空海の風景〈下〉中央公論社このアイテムの詳細を見る |
この下巻は先週九州でひょんなことからよった古本屋で手に入れた。100円!
上巻が680円もしたのであるから大もうけ!
さて、上巻は忙しく1ヶ月もかけて少しずつしか読めなかったのに下巻は一気に読んだ。
下巻の焦点はほとんど最澄との確執模様。
権力も得て絶頂であるはずの最澄、しかし最先端の密教がない。
いまだ権力に届かず、しかし今最先端の密教、しかもその正嫡のお墨付きまでもっている空海。
なにやら、明治時代に西洋から最先端の科学を輸入する競争にも似ている。
しかしスケールは全く異なる。なにしろこの平安初期は国家の中枢事項である。
真っ正直であるが故に、最高の地位まで上り詰めた最澄。しかし、その地位を維持するためには最先端でなければならない。
真っ正直に空海に密教を学ぼうとする最澄。しかし、透けて見える最澄の意図に頑として、かつ人間関係を壊さずにすり抜ける空海。そこに天皇と藤原家の確執がかぶさる。
平安初期の日本の中枢も確かに広がる壮大なアジアの国際社会の最先端と切り結んでいたのである。
この小説の描く空海も最澄も人間として生臭くひびく。
私は、司馬がこの小説を書いた70年代前半という時代を見ている。
私らの世代が大学紛争をくぐり抜けた時代である。司馬にはそのようなことは小事であるかのようだ。
この中にそこから抜けて来て修行にかかずる学生らしい若者が登場し、司馬が質問をする場面がある。
「空海以降、この宗教に偉大な僧があらわれたか?」
「○○」
しかし、司馬のそのことに対する評価は低い。
第2次大戦を生き抜けた司馬のスケールには遠く及ばない。
空海VS最澄。
最澄は結果として密教に圧倒されるが、その後、平安時代を抜けて鎌倉へつながるとき、圧倒的な鎌倉仏教として発展する土壌となる。すなわち瞬間風速ではわからないのが歴史である。
科学の発展も似ている。その時代の瞬間風速だけでは計り知れないのが歴史の醍醐味でもある。
空海が高野山を作り始めるのは40歳を超えてからであることも面白い。
この高野山の地はかつて調査でうろうろしたこともあり、なつかしい。
それを40を超えてそこで空海が死ぬまでの20年足らずのうちにいわば都にしてしまったのである。
かつて調査でうろうろしたこともある、うっそうとした高野の森を思いながら、読み終えた。
確かに、たった60年という短い人生を目一杯駆け抜けたミレニアムスケールの天才であったのだな、と思いつつ。
<短く一回しかない人生、一所懸命生きているか?>
と迫ってくる。
今日も暑い!