晴耕雨読

晴れた日には土いじり、雨の日にはパソコンとボタニカルアート

東郷公園のZ旗

2005-05-26 | Weblog
いよいよ明日は日本海海戦100年目。
そこで、福津市にある東郷公園に行ってきました。
明日は春季大祭があるということで、(いつも掲げてあるのかもしれないけれど)
公園内の日本海海戦記念碑には、日の丸・Z旗・旭日旗が掲げてありました。


いいお天気で、ゆっくり探検したかったけれど
時間の都合で???よくわからないまま帰ってきました。

高台の東郷公園から日本海を眺めると大小の島々が見えるんですが
左側に見えたのは、壱岐対馬?あんなに近くに見えるもんなんでしょうか?

そうだとすると沖ノ島からは海戦がよく見えたでしょう。
今度、地元の詳しいおじいちゃんかなんかつかまえて
ぜひ、ガイドをしていただきたいものです。

極寒の満州・・・黒溝台の惨戦・・・

2005-05-25 | 坂の上の雲
もうすぐ100年前のあの日がやってこようというのに、
風邪を引いてブログから遠ざかっていました。

こんな風薫る5月に寝込むなんて、極寒の満州で戦ったご先祖さまたちに
申し訳ないですよね。

極寒といえば、満州の冬って日本の東北の寒さなど
くらべものにならず(零下40度にもなるらしい)
地下まで凍っているために、あらたな壕を掘ろうにもツルハシが
跳ね返って、地面にわずかなかすり傷をつけるのがやっとであり、
一日かかって7センチしか掘れなかったとという例もあるそうです。

総司令部の宮城出身の参謀松川敏胤は、
この厳寒期に大兵力の運動はとてもおこなえるものではない
といって、ロシアが動いている報告を一笑に付したらしい。

しかし、ロシア人ってそういうところで暮らしている民族ですよ。
防寒服でも毛のついた、値段見当で日本兵のより3倍は高そうで
ロシア人がナポレオンの常勝軍を撃破したのはロシア本国の冬季を
利用したという先例もあるんです。それなのに、
悲しいかな自分の経験の範囲では
「こんな寒さに動けるか!」と固定観念として持ってしまったんですね。

松川敏胤さんや児玉源太郎さんと同じでそう思い込みそうな私自身、
固定観念を持たないように、想定の範囲を狭めないようにしたいものだと
反省をした次第です。






ちいさな悩み?でも気にかかる

2005-05-18 | パソコン・インターネット関連
いろいろ悩みがあるんですよね。
無線LANの調子が悪いとか…なんだか今日は全般的につながりにくいんです。
最近LANケーブル接続(21Mbps)と無線LAN時(5Mbps)の速度差が
ありすぎるし、もちろんBUFFLOのサポートにも聞いて
やれることはやってみたし…。あとはNISをアンインストールして
再インストールしてみてだって。ちょっと今ヤル気ないなあ。

それからIllustrator練習中だけど、パスやアンカーがまだうまく使えない。
すっきりしないな~。

もひとつ、ひょんなことだけど、散歩中に見かけるお布団干し、
あれって、掛け布団の柄の方を上にして干してあるのが多いけど
自分の体が当たる内側を陽に当てたほうがいいと思うんだけどなー。

今日はちょこっと乃木さんネタ

2005-05-17 | 坂の上の雲
旅順での戦いでは、無能とまで言われた乃木大将ですが
戦後、(203高地が陥ちたとき、乃木に代わり指揮をした)
児玉の名が世間に知られることが薄く、乃木の名声が
旅順の名将として世間に喧伝されたのは、乃木さんの
精神性とその容姿が無縁ではないでしょう。

乃木さんの軍服は、すべて横浜のイギリス人の仕立て屋につくらせていたそうです。
ふつう、偕行社で14、5円もあればできる将校服が、乃木のは200円もかかり
様式まで彼好みで、すでに旧式になった箱型の帽子、上衣も黒ラシャの肋骨服で
他の将校と違ったものであり、その長靴も日本陸軍の制式とは異なり
ひざまで覆う長大なものであった。それが体の割りに脚の長い
乃木さんによく似合ったらしい。

なんとその写真が、先にご紹介したジャパンメモリーに
あるんです。ぜひ、見てみてください。おしゃれですよ~。


画や写真がいっぱい

2005-05-15 | 坂の上の雲
ガンダムさん、タイムリーな話題が提供できてよかったですね。
「決して侵略戦争ではなかった」というのがちょっと
不安になって、(何しろ、あの時代に列強に早く追いつきたいと
必死に願っていた日本ですから、下心がなかったとはいえなくもないし)
ネットを検索していたら、出会いましたねぇ~
ジャパンメモリー(日本の過去と現在を結ぶデータベースだそうです)
ジャパンメモリー

ぜひ、訪問してみてください。
想像力が広がりますよ。

バルチック艦隊エピソード2・ロジェストウェンスキー

2005-05-15 | 坂の上の雲
バルチック艦隊は、1904年10月15日バルト海に面したリバウ港を出港。
艦隊の司令長官はロジェストウェンスキーである。

ロジェストウェンスキーは、端正で威厳に満ちた容貌の持ち主であり
利口でスマートだということで、ニコライ二世の寵愛を受けていた。

彼は、元来侍従武官で事務にやかましく部下の不規律を発見したがる
衝動は異常なほどで、一軍の将というよりは天性の憲兵である、
と司馬さんは書いている。

そのうえ臆病!
前回紹介した北海での漁船群攻撃は「日本の水雷艇が、
ヨーロッパ北部の海に待ち伏せしている」という妄想を、
大艦隊の統帥としてそれを沈静させなければならないところを
彼自身その妄想のとりこになって、かの事件を引き起こしたというわけ。


バルチック艦隊エピソード1

2005-05-14 | 坂の上の雲
もちろん、歴史上の出来事を時系列で追うことも必要だけど
坂の上の雲にちりばめられたエピソードがおもしろいので
前後するかもしれませんが、取り上げていきたいと思います。

リバウ港を出たバルチック艦隊はその後さまざまな困難に
直面することになる。

その1 日本の駆逐艦が北海に出没して艦隊をねらっているという
    うわさにおびえ、北海で操業中の英国の漁船群を
    攻撃してしまい(ありえねぇ~)、世界中の物笑いになり、
    以後英国世論と大英帝国海軍を敵にまわして
    航海を続けねばならなかった。

なぜ、日露戦争は始まったのか

2005-05-11 | 坂の上の雲
ガンダムさんコメントありがとうございます。

1904年開戦ですが、明治37年のことです。
(明治37年2月~明治38年9月)
この戦争のロシアの目的は不凍港の獲得と満州・朝鮮への
影響力の拡大だったのに対し
日本は、満州・朝鮮からのロシアの影響力の排除でした。

決して侵略戦争ではなく、この戦争に負けると日本は属国になる
という悲壮な覚悟だったようです。

人口は2.5倍、国家歳入は8倍、軍人は15倍、軍艦は2倍の
ロシアに対し、近代国家たろうとしてまだ37年
(ちなみに秋山真之は明治元年生まれ)で開戦ですから、
明治の日本人は本当に(おこがましく言っちゃいますが)
健気でしたね。

203高地

2005-05-11 | 坂の上の雲
・・・・有名な203高地・・・
とにかく、旅順を落とす必要があった。
旅順艦隊を沈めるためには、湾を見下ろす203高地より、旅順艦隊に重砲を
打ち込むことが有効であると、海軍では早くから陸軍の第三軍に申し入れていた。
しかし、海軍の指図は受けないという頑迷な伊地知参謀長により実行に移されなかった。

いや~、とにかくよく言われるように、この旅順攻撃に際しては第1回総攻撃のときに
まず1万6千足らずの死傷者を出しています。その後も乃木軍は攻撃の方法を変えず、
累々と屍の山を築いていくことになる。計4回の総攻撃を加えたが、全くの作戦無能力のため
結果的に6万の死傷者をだしてしまうのです。


そこで、満州軍総参謀長の児玉源太郎がたまらず乃木に代わって三軍を指揮しにいくことにした。
しかし、これは統帥権を侵すことにもなりかねないし、へたをすると乃木さんは恥じて
自害をするかもしれないという、戦略的頭脳と同じ長州人として友人である乃木希典に対する
配慮という難しい課題を抱えて旅順に向かうのである。

四元教雄さまのHP(旅順紀行)に、203高地およびそこから
旅順湾を望む画像が掲載されています。なるほど、ここから
観測将校の指示により28サンチ榴弾砲でもって、旅順艦隊を壊滅させたのか・・・
と感慨深いものがあります。
http://www.mars.dti.ne.jp/~yotumoto/index.html

この攻撃により、12月5日203高地占領、12月8日に旅順艦隊壊滅となるのです。