GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「ジョー・ブラック」と母との関係

2008年01月12日 | Weblog
 アル・パチーノにオスカーをもたらした「セントオブウーマン」のマーティン・ブレストが、製作・監督したファンタジー。ブラッド・ピットとアンソニー・ホプキンスの関係がとても良くできており、荒唐無稽のストーリーであるにも関わらず、見出したら最後まで見入ってしまうお奨めの映画です。

 B・ピットが死神(ジョー・ブラック)としてA・ホプキンス演じる大会社の老社長(ビル)を迎えにくるストーリー。老社長には若くて恋愛中の女医のスーザンがいる。そのスーザンがコーヒー・ショップで誠実な好青年と出会いお互いに一目惚れするが、別れたあとすぐに彼は、街角で車にはねられ即死。しかし、スーザンは知らない…。(え、どうなるの? 冬ソナみたい?)

 老社長のビルは体の異変を感じるが、まだ何の前触れか分からない。しかし、耳元でささやく声が聞こえる。その正体こそ迎えに来た死神。ようやく見せた姿は街角で即死した彼の肉体を借りていた。
「あの世へ連れて行く前に、関心あるこの世界を見学したい」と余命と引換えにビルに案内役をさせる。夕食会でみんなの前で<ジョー・ブラックをよろしく>と紹介するがビルとの関係は話せない。スーザンは驚きの表情を見せ、二人の距離は急速に狭まっていく。ビルの会社の若くてやり手取締役がスーザンの恋人。彼は突然現れた不思議な青年ジョーに当然ながら不快感を持つ。会社の取締役会までジョーを引きつれて来るビルにも不快感を持つ。死神のジョーは、とてもキュートでしかも、品格がある。(が、ピーナツバターが大好きでスプーンを舐めるブラピには閉口したが……)

 料理や愛、友情、セックスを知らなかった死神ジョーが、スーザンとの愛、ビルや家族との信頼関係などに触れながら人間愛の素晴らしさを知り、だんだんと心をゆすぶられていく。この辺りの展開がとても良くできている。「ターミネーター2」でターミネーターが少年と過ごすうちに人間の感情を理解していく展開や「アンドリューNDR114」のアンドリューが200年にわたって人間の心を育んでゆく物語を彷彿させる。今回は若いハンサムな死神が人間世界で様々な出来事に遭遇し、最後に愛するスーザンの真の幸せを考え、ビルと共にあの世へ去って逝く。<恋愛を通じて人は成長する>という私の持論にも通じる素晴らしい心の成長物語、そして、とても切ない結末に感動させずにはいられない。

 ビルは、娘に相手の富や条件よりも、情熱的な愛を一番大切にして欲しい、人生の基盤、家庭の基盤は愛だと、教えます。

 人のいい姉の夫は、「妻は俺の嫌なところを全て知った上で許してくれる。お互いの全てを、愛して受け入れることが出来れば、何も怖いものはないのだよ…」と熱く語ります。

 病院で死を待つ黒人の老婆がジョー云います。「運のいい人だけが、素晴らしい思い出を持って天国に行ける」しかし、まだジョーにはこの意味が分からない。

 死神ジョーは、「愛しているから、スーザンも連れて行く」と言いますが、ビルから「好きなものを、ただ奪うことは愛とは言わない。愛の本質とは生涯を懸けて相手への信頼と責任を全うすること、そして愛する相手を傷つけぬこと」と教わります。「あの娘を幸せにできるのは、共に手に手をとって美しい人生を一緒に生きていける男性だけだ」と言われます。心に残る名セリフです。

 今、現実に愛人と呼ばれる人やそういう関係を持つ人に、ビルが語る<愛の本質>をもう一度噛みしめて欲しい。人の人生は決してそんなに軽くはない。支えきれないくらい重いものだ。愛の本質を知って初めてその重さを感じ、支えきれるもの。自らの心の渇きを癒すために人を愛するものではものではない。

 ラストの花火のシーンは、素晴らしい人生のように美しくてしかも切ない。死神ジョーは、美しい光景と人間世界との別れに涙を流します。深い友情と信頼で結ばれたジョーとビル。「別れはつらい…、それが生きた証だ…」ほんのわずかな時間だったが死神ジョーは、素晴らしい体験をしたのだ。ビルもまた自らの人生を振り返り、家族全員に感謝し別れのつらさ、切なさを感じながら去っていきます。

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 昨年5月、母が亡くなったが、その数年前、腰骨を骨折して今までのように歩けなくなってしまった。痛くて辛い日々を嘆く母をどう慰めたらいいのか私は戸惑った。そんな時、この映画の老女の言葉を思い出した。「運のいい人だけが、素晴らしい思い出を持って天国に行ける」死を待つ母と向かうスタンスをようやく見つけたのだ。

「なにを嘆いているんだよ。もっと痛くて毎日寝られない人が世の中にいっぱいいるんだよ。今まで母さんほど好きなことして、好きなところに行っていた人が周囲にいるかい? 日本中行きたいところに旅行しただろ、俺が香港に連れて行ってからも世界中、行きたいところに行って来ただろ。着たい服や着物もタンスにいっぱい詰まっている。カバンも幾つあるか数え切れないよ。その上、兄貴や俺をりっぱに育ててきてくれたじゃないか。嫁にして孫達もみんな問題なく幸せに育っているだろ。みんなお母さんのおかげだよ。こんな素晴らしい思い出をいっぱい持っている人が何を嘆くことがあるんだ?自分の人生に悔いなどないはずだろう?」

 実家に帰った時はいつもこのように母と接した。それからしばらくしてからだった。死の床につく二年前くらいから「我が人生に悔いなし」と豪語し始めた。母は心の整理をようやくつけたのだろう。でも体調が悪い日はいつも弱気になっていた。電話でそう感じた時は会社帰りに寄っていつものように元気づけた。

 人が生きてきた証とは、別れがつらくなるような人生を心から喜ぶこと、そしてその無常を受け入れることではないだろうか。母や人の心根の奥など覗けるはずがない。ただ父や兄や私は間違いなく母に感謝し、母と共に生きた人生を喜び悔いなど微塵もないはずだ。母もそうであって欲しいと願うしかない。そうだったと信じている。