之茶園」を見ました。

 

 「日本最古之茶園」の案内説明板です。宇治市の上林記念館でも、似たような説明を聞いた記憶がありますが、要するに京都で最初にお茶の栽培を行なったのがここ高山寺で、その茶苗を明恵上人が宇治へ移植したのが宇治茶の始まりであるということになっています。

 それが全国に広まったということですから、例えば大和茶も静岡茶も鹿児島茶も三重茶も、ここ高山寺発祥の宇治茶から分かれて行ったことになります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その15  高ボッチ高原のキャンプサイト

2024年05月12日 | ゆるキャン△

 高ボッチ山の山頂から緩やかに下る園路の途中で、一度山頂を振り返りました。地形が扁平なのでどこが最高所なのかが分かりにくいですが、中央に山頂の標識が立っているのがハッキリ見えましたので、あれが山頂だな、と暫く眺めました。

 

 志摩リンは、劇中では山頂から南側の谷間へ緩やかに下る姿が描かれていますが、その場面には諏訪湖も見えるので、上図の地点に来たところで、ここじゃないかな、と考えました。上図中央に見える一本の枯木が目印でした。

 うん、間違いないな、ここだ、と確信しました。

 

 このシーンですね。背後の枯木と諏訪湖もそのままです。志摩リンはこの後、キャンプ飯を作る場所を探してバイクで高原内をあちこち移動しています。

 

 私はそのまま園路を第2駐車場まで戻って、その南側にある上図のキャンプ場のオートサイトエリアを見に行きました。

 

 木々の枝がくねくねと屈折しているところに既視感がありました。ここがそうか・・・。劇中で志摩リンが歩いていた場所は・・・。

 

 このシーンですね。管理棟で話を伺ったところによれば、このエリアは以前は劇中と同じようにテーブルやベンチも置かれて休憩ゾーンとして使用されていましたが、去年にキャンプ場を設けた際に地面を均し、並んでいた木の半分ぐらいを伐採したため、かなり景観が変わってしまったそうです。

 

 キャンプ場は、オートサイトエリアとテント・タープエリアとに分かれていて、こちらのオートサイトエリアが広々としていましたが、この日の利用客は全てテント・タープエリアのほうに入っていました。

 

 御覧のとおり、既に4月29日にオープンしていますが、話によれば、高ボッチ高原が従来はキャンプ禁止区域だったために、今年開かれたばかりのこのキャンプ場に関してはまだ周知がゆきわたっていないようで、GW期間でも利用客が居なかった、とのことでした。

 

 第2駐車場に戻って、しばらく南の景色を見ました。上図右奥に見えるピークが鉢伏山で、標高は1929メートルです。

 あの山には志摩リンは行っていませんが、近くアニメ化される、同じ原作者のあfろさんが描く「mono」ではあfろさんの分身とされる漫画家の秋山春乃が、シネフォト研究部の雨宮さつき、霧山アン、敷島桜子らを連れて聖地巡礼を行なった際に、ここ高ボッチ高原に続けてあの鉢伏山にも行っています。「mono」のアニメ化後は、鉢伏山も聖地スポットになることでしょう。  (続く)

 

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黒森峰女学園 Ⅱ号戦車F型 作ります !!  その5

2024年05月11日 | ガルパン模型制作記

 ステップ27から砲塔の組み立てに入ります。ステップ28も同様なので、まとめて作業します。ガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ27および28で組み立てる砲塔のパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 綺麗な仕上がりというか、外観に滑らかな雰囲気があります。古いタミヤ製品のオモチャ感に比べれば、格段に実車感に沿ったものになっていると感じました。タミヤさんにはやっぱりリニューアルを図っていただきたいと改めて思います。

 

 ステップ29で砲塔各所の部品を組み付けます。砲塔キューポラの天板はD10を使います。
 ラストのステップ30では砲塔とアンテナをセットし、アンテナは収納状態にします。砲塔背後のゲベックカステンは劇中車にありませんので不要です。

 このステップ29、30もまとめて作業します。

 

 ステップ29および30で組み立てる砲塔のパーツ類です。

 

 砲塔が組み上がりました。

 

 砲塔を車体にセットしました。

 

 D4のアンテナは横に倒してアンテナケースにおさめ、収納状態にしました。

 

 以上で、塗装前の組み立てが完了しました。ドラゴン製品並みの精度と再現度を実現していますが、組み立てはドラゴンほどに煩雑ではなく、むしろタミヤ製品に近いイージーさがありました。ただ、タミヤ製品は古いのでパーツ数も極端なほどに最低限であり、それゆえの組み立て易さがありますが、パーツ数の少なさの代償であるのか、外観は実車とはちょっと違う感じがします。

 なので、組み立て易くて実車並みのクオリティを再現している今回のアカデミー製品については、現在のⅡ号戦車のキットとしてはおススメである、と思います。ガルパンのⅡ号戦車F型を再現製作するにあたっても、最良最適のキットとしてこれからは評価されてゆくのではないか、とも思います。

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その32 奥泉駅の前後

2024年05月10日 | ゆるキャン△

 大井川鐡道井川線のアプト式列車、今回乗った編成は8輌でしたので、川根小山駅のホームに停車した時点で後ろの接岨峡温泉駅までの3輌編成が上図のようにホームに接していませんでした。5輌編成でもはみ出すそうなので、川根小山駅の小ささがよく分かりました。

 こういう状況でも乗ったり降りたりする乗客がたまに居るのだそうで、その場合は線路に直接降りたりするそうです。それで、車掌さんが必ず外に降りてホームの端から端まで小走りに移動して乗客の出入りの有無を確認し、列車の周囲を確認し、安全を確かめた後、至近の車輛に飛び乗ってアナウンスをする、という流れが、川根小山駅のみならず、似たような無人駅でも繰り返されていました。

 井川線の車掌さんは、アプトいちしろ駅でのアプト式機関車との連結作業、長島ダム駅での分離作業でも信号旗を振って誘導し、連結器をチェックし、見物している乗客の安全にも気をつかったりしています。一人で何役もこなしているので、いつも見ていて、大変な仕事だなあ、と感心しています。

 

 9時48分、川根小山駅を発車しました。

 

 またトンネルに入っていきました。次の駅までの間にトンネルが二つあり、第九号、第十号と名付けられているそうですので、トンネルの銘板や番号札を見たところ、上図のように8の数字の札が付いていたので、あれ、これは第八号なのかな、と驚きました。

 ということは、千頭駅を発車して後に7つのトンネルをくぐったことになるわけですが、記憶では8つでしたので、どこかで数え間違ったかな、と思いました。そして上図のトンネルをくぐった後にすぐトンネルを抜け、しばらくしてもう一つのトンネルを抜けましたので、ああ、これらが第九号、第十号なのだろうな、と納得しました。

 今回の井川線乗車は、終点の井川駅までの全線を乗りますので、途中の駅はもちろん、鉄橋やトンネルが幾つあるのかを数えるにはよい機会でした。いずれNゲージの模型製作で井川線ふうのジオラマを作ろうと考えていますので、実際の井川線に乗って見られる全てのものが、重要な参考資料となります。なので、今回はとにかく見て、撮って、記憶に刻み込むことを心掛けました。

 

 森林地帯を抜けてパッと視界が開け、広がる茶畑と点在する民家が見えてきました。Nゲージの模型製作で井川線ふうのジオラマに駅周辺の集落を再現するならば、この奥泉地区の景観はひとつの参考例になります。

 広い緩傾斜地に作られた一面の茶畑のなかに民家が点在する、それらを見下ろす高所を列車が走ってゆく、というジオラマ向きの景観、構図が、大井川鐡道の本線でも井川線でも各所に見られます。

 

 9時54分、奥泉駅に着きました。

 

 私の乗っている客車が停まったのは、奥泉駅の改札口の真正面でした。ここで数人の登山客らしき服装の方々が下車しました。奥泉駅から寸又峡温泉へのバスが出ていますので、それに乗るのでしょうか。

 聞く話によると、奥泉駅の近くにある民宿「奥大井」には、宿主さんの趣味でNゲージのレイアウトが置いてあり、宿泊客も自分の車輛を持参して走らせたりして楽しんでいるそうです。寸又峡温泉への分岐点に位置するため、最近はゆるキャン聖地巡礼の方々の宿泊利用も増えていると聞きました。私も機会があれば泊まってみたいものです。

 

 約30秒ぐらいの停車ののち、ゆっくりと発車しました。独特のキイキイという摩擦音は相変わらずで、ポイントやカーブが多いために間断なく車内にも響いてきます。鉄道ファンの間では「井川線サウンド」などと呼ばれているとか。確かに他の鉄道では聞けない音です。

 

 奥泉駅を出た直後に大きく左へカーブしました。ここだ、ここから右に高い鉄橋の景色が見える、と思い出して右側の席へ移動して窓際で身構えました。

 

 すぐに右側の視界がパッと開けて、高い位置にある赤い大きな道路の鉄橋が見えてきました。県道388号線の泉大橋です。ゆるキャンアニメ3期で志摩リンと土岐綾乃が走った「地獄のデスロード」への入口にあたる橋です。

 

 列車が今度は大きく右にカーブしましたので、後ろを振り返って撮りました。最後尾のDD20形機関車の姿をまともに見たのはこの時が初めてでしたが、その機関車がトーマスファミリーのトビー号の仕様のままになっていることにも初めて気付きました。

 

 まもなく泉大橋の下をくぐりました。以前に千頭駅前のカーケア中原さんで志摩リンビーノのレンタルを利用して長島公園の八橋ロマンスロードまで走った事があり、その際にこの泉大橋を渡っているのですが、橋そのものが急な坂道で周囲の景色が見られないため、下に井川線が通っていることも、こんなに高い位置に架かっていることも、全然分かりませんでした。

 この橋の大きさと外観は、井川線に乗って初めて観られるもので、井川線の沿線の見どころの一つになっているそうです。

 

 列車はさらに幾つかの小さなカーブを経てまたトンネルに入っていきました。数えて13番目のトンネルでした。井川線全体で61ヶ所ものトンネルがあるそうですから、まだまだ序盤だな、と思いました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その31 川根小山駅まで

2024年05月09日 | ゆるキャン△

 大井川鐡道井川線のアプト式列車の、9時25分の発車時刻の直前にダッシュでスロニ202まで戻って乗り込みましたが、その際に後ろのDD20形機関車の後ろに繋がっていた上図の客車スロフ314の車番と行先表示も確認のため撮っておきました。

 御覧のように、後ろの客車2輌と最後尾のDD20形機関車は、接岨峡温泉駅までの運行分なので、接岨峡温泉駅にて分離されます。したがって、井川まで乗る人はその前の客車群に乗ることになります。井川線の利用客の大部分が接岨峡温泉駅までである、と聞いた事がありますが、それゆえの列車編成であるのかもしれません。

 

 予定通りの9時25分に千頭駅を発車しました。次の川根両国駅までは4分かかりましたが、そのうちの3分ぐらいは側線と側線に置かれている車輛を見る事に専念しました。井川線における各種の車輛が見られるので、いずれ井川線もNゲージでジオラマなどを作って楽しもうと計画している身にとっては、絶好の観察見学の機会だったからです。

 ですが、見学に気合を入れ過ぎて、最初の側線留置の車輛群を撮り忘れました。これは帰りにまた見学にゆくので、まあいいか、と割り切って、川根両国駅の側線に停めてあった上図のcトキ200形貨車を見て撮りました。

 このcトキ200形貨車は、昭和28年(1953)に50輌が製造されて井川線に配属されていましたが、2023年現在で在籍しているのは上図のcトキ230を含めた5輌です。あとは廃車となり、そのうちの22輌がスロフ客車などに改造されています。今回私が乗っていた客車のスロニ202も、もとはcトキ225であったそうです。

 

 cトキ200形貨車が停まっていた側線の手前の側線にも、御覧のように2輌のDD20形機関車が並んでいました。ヘッドマークを見ると、向こうの機関車のは「訓練」とありました。

 川根両国駅には、周知のように車両区があって、井川線に在籍する機関車や客車や貨車の大部分が置かれています。初代から現行までの3代の機関車はもちろん、貨車も大半が置いてあるので、それらの実物を見られます。

 

 その川根両国の車両区の横を通りました。車庫に旧塗装のDD20形機関車が、側線に客車が停めてありました。サークル仲間の鉄道マニアの川本氏に「大井川鐡道のジオラマ模型作るんなら、川根両国の車両区を作ってみたらどうや」と言われていたので、この川根両国車両区については、帰りにまた見学して資料用に色々撮影しようと考えていました。

 

 客車の先頭のクハ600形にも「訓練」のヘッドマークが付けられていました。運転とかの訓練に使われているのでしょうか。さきに川根両国駅の側線で見かけた機関車にも「訓練」のヘッドマークが付いていたのですが、それと一連の編成であったのでしょうか。

 

 川根両国車両区のすぐ横に上図の両国吊橋が架かっています。アニメ3期にも登場し、下を通る列車の窓から各務原なでしこが両国吊橋を見上げる場面がありますので、この両国吊橋も全国的に有名になってこれから多くのファンが訪れる聖地の一つになることでしょう。

 

 井川線の最初の鉄橋を渡りました。寸又峡から流れる寸又川が大井川に注ぐ合流点に架かる鉄橋です。上図の右が大井川、鉄橋の下の細い流れが寸又川です。

 

 土本駅に停車し、乗降客ゼロのまま発車しました。ゆるキャンファンの間で最近に囁かれている噂によれば、土本駅には変なオッサンが居るそうで、駅の横の山小屋のソファに座って、通り過ぎるアプト式列車を睨みつつ酒を飲んでいるのだそうです。

 そういえば、最近に大井川鐡道へ初めて行った嫁さんも、その同行者のモケジョさんも「土本駅にヤーさんみたいな怖いオジサンがいたよ」と異口同音に話していました。どんな人相、風体だったかを聞いたところ、どうも以前に私が会って話した人物であるような感じを受けましたが、その人物は千頭駅前にお住まいなので、土本駅ならば別の人だな、と思いました。

 

 それから列車はしばらく大井川の西岸の崖のうえを、独特のキイキイという線路との摩擦音を高く響かせて、右へ、左へとうねりつつ進みました。川に沿って山裾を通るので線路に直線が少なく、だいたいは左右に曲がっている状態が多かったです。

 井川線は、かつてのダム工事用の専用軌道そして森林鉄道であった頃の線路をそのまま受け継いでいますから、左右に流れる景色が大自然そのままで、他ではあまり見られない渓谷の奇観が色々と楽しめます。

 

 次の駅へ行くまでに、トンネルを二つ抜けました。トンネルも小さいなあ、と思いました。

 井川線の前身である、大井川電力の専用鉄道が昭和十年(1935)3月に初めて敷設されたとき、その軌間は軽便鉄道クラスの762ミリだったそうです。それに合わせてトンネル群も掘ったので、井川線のトンネルは全て軽便鉄道クラスのサイズになっています。

 ですが、翌昭和十一年に線路の幅を広げて国鉄と同じ1067ミリに改軌しています。ですが、トンネルはそのままのサイズでしたから、1067ミリへの改軌に合わせて車輛を大きくするわけにはゆかず、トンネルを通れるように小さな車体で造られました。そのまま現在の井川線に至っていますから、アプト式列車の車輛が小さく見えるのも当然です。

 しかし、いまも多くの人が、井川線の車輛は小さくて軽便鉄道クラスなので、線路も小さいのだろうと思っているようです。私自身、初めて井川線に乗った時に同じ感想を抱きましたが、千頭駅構内で金谷からの本線と井川線が普通に繋がっているのを見て、アレ?と思いました。その日に行った井川駅から堂平駅跡までの廃線散策路に残されている線路の幅を試しにメジャーで測ってみたところ、ピッタリ1067ミリだったのでした。

 それで、大井川鐡道の線路は本線も井川線も同じ国鉄規格の狭軌つまり1067ミリで、これは現在のJR線とも共通なのだと理解しました。だから千頭駅構内で金谷からの本線と井川線が普通に繋がっているわけか、と納得しました。
 昔は国鉄の貨物列車が井川線にも乗り入れたり、イベント企画などで井川線のアプト式列車が新金谷駅まで走っていたりした事があったそうです。

 

 まもなく川根小山駅に入ってガタガタとポイントを通過してホームへの線路に進みました。

 

 あの小さくて細い板のようなホームが、川根小山駅のそれです。線路の幅のほうが広いので、最低限の幅しかないホームであることが分かります。京都市の嵐電にも似たような細いホームがあるな、と思い出しました。

 

 9時48分、川根小山駅に停車しました。車掌さんがホームに降りて乗客の確認をし、列車の前後を確認しつつ別の客車に乗り込んでゆきました。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺1 栂ノ尾の古刹へ

2024年05月08日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月11日、嫁さんが高山寺に行きたいというので、昼から出かけました。地下鉄東西線に乗って太秦天神川駅まで行き、そのバスターミナルから上図の市バス8系統に乗り、終点の「栂ノ尾」で降りました。「栂ノ尾」は「とがのお」と読みます。

 この時期、紅葉のピークは過ぎていましたが、山々にはまだ赤や黄の色彩が残り、もともと人気の観光地だけに賑わっていました。バスも満員でしたが、手前の「高雄」バス停で大部分が降りていきました。高雄の神護寺が紅葉スポットの人気ナンバーワンであるのは、昔も今も変わらないようです。

 

 バス停となっている広場の横に、上図の高山寺裏参道の入り口がありました。が、私自身は「あれ?」と思って立ち止まりました。嫁さんも同じように立ち止まり、横から訊いてきました。

「どうしたんです?なにかあるんですか?」
「いや、高山寺の参道って、こんなんやったかなあ、と思って・・・。ゆるやかな階段道やったような記憶があるんでね・・・」
「これは裏参道ってありますよ、表参道が別にあるみたいですね。そっちのほうが記憶にあるんじゃないですか?」
「かもしれない。高山寺に来たのは随分久しぶりの事やからね」
「前回はいつ来られたんですか?」
「造形大(京都造形芸術大学・現在の京都芸術大学)に通ってた頃やから、2000年頃やな。平成12年頃か」
「すると23年前ですかー、大昔ですねえ」

 高山寺に参ったのは、その平成12年頃の前は大学時代の昭和62年だけであった。近くの神護寺へは特別開扉などで10回ぐらい参っているが、こちらの高山寺は、仏教彫刻史専攻であった私が関心を寄せていた彫刻遺品の全てを京都や奈良の国立博物館へ委託しており、見るべき文化財が石水院しかなかった事もあって、あまり関心が向かず、2回しか訪れなかったのでした。

 それで今回は三度目の参拝となりましたが、以前の2回の参拝時の記憶がかすれ気味になっているため、初めて来たような感覚がありました。嫁さんは丹波の人なので、この辺りには昔からよく来ていたそうで、「わりと色々思い出がありますよ」と話していました。

 

 裏参道をそのまま進むと、折り返して急な石段になりますが、その突き当りに上図の案内板と史跡石標が立っていました。

 

 案内板です。嫁さんが読んでいて、「創建が宝亀五年、って天平時代ですよね、そういえば高山寺の一番古い仏像って天平時代のものですよね」と訊いてきました。

「あれは違うね。もとは丹波の金輪寺の本尊やったの、ここ高山寺の明恵さん(明恵房高弁・明恵上人)が金輪寺が荒れ寺になっていたのを再興した際に、ボロボロだった本尊の薬師三尊像を高山寺に引き取って、それが今に伝わってるの」
「ふーん、そうなのですかー、金輪寺って丹波のどこにあるんですか」
「確か、宮前町やったかな、修験道のお寺やで。本山修験宗やったかな」
「あー、神尾山のお寺ですね、行ったことあるかも」

 

 それからの石段道は、上図のとおり崖面に何段にも築かれた石垣の塁線に沿ってジグザグに登る急な道でした。まるでどこかの戦国期の山城跡へ登って行くような感じで、嫁さんは「こういうのって風情がありますよねえ」と楽しんでいましたが、こちらはハアハア、ゼイゼイの繰り返しでした。

 

 急な石段道の途中の景色。石垣に囲まれて幾つかの平坦面があり、東屋などが置かれていますが、付近はなぜか立ち入り禁止になっていました。苔庭の保護と、安全対策のためでしょうか。

 

 石段道を登り切って平坦な参道になったところで、上図の大きな境内案内図を見ました。実際の地形を無視して広い平坦地に伽藍が広がっているように描かれています。
 嫁さんが「さっきの急な石垣と階段の道のところ、適当に端折ってるですよ、下の車道が青いんで川に見えましたよ」と笑っていました。

 

 近くには上図の新しい案内説明板もありました。平成6年に境内地が世界文化遺産に登録されたことをうけて文化庁が設置したものです。

 

 そして今回、嫁さんが高山寺行きを言いだした理由である、金堂の初公開にともなう参拝順路への案内板がありました。高山寺の金堂はずっと非公開とされ、これまでに特別公開されたことも無く、私自身もこれまでの2度の参拝で金堂だけは全然見ていませんでした。

 それが2023年秋に初めて公開されたのですから、古社寺が大好きな嫁さんが見たいと言い出すのも必然であり、私も興味を持って共にやってきた次第でした。

 

 金堂へは、裏参道をずっと登って行く形になりました。左右に連なる石積みは、かっての堂宇や塔頭、子院の跡地であり、昔の高山寺が広大な敷地内に多くの堂塔建築を並べて栄えていた歴史をしのばせます。

 

 奥に行くと地形が平坦になり、左右の建物跡や敷地跡が広くなってきました。境内地の中心地域に入ったようでした。

 

 途中の右手には上図の「明恵上人 御廟」の札がありました。高山寺の開基である明恵上人こと明恵房高弁の墓所です。お参りしていこうか、と嫁さんに尋ねると「うん」と頷いて後を付いてきました。

 

 石段を登り切って、柵に囲まれた御廟を拝所より拝みました。

 高山寺の中興の祖にして開基である明恵上人こと明恵房高弁は、鎌倉時代の華厳宗の僧でした。出身は紀伊国有田郡(現・和歌山県有田川町)で、父は伊勢平氏系の伊藤党の武士平重国、母は紀州の豪族湯浅氏の娘であったといいます。幼時に両親を亡くし、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入り、以降は華厳宗の復興に努めました。
 建永元年(1206)11月、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜されました。この時をもって高山寺が創立されたといいます。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その14  高ボッチ山山頂からの散策路

2024年05月07日 | ゆるキャン△

 高ボッチ山の山頂には、志摩リンは夜にもう一度来ています。各務原なでしこがイーストウッドキャンプ場近くのフルーツ公園からの夜景をメールで送信してきたので、それに応えるべく、高ボッチ山山頂から見える夜景を撮ったわけです。

 

 志摩リンが撮ったのは、諏訪湖方面の夜景でした。私も見たかったのですが、夜までここに居たら帰れませんので、諦めました。

 

 志摩リンが夜景を撮っていた位置から、山頂の標識を見ました。それから、志摩リンがキャンプ飯を作る場所を探して付近を歩くシーンの場所を探しに行きました。

 

 山頂から南西方向を見ました。この辺りかなと思いましたが、散策路そのものがありませんでした。

 

 同じ位置から南側を見ました。地形は下って小さな谷間に続き、谷間を隔てて向こうの小ピークが見えました。その範囲にも散策路はありませんでした。

 

 南南東の方角を見た時、諏訪盆地の右側の谷間の奥に辰野町の市街地が望まれました。あの方向へJR飯田線が通っていて、それに乗れば終点は豊橋となるわけです。 

 

 とりあえず、山頂からの散策路に戻ることにして、引き返しました。

 

 山頂からの散策路は二つあって、行きは第2駐車場から直接つながるルートを歩きましたが、もう一つのルートはそれより南側にあってやや低い位置を通っていました。上図がそのもう一つのルートですが、その向こうに電波中継塔が見えるので、帰りのルートに選んで歩き出しました。

 

 行きのルートは木柵道でしたが、帰りの上図のルートはロープ柵道でした。ゆるやかに下って、なだらかに南へ下がる広い緩傾斜面を西へ、電波中継塔の方向へ突っ切っていく感じで続いていました。どちらを向いてもススキたなびく高原ののどかな景色ですから、歩いているうちにまったりした気分になりました。

 

 志摩リンも同じ景色を見回しながら、のんびりと歩いていたんだろうな・・・。

 

 南の方の稜線上に第1駐車場が小さく望まれました。あの方向から登ってくる東山ルートは通行止めのままでしたが、いずれ復旧した後で、機会を見て東山ルートからここに登ってみたいな、と思いました。志摩リンは東山ルートからここに登ってきていますから、一度は同じルートで登ってみたいものです。  (続く)

 

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黒森峰女学園 Ⅱ号戦車F型 作ります !!  その4

2024年05月06日 | ガルパン模型制作記

 ステップ15では、右フェンダー上の各部品を組み立てます。A11は劇中車にありませんので不要です。前照灯のカバーC29も劇中車にありませんので、ウェーブのアイズのクリアパーツと交換します。

 ステップ16は北アフリカ戦線仕様のオプション選択での部品取り付けです。エッチングパーツにてガソリン缶ラックを取り付けますが、これは劇中車にありませんので不要です。増設ボックスのうち、前のC27は指示通りに取り付けますが、後ろのA6、A7は劇中車と違うので保留にします。

 

 ステップ17では右フェンダー上に置くワイヤーカッターD19を仮組みします。これは塗装後に取り付けます。
 ステップ18では、増設ボックスのうちの後ろのA6、A7を取り付けます。さらにA6とA7の間にセットするS字シャクルとクランクロッドのパーツがキットにはありませんので、後でジャンクパーツより調達します。

 

 以上のステップ15から18までの工程は、まとめて行ない、パーツもまとめて切り出して準備しました。

 

 組み付けました。装備品類は仮組みとして、これらは塗装後に組み付ける予定です。

 

 今回のキットは最近の製品だけあって、車外装備品のパーツもドラゴン並みの精度でよく再現されています。

 

 ステップ19、ステップ20では左フェンダー上の各部品を取り付けます。ステップ19においては、斧のD11は劇中車にありませんので不要です。前照灯のカバーC29も劇中車にありませんので、ウェーブのアイズのクリアパーツと交換します。
 ステップ20においては、ジャッキ台のD17の留め帯を劇中車仕様に改造します。

 

 以上のステップ19から20までの工程は、まとめて行ない、パーツもまとめて切り出して準備しました。

 

 組み立てに先立ち、ジャッキ台のD17の留め帯をプラ板で劇中車仕様に改造しました。

 

 仕上がりました。

 

 組み上がりました。装備品類は仮組みとして、これらは塗装後に組み付ける予定です。

 

 前部の組み付け状況です。シャベルのD3は仮組みです。

 

 後部の組み付け状況です。ジャッキ、ジャッキ台のD17、消火器のD7は仮組みです。いずれも塗装後に取り付ける予定です。

 

 ついでに右フェンダー上のA6とA7の間にセットするS字シャクルとクランクロッドのパーツがキットにはありませんので、ジャンクパーツより調達しました。

 

 さらにエンジン点検ハッチのハンドルもジャンパーツより調達して取り付けました。

 

 仮組みして位置を確認した車外装備品類は、外して塗装作業段階まで保管しておきました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その30 井川線のアプト式列車

2024年05月05日 | ゆるキャン△

 大井川鐡道の千頭駅の井川線のホームです。出発時刻の9時25分までまだ間があるので、ホームに待機中のアプト式列車の編成を見に行きました。

 御覧のように、井川線のホームは車輛の小ささ低さに合わせて階段を付けて低く造られています。Nゲージの模型製作で千頭駅を作った時にこの井川線ホームの階段と上下二段のホーム、屋根部分の柱が前後で長さが異なる点も再現しました。

 

 駅名標と時刻表が貼られた掲示板です。これらは模型ではまだ作っていませんでしたので、いずれ追加する積もりです。

 

 ホームに待機中のアプト式列車の先頭は、運転制御室付きの客車、クハ600形です。以前にアルナインのNゲージの金属キットを作りましたが、特徴をよく捉えた良いキットでしたので、こうして実物と見比べても全然違和感はありませんでした。

 

 ただ、アルナインのNゲージの金属キットではバックミラーや予備灯などが省略されていて、前照灯のレンズもありませんでしたから、それらをプラ材やクリアパーツで追加しています。

 

 前面に付けられたヘッドマークは、奥大井湖上駅でした。ゆるキャンアニメ3期にもレインバーブリッジとして登場し、各務原なでしこがこの奥大井湖上駅まで乗って、駅から鉄橋を渡って展望所までの山道を登り、あの美しい景色を見ています。

 しかし、こうしてみると、車体が小さいぶん、線路も狭く見えてしまいます。日本の鉄道線路の標準である狭軌つまり1067ミリより狭いように感じますが、以前に井川線の廃線跡散策路で線路の幅を測ったら、ピッタリ1067ミリでした。つまりは大井川鐡道の本線とも同じ国鉄規格であり、したがって現在のJR線とも共通の軌間であるわけです。

 そういえば、昔は金谷駅で線路が東海道線と繋がっていて、国鉄の機関車や列車が大井川鐡道に乗り入れたこともあったそうです。また、井川線の列車がイベント企画で新金谷駅まで走ったこともあった、と聞きました。同じ狭軌の軌間であるから出来たことでした。

 

 先頭車のクハ600形の車番はクハ603でした。クハ600形は井川線に4輌が在籍しており、上図のクハ603は3号車にあたります。1号車のクハ601は客車のスロフ310(初代)からの改造であるそうですが、クハ602から604までの車輛は余剰となって廃車となったcトキ200形の台車を流用して改造されたそうです。

 製造元は日本車輌製造なので、そこに務めた父の遺品の設計図類を探したら、クハ600形の設計資料もありました。鉄道工学の専門家であった父が、自身の設計資料として手元に残した青写真の写しですが、図面は実車そのままではなく、製造段階で随所に変更や修正が施され、平成二年(1990)7月に完成しています。

 この製造は、平成二年に井川線のアプトいちしろ駅から長島ダム駅までの路線付け替えによってアプト式運転区間が設けられたのに伴うものであったそうです。
 アプト式運転区間の設置後は、機関車を常に列車の千頭方に連結して、上り千頭方面行きは機関車が牽引し、下り井川方面行きは機関車が後ろから押していく推進運転が行われることになったのですが、このため井川方面行きの先頭車輛が客車のままでは運転制御が難しいため、制御車が必要となってクハ600形が他車からの改造にて作られたわけです。

 

 次の客車はスロフ300形の5号車であるスロフ305でした。スロフ300形は昭和三十七年(1962)に日本車輌製造で4輌が製造されましたが、上図の5号車からは大井川鐡道の両国車両区で昭和五十五年(1980)から製造され、最新の18号車は令和三年の完成になります。いまも18輌全てが井川線にて現役として働いています。

 

 スロフ305の次はスロフ306、スロフ307と同型車輛が繋がっていました。スロフ300形は製造時期によって細部の仕様が異なりますが、上図の車輛は同時期に作られているので、窓は一段下降窓のタイプで、最もシンプルな仕様になっています。

 

 スロフ300形の3輌の次は上図のスロニ200形でした。車番はスロニ202でしたから、2輌あるうちの2号車です。御覧のように、一方の車端部が荷物室兼展望デッキになっており、この部分だけがステンレス無塗装の外板なので外から見ただけでも識別が容易です。さらに出入口のドアが片面に二ヶ所あります。

 また、上図のスロニ202の千頭方が荷物室兼展望デッキであるのに対して、1号車のスロニ201では井川方が荷物室兼展望デッキになっているという相違点があります。
 これに関して、サークル仲間の鉄道マニアの川本氏が「今度井川線に乗るんなら、客車はスロニ200形に乗っておけ。展望デッキが付いてるんで、そこの座席につけば、左右の視界が広々と楽しめるぞ」と言うのでした。

 それで、今回はそのスロニ202に乗る事に決めましたが、その展望デッキからの視界は広々というほどには開けないことがすぐに分かりました。

 

 なぜならば、スロニ202の次に上図のDD20形ディーゼル機関車が繋がっていたからです。これが最後尾かと思いきや、まだ後ろに客車が繋がっているのでした。列車の最後尾を見るとそこにも別のDD20形ディーゼル機関車が見えましたので、途中の接岨峡温泉駅で後ろのDD20形と客車を切り離すのだな、と気付きました。

 

 とりあえず、Nゲージ模型製作の参考資料に、とDD20形ディーゼル機関車の足回りや連結器まわりを何枚か撮影しました。以前にアルナインのNゲージ金属キットを作った際に、キットでは省かれていたバックミラー、バックライト、開放テコも追加再現しましたが、それらの実物を改めて観察し、撮りました。

 

 そして外観を各アングルから撮っていると、発車時刻間近を告げるアナウンスが流れましたので、撮影を急ぎました。

 

 最後に上図のヘッドマークを撮り、ダッシュでスロニ202まで戻って乗り込みました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その29 家山から千頭へ

2024年05月04日 | ゆるキャン△

 8時8分、大井川鐡道本線の家山駅で下車しました。本線そのものは川根温泉笹間渡駅まで通じていますが、この日は千頭駅まで行って井川線に乗りますので、家山駅と千頭駅を結ぶ川根本町の町営バスに乗る予定でした。

 同じ列車に乗ってきた乗客の全員が下車し、その八割ほどの約90人が上図のように次々と家山駅の改札口を出ていきました。

 

 改札口に向かう途中で、下車してきた普通列車の南海21000系を見ました。家山駅構内は御覧のように側線が2本ありますが、一番右の側線が良く使われているのが、ポイントがそちらに切り替えてありました。

 鉄道模型に目覚めてNゲージを楽しむようになってからは、鉄道を利用する度に車輛や線路や鉄道施設などを色々と観察することが多くなりました。
 今まであまり関心のなかった景色ですが、Nゲージのジオラマにチャレンジしてみますと、実際の鉄道の景色を色々見て参考にするという流れが、必然的に習慣になってまいります。気付かなかった学びや発見があり、なかなかに面白く楽しい習慣になりつつあります。

 大井川鐡道は、私がNゲージを楽しむ上での基本イメージである鉄道ですので、関連の車輛は可能な限り買い集めましたし、今年からはジオラマにも取り組んで、大井川鐡道の景色を参考にして、ある程度は再現を試みようとしています。最近には千頭駅をフルスクラッチで製作しましたが、続いて井川線の井川駅を作ろうかなと思案しています。

 それで、この日は井川駅へ見学取材に行くべく、これから千頭駅へ向かうわけでした。

 

 家山駅の改札口。昭和初期の建物がいまも現役です。

 

 駅前に待機していた8時26分発の千頭駅行きのバス。川根本町の町営バスにしては立派な大型車ですが、よく見ると大井川鐡道の所有車でした。委託しているのでしょうか。

 

 上図のように「川根本町 コミュニティバス」とあります。実はこの後もう一台のバスが来て、そちらは途中のバス停に全て停まる通常の運行便でした。上図の便のほうは、家山駅から千頭駅までノンストップで行く特急バスでした。

 係員が両方のバスについて説明していて、「途中で下車される方はあちらのバスへどうぞ」と案内していました。その係員さんに「いつもこういう形で二系統のバスがあるのですか」と尋ねたところ、「いえ、こちらのノンストップの特急便は観光行楽シーズンのみの限定運行です、通常はあちらの各停止まりのバスのみで運行しておりますので」と教えてくれました。
 川根本町のホームページのバス時刻表には、このノンストップの特急便の分は、季節限定であるためか、記載されていません。ですが、あると便利なので、シーズン期のみの限定表示でも良いですから、どこかに分かりやすく掲示していただけないかな、と思います。

 私自身、数度のゆるキャン聖地巡礼で大井川鐡道を利用した場合は必ずこの家山から千頭までのバスに乗っていますが、ノンストップの特急便は今回初めて乗りました。移動時間が短くて済むので、時間がとにかく貴重なゆるキャン聖地巡礼においては有り難いバスです。

 

 9時15分、千頭駅に着きました。上図は千頭駅前のバス停で、停まっている小型のバスは寸又峡温泉行きの路線バスです。

 

 千頭駅の駅舎です。最近にNゲージの模型を段ボールやプラ材でスクラッチ製作しましたので、より親しみが増しています。

 

 駅階段下の、あのベンチ。志摩リンと土岐綾乃が合流して一休みしたベンチです。アニメでも登場しましたから、聖地中の聖地になっています。

 

 さて、これから井川線に乗り換えますので、駅の窓口に向かい、時刻表を確かめました。9時25分発の井川行き始発に乗ります。

 

 今回は行きは井川駅まで行き、折り返して帰りは川根両国駅で下車する予定でしたので、上図の「井川寸又峡周遊きっぷ」を買いました。二日間有効で2100円です。普通に切符を買うと往復合計で2630円になりますから、こちらの周遊きっぷの方が530円もお得です。

 しかも二日間有効ですから、井川までの往復の他に寸又峡へのバスも利用出来ます。千頭駅から寸又峡温泉までのバス運賃は片道900円なので、この「井川寸又峡周遊きっぷ」は大変にお得です。ゆるキャン聖地巡礼でも大いに役立つ最強のフリー切符です。

 

 井川線のホームへと移動しました。見慣れた赤い車輛の複数の並びが見えてきました。本線の車輛よりも一回り小さいので、遊園地のトロッコ列車のように見えますが、れっきとした大井川鐡道の営業路線であり、路線距離つまり営業キロは25.5キロに及びます。

 

 ゆるキャンアニメ3期の各務原なでしこのキービジュアルのアングルで撮りました。左端に人影が写っていますが、それと比べると井川線の車輛が小さいことがよく分かります。

 

 ホームに接した左の列車が、これから乗る9時25分発の始発列車でした。時計を見ると9時17分でしたので、まだ8分の待ち時間がありました。この列車の編成を確かめて撮影しよう、と思いつきました。  (続く)

 

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伏見城の面影10 正伝寺境内にて

2024年05月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 正伝寺本堂の妻飾りの懸魚に徳川葵の紋を確認したことで、その徳川期伏見城御成殿としての由緒がほぼ確定しました。残る問題は、御成殿とともに伏見城より移築された御前殿のことでした。正伝寺においては仏殿にあたる法堂として使用されたそうです。

 本堂を退出する際に、受付にてその法堂のあった場所を尋ねたら、本堂の一段下の前にある平坦地の中央、と教えられました。鐘楼が建ってる場所の奥、ということでした。

 

 本堂の一段下の平坦地に向かいました。上図の通り、鐘楼が見えました。

 

 鐘楼の近くに行きました。明治期に建て直されたものだそうです。

 

 「鐘楼が建ってる場所の奥、というと、この辺りか」とU氏が周囲を見回し、連絡通路が左の傾斜面に付けられているのを確かめつつ、言いました。上図の、鐘楼の斜め後ろ、奥に見える本堂の前にあたる位置でした。
 伽藍の中心軸線に沿った位置であるうえ、他にそれらしい広い平坦地がありませんでしたので、消去法的にこの場所に絞り込まれました。

 かつて建っていた法堂は、江戸期に建て直された後、明治期に東山の長楽寺に売却されて、現在は長楽寺の本堂になっています。その長楽寺の名に、U氏は敏感に反応しました。

「長楽寺だと?円山公園の奥の?」
「知ってるんかね」
「ああ、水戸藩の京都における本国寺党の志士たちの墓所がある。一度お参りに行ったな」
「それは初耳や。水戸藩士の墓所があるのか・・・」
「なんだ、星野は知らなかったのか。長楽寺に行った事はないのか」
「いや、大学生の頃に一度行った。国重要文化財の一遍上人彫像を見学に行ったの」
「なるほど、仏教彫刻史専攻としては見ておかないといけない文化財資料だもんな」
「もう30年以上昔なんで、本堂とかも全然記憶が無いねん、水戸藩士の墓所ってのは本堂の横とかにあるの?」
「横じゃなくて裏山のちょっと高い場所にある。少し山道を登らないと行けない」
「それは、たぶん登ってないと思う」
「そうだろうな、星野は一遍上人の像だけ見て満足して帰ったんと違うか」
「うん」

 それで、現時点では長楽寺の本堂がちょっと気になる、江戸期に建て直されたというが、伏見城からの移築建築の面影があるかどうかを、いずれ見に行く積りだ、と話しましたら、U氏も「必ず同道する。決まったら連絡をくれ」と応じてきました。

 

 それから、Uが言うままに、法堂跡の左手の傾斜面に付けられた通路階段を登ってみました。その通路は本堂方丈の唐門へと通じていました。

 

「つまり、法堂が仏殿だった頃は、今本堂になってるこの御殿は方丈、つまりは客殿として使われてたのかもしれんな」
「そうやろうな」
「明治期に何らかの事情で法堂が売却されて長楽寺へ移転して、そのあとは方丈が本堂の仏殿となって今に至る、と、こういうわけだな」
「そうやろうな」

 

 唐門の建物については、江戸期の再建、という以外に情報がありませんでした。江戸期に法堂が建て直されたのに伴ってこれも建て直されているのかもしれません。

 

 建物の様式そのものは古式に倣ったようで、つまりは室町期の建物を模したかのような有様でした。もとの唐門が室町期の建物だったのかもしれませんが、寺伝においても詳しい事は分かっていないようです。

 

 唐門に繋がる土塀は割合に低いタイプでしたので、あまり背が高いほうではないU氏や私でも、背伸びをすれば塀の中がよく見えました。初めて伏見城御成殿だった建物の優雅な全容を見る事が出来ました。

「これが御成殿だったとすると、いまの建物にゃ式台や通廊の施設が無いから、それに付属する御前殿があったというのは納得出来るな」
「せやな」
「御前殿というから、御成殿の前につく殿舎なわけで、玄関とかがあって、そこから廊下で御成殿へ繋がってて、将軍家は式台から廊下で奥の上の間へ御成りになる、と、こういうわけだ」
「そういうイメージでええんやないかな」

 かくして、かつての伏見城の御成殿と御前殿が、ともに正伝寺に移築され、一方は方丈、もう一方は法堂として使われた、という流れが明快に推定出来ました。伏見城の面影が、いまなお確かに見て取れるのでした。

 

 なので、思った以上の成果があったと思います。二人とも大満足で参道石段を降りてゆきました。

 

 参道筋の通用門の脇に、上図の鎮守社とみられる朱塗りの社殿が鎮座していました。寺の総門と同じく東を向いています。正伝寺が弘安五年(1282)に再興された際、賀茂社社家の森経久が援助したといいますから、もともとこの地は賀茂社の所有地であったのかもしれません。

 現地の地名も西賀茂ですから、もとは賀茂社の末社の境内地であったのかもしれませんが、そうであれば、その社殿の由緒がいまもこの朱塗りの社殿に受け継がれているのでしょう。

 

 境内社から山門へと抜ける途中にあった、中世期の石塔。五輪塔や灯籠などの幾つかの石造品のパーツの寄せ集めでした。他にも似たようなパーツが林間に点在していましたので、中世期には墓地なども営まれていたのでしょう。

 

 山門を出て、門前にて二人揃って向き直り、寺の方角に一礼しました。

 時刻は11時41分でした。市バスで北大路バスターミナルまで戻り、イオンモール北大路の食堂街にて昼食をとり、それから地下鉄で京都駅まで移動し、15時過ぎの新幹線で帰るU氏を改札口まで見送りました。

「次は長楽寺だな。来年の春ぐらいに必ず行こうぜ。水戸藩士の墓所も案内してやる」
「長楽寺だけ?他に行きたい所はないんかね」
「伏見城の移築建築、まだあるんなら、見に行きたいな。どこにある?」
「養源院や」
「あ、養源院か。三十三間堂の向かいだったか。まだ行ってないな・・・」
「なら長楽寺と養源院で決めとこう。あともう一ヶ所ぐらい考えとくわ」
「宜しく頼む」

 ということで、握手して解散したのでした。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その13  志摩リンが眺めた諏訪湖

2024年05月02日 | ゆるキャン△

 志摩リンもやってきた高ボッチ山の山頂は、御覧の通りの平坦地で、高原の最高所の広場といった感じです。山頂によくある地形ではないので、山頂標識が無かったら、山頂であることが分かりにくいかもしれません。

 上図の右は山頂標識ですが、左にはコンクリート造の円筒形の何かがありました。

 

 何だろうと思って近寄ってみると、御覧の通り、方位と周辺の山々を示す銅製レリーフでした。

 

 山頂より南を見ました。諏訪湖と諏訪市街が望まれました。

 

 同じ場所から西を眺めました。電波中継塔の並びが見えました。第2駐車場は北西西方向に見えたので、上図では右側の外になります。

 

 山頂にあった1級基準点の銘板です。なるほど「信濃の国の重心」ですか、ここが長野県の中央にあたるようです。

 

 山頂の南側は緩い傾斜面となっていて、木柵が方形に巡らされ、諏訪湖方面を見渡す展望広場となっています。

 

 その場所に志摩リンも立って諏訪湖を眺めていました。

 

 志摩リンが眺めていたのと同じ、諏訪湖の景色です。

 

 デジカメの望遠モードで撮った諏訪湖です。

 

 諏訪湖を眺め続ける志摩リン。私も同じ場所で5分ほど立ち止まって諏訪湖を眺めていました。

 

 季節的にも同じ時期に来ましたから、志摩リンが見たのと同じ晩秋の諏訪湖の風景が楽しめました。春や夏に来たら、かなり雰囲気が違っているのだろうと思います。

 

 劇中では曇りの高ボッチ高原に来て、北側や西側の景色は全く見えず、第2駐車場の展望所からの視界も雲にさえぎられていましたから、志摩リンはやや落胆気味でした。それが、山頂に登って南側に初めて雲の切れ間を見、眼下に諏訪湖と諏訪市街を眺めることが出来たのでした。

 なので、上図の場面で嬉しそうに「なんだよ、こっちはバッチリ見えてんじゃん」と呟いたのにも実感がともなっていました。
 よかったな、しまりん。  (続く)

 

コメント
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