日本語をうまく書きたい
今の自分、日本語がうまく出来ているかどうか、いまだに自信がない。この秋、出版予定で入院中に書き上げた原稿も出版社の担当者の添削にかかると間違いだらけだ。「てにをは」や句点の置き方は実に難しいのだ。
振り返ると子供の頃から「国語」が大の苦手であった。今更ながら考えると、それはその科目が苦手とか嫌いとかいうことよりも、コミュニケーションを自由に取る事が苦手だったのだろうと思える。特に自分の思いや要求を相手にうまく伝える事に、である。
直接的に日本語を上手になりたいと思ったのは、二〇〇六年、学生にそそのかされて始めたこのブログが要因である。専門論文以外についての文章を公に記すことなど全くない人生を歩んで来た。しかし、若者たちは文系だ、理系だなどという区分なしにブログという新しいツールで容易にメッセージの交換をしている。もちろん電子メールはすでに随分と前から普及している。かつて、「書く」という作業によるコミュニケーションは、電報等の文章になっていないものを除いては、手紙でのみあったのだから、それに比べたら文章を書いてコミュニケーションを取るということがはるかに日常化していたわけである。
電子メールは、送付先をミスして大混乱、ひんしゅくを買う等という事故も時々勃発していた。それらの社会におけるコミュニケーション手段、情報流通の大変革の中で、より上手な言葉を求められるようになったことは間違いがない。
「日本語をうまく書きたい」がために、そのスキルのためのハウツーものとおぼしきものも乱読してみると、なかなか面白いのである。
(つづく)
今の自分、日本語がうまく出来ているかどうか、いまだに自信がない。この秋、出版予定で入院中に書き上げた原稿も出版社の担当者の添削にかかると間違いだらけだ。「てにをは」や句点の置き方は実に難しいのだ。
振り返ると子供の頃から「国語」が大の苦手であった。今更ながら考えると、それはその科目が苦手とか嫌いとかいうことよりも、コミュニケーションを自由に取る事が苦手だったのだろうと思える。特に自分の思いや要求を相手にうまく伝える事に、である。
直接的に日本語を上手になりたいと思ったのは、二〇〇六年、学生にそそのかされて始めたこのブログが要因である。専門論文以外についての文章を公に記すことなど全くない人生を歩んで来た。しかし、若者たちは文系だ、理系だなどという区分なしにブログという新しいツールで容易にメッセージの交換をしている。もちろん電子メールはすでに随分と前から普及している。かつて、「書く」という作業によるコミュニケーションは、電報等の文章になっていないものを除いては、手紙でのみあったのだから、それに比べたら文章を書いてコミュニケーションを取るということがはるかに日常化していたわけである。
電子メールは、送付先をミスして大混乱、ひんしゅくを買う等という事故も時々勃発していた。それらの社会におけるコミュニケーション手段、情報流通の大変革の中で、より上手な言葉を求められるようになったことは間違いがない。
「日本語をうまく書きたい」がために、そのスキルのためのハウツーものとおぼしきものも乱読してみると、なかなか面白いのである。
(つづく)