もう27年目になる
のち
おみやげ 白石うーめん
もう20年以上も続く
姉妹都市との少年野球交流
夏に白石市で
秋には海老名市で開催される
2泊3日選手は相手チームの
各家庭にホームスティ
6年生が対象で
2チーム作るために
これまでは各市で20名が選抜されてきた
ところが白石市ではここ数年
少年野球をやる子供が大幅に減少
今年は
6年生は15人しかいないため
2チームできないとのこと
しかも
20年前は10数チームはあったのに
今では3チームのみ
しかも一番選手のいるチームでも
1年生も入れても15人しかいないんだってさ
来年以降
どうなっちゃうのかな
今のような交流の形を中心となって
作った白石市の前会長
なにもないものを
一から作り上げる時には
大きなパワーがいるし
リーダーの力がすべて
その後
両市は友好都市から姉妹都市へ
もう亡くなって
5~6年になるけど
墓場の影でどう思っているのかな
やっぱ
あなたのような人が必要な時だよ
来月には
圏央道が東北道までつながる
白石も近くなる
いつか
お墓にお参りにいかなくちゃあね
今日も秋晴れだ~
土曜日から2泊3日で姉妹都市の宮城県から
少年野球チームが来ていた
昨日の試合を観戦し、今朝見送りに行ってきた。
今年で15年目を迎えた交流だが、
夏にはこちらから宮城に行き、秋は
向うからこちらに来てもらい、
子供たちは各家庭にホームステイをする。
第一回目の選手は今では27歳になり、
もうすぐ、その子供達の出番も近い。
少年野球を離れて、丸7年だが、
いまだに当時の指導者が沢山頑張って
いるのには頭が下がる。
これまでの15回のうち、ホームステイを
5回も受け入れ、子供3人全員が選抜されたケースは
無論、我が家のみ。
すっかり、親戚同士の付き合いをしている
宮城の指導者達と楽しく歓談できた。
また、来年待ってるよ~
また蔵王の麓にスキーに行くからね~
あれ~、おいら、スキーなんて生まれてから一度も
やった事ないよな~
土曜日から2泊3日で姉妹都市の宮城県から
少年野球チームが来ていた
昨日の試合を観戦し、今朝見送りに行ってきた。
今年で15年目を迎えた交流だが、
夏にはこちらから宮城に行き、秋は
向うからこちらに来てもらい、
子供たちは各家庭にホームステイをする。
第一回目の選手は今では27歳になり、
もうすぐ、その子供達の出番も近い。
少年野球を離れて、丸7年だが、
いまだに当時の指導者が沢山頑張って
いるのには頭が下がる。
これまでの15回のうち、ホームステイを
5回も受け入れ、子供3人全員が選抜されたケースは
無論、我が家のみ。
すっかり、親戚同士の付き合いをしている
宮城の指導者達と楽しく歓談できた。
また、来年待ってるよ~
また蔵王の麓にスキーに行くからね~
あれ~、おいら、スキーなんて生まれてから一度も
やった事ないよな~
ちびっ子の市内最弱チームから、栄光の最強チームへの道を
懐かしい少年野球監督の頃(1~7)に長々と書いた。
今も、チームがなかなか勝てないで苦労している
指導者の方々の何かのヒントになるのなら嬉しく思います。
長男が「野球チームに入りたい」と言い出したことがきっかけで
気がつけば10年間も少年野球に携わったことになった。
たまたま3人の子供がいてくれたお陰で、私自信が
大いに楽しませてもらったと思う。
土日は勿論のこと全ての休暇を少年野球に費やしたが
それが当たり前と考えていたし、素晴らしい時間を子供たちと
共有できたと大いに満足している。
三男が卒業して1年後、私もユニホームを脱ぐことになるが、
若いコーチ陣の情熱の方が、目標を全て達成してしまった後の
抜け殻の私よりはチームのためにはいいと判断したからである。
まあ、勝つことだけが目的ではないのですが、できれば
勝った後の子供たちの誇らしげな顔を観るのは
監督冥利につきます。
その後は、一度もグランドに出向くことはしませんでしたが、
今でも小学校の前の道を車で通るたび、
練習やってるかな 今年のチームはどうなのかな
など、ついつい考えてしまいます。
三男が5年生の時から、破竹の連勝街道が始まった。
この時のチームも5年生4人が入ったチーム構成となったが、
春の大会でいきなり、準優勝するとあとの三大会は
全てぶっちぎりで優勝した。
そして、三男が6年生になるとレギュラーは
6年が4人、5年3人、4年1人、3年1人と
いっそう小粒となったが、強さは半端でなかった。
市の大会を4つとも優勝し、前年の夏の大会以降
通算7大会を連続で制覇した。
もうその時には同じ小学校に通う子供がいる
宿命のライバルも 相手とはならなかった。
そして,あの次男坊たちが悔し涙をながした県大会では
5回戦までを全てコールドで勝ち進み準決勝、決勝も勝利した。
特に、決勝戦の初回、2アウト1塁で相手の4番にライトオーバー
のヒットを打たれた場面では、外野の3年生からセカンドの4年生へ
もう一つ中継を入れてファーストの5年生からのバックホーム
で1塁ランナーを刺したプレー
バッターは4年生でセカンドランナーが3年生で決めた
2ランスクイズでの中盤の追加点など、これまで練習してきた
集大成のプレーで見事に相手の大型チームを倒した。
後に決勝戦の相手チームのピッチャーや4番などの数人は、
県内と東東京の有名私立高校で主力として活躍するのを知ることになる。
この年は、西武の松坂が横浜高校で3冠を達成した年だが、
我がチームは地区の大会や県央県北大会などの全ての
優勝旗8本を手に入れることができたのである。
体格的にも恵まれていた次男坊たちが卒業して
またまた、ちびっ子軍団に戻ったことがきっかけとなって
3、4年生も混じったチームでどう戦うのか。
次の年は試練となったが、実はこの年以降の栄光の
時代はここでの練習の仕方に負うことが大であった。
攻撃は走塁とバントの練習しかしなかったし、土日の練習は
日が暮れるまで徹底的に守備の練習に特化した。
相手ににはミスや四球での得点はほとんど与えず、こちらの得点は
足と相手のミスや四球で稼ぐものだった。
たとえ10対0で勝っている試合でも、まったく手を抜く
ことなくスクイズで加点した。
あまりの徹底ぶりに、他の監督から大いに批判を
受けていたことは知ってはいたが、
弱小チームが勝つためには、いや、どこのチームよりも
厳しい練習をしてきた子供たちの試合後の誇らしげな顔を
観る喜びのほうがはるかに嬉しかった。
またまた、ちびっ子軍団に戻ったことがきっかけとなって
3、4年生も混じったチームでどう戦うのか。
次の年は試練となったが、実はこの年以降の栄光の
時代はここでの練習の仕方に負うことが大であった。
攻撃は走塁とバントの練習しかしなかったし、土日の練習は
日が暮れるまで徹底的に守備の練習に特化した。
相手ににはミスや四球での得点はほとんど与えず、こちらの得点は
足と相手のミスや四球で稼ぐものだった。
たとえ10対0で勝っている試合でも、まったく手を抜く
ことなくスクイズで加点した。
あまりの徹底ぶりに、他の監督から大いに批判を
受けていたことは知ってはいたが、
弱小チームが勝つためには、いや、どこのチームよりも
厳しい練習をしてきた子供たちの試合後の誇らしげな顔を
観る喜びのほうがはるかに嬉しかった。
準決勝から先の壁は以外にあっされと突き破ってくれたのは
次男坊の代であった。
春の大会であっさり優勝し、夏も連続で優勝した。
この代は6年生は5人だったが、一人ひとりの体格がよく
試合開始の挨拶で対戦相手と比べても見劣りしなかった。
次男坊を守りの要のキャッチャーにし、大型打線が組めた
こともあり理想に近いチーム編成ができたと思っていた。
ところが、ここが少年野球の奥行きの深さというのか
分からないもので、満を持して出場した県大会ではまさかの
コールド負けを喫してしまったのである。
この大会は地元テレビの放送が夏休みの終わりに放映される
ことから、他の県大会に比べて人気があったが、
試合終了後の子供たちの泣き顔しか映らなかった。
今、振り返ってみると、甲子園の初出場校がなかなか
初戦を突破できないのとよく似ていて、この経験が
あったから次があったのだと思われる。
チームはまた一つステップアップして強いチームに
変わりつつあったように思う。
次男坊の代であった。
春の大会であっさり優勝し、夏も連続で優勝した。
この代は6年生は5人だったが、一人ひとりの体格がよく
試合開始の挨拶で対戦相手と比べても見劣りしなかった。
次男坊を守りの要のキャッチャーにし、大型打線が組めた
こともあり理想に近いチーム編成ができたと思っていた。
ところが、ここが少年野球の奥行きの深さというのか
分からないもので、満を持して出場した県大会ではまさかの
コールド負けを喫してしまったのである。
この大会は地元テレビの放送が夏休みの終わりに放映される
ことから、他の県大会に比べて人気があったが、
試合終了後の子供たちの泣き顔しか映らなかった。
今、振り返ってみると、甲子園の初出場校がなかなか
初戦を突破できないのとよく似ていて、この経験が
あったから次があったのだと思われる。
チームはまた一つステップアップして強いチームに
変わりつつあったように思う。
長男の代とその次の代は、ベスト4がほとんどで
優勝、準優勝には今一歩とどかず、しばらく足踏み状態となった。
しかし、ベスト4となって、これまでの弱小チームから
強豪チームとのイメージを他のチームに植えつけることが
できたことが、大きな収穫となった。
監督1年目の抽選会では、我がチームと一回戦の対戦が
決まったチームの主将がガッツポーズをしていたのを
今でも思い出します。
代表選手に選抜され、夏の県大会にも出場できたり
子供たちは確実に勝つことの喜びを意識しはじめて
くれた時期でした。
そして何よりこの時期は、監督としての戦術や考え方を
認識できた大切な時期でした。
宿命のライバルチームの練習方法や試合運び、あのチームに
あって我がチームに欠けているものなど、多くのことを
学ぶことができました。
そういった意味では、長男たちの頑張りは、その後の我が
チームに大きな大きな大輪の花を咲かせる土台を作って
くれたと感謝しています。
長男が5年生の夏。姉妹都市から少年野球チームが来て親善試合を
行うことになった。
ただ、代表の選手はベスト4のチームが主力となり、我がチームからは
一人も選抜されることはなかった。
そんな中、姉妹都市から来た子供のホームスティ先がないとのことだったので、
我家ともう一軒で率先して引き受けることとした。
勿論、このイベントを通して子供たちには、来年こそベスト4に
なるんだ、なりたいという思いを持ってもらいたいとのひそかな
企みがあったが・・・・・
そして長男が6年生となる年が始まった。
この代はやはり6年生は4名だけで、4~5年生が半分以上
混じったへなちょこチームの印象が強かった。
(実はその後もずーとこのチーム構成は同じだったのだが・・・)
ピッチャー候補は長男しかいなかったことから、正月明けから
毎朝、会社の出勤前にピッチィングの練習をすることにした。
不思議なことに、長男も嫌がることもなく、外で壁にボールを
ぶつけている音で私が起きることが多かったような気がする。
そして向かえた春の大会では、見事に強豪を破って念願の
ベスト4入りを果たすことになった。
監督はもとより、お母さんたちは大はしゃぎ、まるで
盆と正月が一緒にきたかのような状況だった。
試合の日の夜は、祝勝会と称して、一家庭一品持ち寄り
の飲み会が始まったのは、丁度この頃で、それがその後営々と
続くことになる。
ただ、憧れの市営球場での準決勝では、同じ小学校に通う
子供のいるあの宿命のライバルには、なにもできないまま
0対4で敗れ去った。
行うことになった。
ただ、代表の選手はベスト4のチームが主力となり、我がチームからは
一人も選抜されることはなかった。
そんな中、姉妹都市から来た子供のホームスティ先がないとのことだったので、
我家ともう一軒で率先して引き受けることとした。
勿論、このイベントを通して子供たちには、来年こそベスト4に
なるんだ、なりたいという思いを持ってもらいたいとのひそかな
企みがあったが・・・・・
そして長男が6年生となる年が始まった。
この代はやはり6年生は4名だけで、4~5年生が半分以上
混じったへなちょこチームの印象が強かった。
(実はその後もずーとこのチーム構成は同じだったのだが・・・)
ピッチャー候補は長男しかいなかったことから、正月明けから
毎朝、会社の出勤前にピッチィングの練習をすることにした。
不思議なことに、長男も嫌がることもなく、外で壁にボールを
ぶつけている音で私が起きることが多かったような気がする。
そして向かえた春の大会では、見事に強豪を破って念願の
ベスト4入りを果たすことになった。
監督はもとより、お母さんたちは大はしゃぎ、まるで
盆と正月が一緒にきたかのような状況だった。
試合の日の夜は、祝勝会と称して、一家庭一品持ち寄り
の飲み会が始まったのは、丁度この頃で、それがその後営々と
続くことになる。
ただ、憧れの市営球場での準決勝では、同じ小学校に通う
子供のいるあの宿命のライバルには、なにもできないまま
0対4で敗れ去った。
そのチームはコーチも少なく、練習も日曜日の午前中で終わり。
子供の人数も各学年3人位で、試合には3年生もスタメンに入れ
ないといけない状態で、結果はいつも一回戦の5回コールド負けの
連続だった。
そんな中、子供の送り迎えをしていると、当然のようにいつの間にか
コーチになっていた。
そして1年後。今度は前の監督が辞めることになり、私が監督を
引き受けざるをえない状況になってしまった。
長男の通っている小学校には、常勝チームに所属している子供も多く
いたので、なんとかしてそのチームと決勝戦を戦えるチームにしたい
と夢のようなことを毎日考えていました。
とりあえず、やれることは次男坊と三男をチームに入れ、友達を
片っ端から連れてこさせてなんとかひき入れる算段をしたものです。
ポスターを作り、あちこちに貼りにいったり、練習の後、焼き芋を
焼いてみんなで食べさせたりしていたことしか余り記憶にない。
夏には合宿と称して2泊3日で千葉のプールに行ったり、秋には
ディズニーランドなんかにも行きました。
この頃は強くしたい想いより、子供たちと楽しく過ごせれば
いいと考えていたと思います。
練習の合間、子供たちと輪になって食べるおにぎりの美味
しかったことは、いまでも、どんな物を食べてもかなわない
とつくずく思います。
それでも、チームは少しは強くなり、一回戦はなんとか突破できる
ようになっていました。