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昨年12月NHK-TV「鶴べいの家族に乾杯」の番組で新湊市(現射水市)を訪ねた番組で「旧新湊地区」が放映され正月の東宝映画で封切られのを知り、数日前に4年ぶりに映画を観にいった。新湊市へは昭和37年(1962年)4月に独身で県外のへの初転勤した思い出の地である。新湊市は新産業都市として、1962年に制定された「新産業都市建設促進法に基づいて、高岡市伏木港、新湊市と富山市の「産業の立地条件及び都市施設を整備することにより、その地方開発発展の中核となるべき」として指定された地域である。」(wikipedia)とあり、新湊市と富山市の境の「放生津潟(越の潟)」を整備開発し「富山新港」を開港する計画の初年度であった。転勤先は富山県の新湊市で新規営業所の店舗設置の転勤命令だが、新湊市はどの辺かと思い、国鉄の鉄道地図みたが見当たらない、ようやく見つけたのが富山地方鉄道の射水線(現万葉線)に「中新湊駅」で市の中心駅であった。富山支社で新湊市の現況と更に母店となる高岡営業所でそれぞれ1泊し説明を受けたが理解出来なかった。3日後に新湊市に所長に案内され小さな事務所と下宿さきを案内され自転車で新湊市内を歩き回ったが中心部には信号機が一つだけで北陸劇場と名称の映画館が一つあった。新湊市役所、事務所の大家さんや下宿先の小母さんに色々訊ね更に高岡営業所から新湊に住む婦人営業員が新港に転属となり、ようやく新湊市を理解でるようになった。当時は人口約3万人の富山湾の漁港町で、越の潟潟の周りは大手製造業の工場や大手サービス業が人口増を目当てに新店舗の開設に新設があた時代である。TVで観る映像は新湊の町名は変わりはないが道路や家は汚かった内川は当時とはすっかり変わり綺麗な街となっているが、それは50年以上の前の家屋は建て替えられているのは当然のことである。
(アップ画像は全て画像検索を拝借引用)
この内川は昔、海運の水路だったそうで、今は富山県の観光サイトで「日本のベニス」と云われる水路で観光船遊覧船も運航されているそうだ。北陸三県は浄土真宗の一向宗の仏教王国で新湊には立派な寺社仏閣があったのを記憶している。店舗事務所も下宿先も立町にあり「放生津八幡宮」もほど近く、映画「人生の約束は」この八幡宮の曳山祭りがテーマである。下宿の小父さんは新湊の曳山は「提灯祭り」と呼び、高岡や加賀の小松の曳山祭りより立派であると誇らしげに自慢していた。
神社の裏は富山湾を臨む綺麗な砂浜で2度ほど海水浴を楽しんだことがあり、奈良時代の8世紀頃に越中高岡の国府へ赴任した貴族で万葉の歌人で知られる大伴家持が「あゆの風 いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人(あま)の 釣する小舟(をぶね) 漕(こ)ぎ隠る見ゆ」と詠んだ詩がある。映画では新湊から望む春の立山連峰が映し出されるがこの景色またことが無いのである。
曳山祭りは10月2日が本祭りだが下宿先には男5人いるが皆、下戸である。夕刻祭り見物行くと顔見知りなった近所の小母さんが「祭り見物が終わったら家へ寄られよ、〇〇さんでは酒は飲まないから家で飲みまっし。」と誘てくれる。故郷の新発田でも諏訪神社の大祭で台輪と呼ばれる曳山があるが成るほど曳山は10数台あり比べ物にならないほど見事な曳車祭りであった。祭り見物早々に引き揚げ小母さん宅に伺うと「よう来られた。まず上がりまっし」と座敷に通され、すでに縁者のご老人が酒を酌み交わしていたが直ぐ大きな杯に酒を注がれて、曳山祭りの感想など聞かれ、北陸第一の曳山祭りであると聞かせられ大変参考になった。映画の「人生の約束」は曳山を曳くことで地域の人や出会った人との繫がりがあり長い人生に「人と人を大切にしなければならない。」とのシナリオと感じであった。新湊市で4年間過ごし、その後は関西方面の転勤族で大阪勤務の昭和61年(1968年)春の選抜高校野球で北信越ブロックから新湊高校が選抜され準決勝まで勝ち残り、当時は北信越の高校野球は低レベルとされていたが、甲子園で「新湊旋風」が巻きおごり一躍、田舎の漁港町が話題となった。この時応援と思い甲子園の応援団席受付に偶然にも顔見知りの人に出逢い新湊高校の応援団席で2回戦から準決勝まで応援したことがある。これも繫がりであろうと思う。そして新湊を舞台にした映画化で富山県の呉西地区の観光巡りで魚介類も旬となりつヽあるようです。今や射水市新湊地区の年賀状の繫がりは、50年以上になると、たった2名だけである。明日、土曜から月曜にかけ西日本、近畿地方に強い寒波が南下してくる予報だが街歩きも出不精となるであろう。
想い出の地、50年は変わりますよね。
私も学生時代過した場所に行ってみましたが?でした。
主人もきっと、身にしみたと、思います
50年前にお住まいに成って居たとは、きっと私達より数倍感じ取る事が出来たのでは無いでしょうか・・・
立派なお祭りですね もう一度機会が有れば見に生きたと思っております。色々学ぶ事が多かったです・・・・・
U さんのご苦労も少しですが解った気がします
いい映画でした・・・・
50年は世の中は進歩し変わり長いと実感しました。
「新産業都市建設促進法」は2001年に廃法になりましたが、新湊の街は綺麗に生まれ変わりました。
汚かった内川は越の潟を海水を巡回させ綺麗に甦ったのだと思います。
当時の娯楽と言えば1映画館とパチンコくらいで、お酒と読書程度でした。
でも、下宿先のあんチャン達から海釣りの手ほどきを教えてもらい、海釣りの面白さを体験しました。
海釣りに慣れると休日は熱中し、早朝から釣りです。よく釣れました。20~30㎝級が釣れると面白さが判ります。
今は港湾や浜辺(磯釣り)での釣りは難しいのでは無いのではかと思っています。
コメント
50余年前と言えば、我が人生の大昔でしょうか
長女もこの地で生まれ、忘れがたい思い出です。
映画「人生の約束」は人と人との出会いです。「繫がり」を大切に生きて行くことの大事さを再認識しました。
現在でも生活環境が違っても、{}地域の方々と仲良く、繫がりに心がけているつもりです。
私は高知と大分で新規営業所を開設しました。
大分では上司の紹介で某生保の大分支社の小さな保健室?を営業所としてスタートしました。
先ず女性事務員を採用し、暫らくは2人だけの営業所でした。
大分は僅か3年半で福岡に転勤しましたが、
35年経った今も大分には年賀状交換する方が2人います。
コメント
昭和39年、アジア初の「東京オリンピック」開催で戦後の日本の高度経済成長の走りで、どの業界でも生産工場の新規開設や販売店の拠点の全国展開でした。
dojyou38さんも、お互い苦労しましたが、仕事も遊びも半々で若い頃の思い出が一杯の経験しました。