今年も、皇后さまは20日の誕生日にあたって文書でお気持ちを表した。例年はその1年の出来事を振り返る内容だったが、皇后として最後となる今回は、皇太子妃、皇后として歩んだ自身の60年近い歴史を振り返るものとなった。
皇后さまは文書で、24歳の結婚当時の心境を「大きな不安」と表現する一方で、天皇陛下の「お立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれた」とつづった。陛下は当時「義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」と語っていたという。その言葉のままに憲法の定める「象徴」の立場を模索し続けていた、と感慨を述べている。
皇后さま自身も、「経験するだけでは足りない。経験したことに思いをめぐらすように」という学生時代の学長の言葉を自分に言い聞かせながら、日々を過ごしてきたという。毎年定例の行事でも所作の確認を怠らず、宮中祭祀(さいし)や養蚕など伝統行事をいかに継承していくかを気に掛けるのも、そんな思いの表れだろう。
84歳になった皇后さま。宮内庁によると、長年の頸椎(けいつい)症性神経根症に加え、今年初めころからは時折足が痛むという。現在は、微熱やせきなどの風邪の症状も続いている。「まさに満身創痍(まんしんそうい)」(側近)の状態だが、「ご譲位まで陛下がお元気に務めを果たされる。そのことだけを願い、私は精いっぱいお支えします」との決意を周囲に伝えているという。(島康彦)
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皇后さまは84歳の誕生日にあたり、宮内記者会の質問に文書で回答した。全文は次の通り。
© 朝日新聞 皇后さま(2018年10月12日、皇居・宮殿の中庭、宮内庁提供)
【質問】
この一年も、西日本豪雨や北海道の地震をはじめとする自然災害など様々な出来事がありました。今のお立場で誕生日を迎えられるのは今年限りとなりますが、天皇陛下の退位まで半年余りとなったご心境をお聞かせ下さい。
【回答】
昨年の誕生日から今日まで、この一年も年初の大雪に始まり、地震、噴火、豪雨等、自然災害が各地で相次ぎ、世界でも同様の災害や猛暑による山火事、ハリケーン等が様々な場所で多くの被害をもたらしました。「バックウォーター」「走錨(そうびょう)」など、災害がなければ決して知ることのなかった語彙(ごい)にも、悲しいことですが慣れていかなくてはなりません。日本の各地で、災害により犠牲になられた方々を心より悼み、残された方々のお悲しみを少しでも分け持てればと思っています。また被災した地域に、少しでも早く平穏な日常の戻るよう、そして寒さに向かうこれからの季節を、どうか被災された方々が健康を損なうことなく過ごされるよう祈っています。
そのような中、時々に訪れる被災地では、被災者の静かに物事に耐える姿、そして恐らくは一人一人が大きな心の試練を経験しているだろう中で、健気(けなげ)に生きている子どもたちの姿にいつも胸を打たれています。また、被害が激しく、あれほどまでに困難の大きい中で、一人でも多くの人命を救おうと、日夜全力を挙げて救援に当たられる全ての人々に対し、深い敬意と感謝の念を抱いています。
約三十年にわたる、陛下の「天皇」としてのお仕事への献身も、あと半年ほどで一つの区切りの時を迎えます。これまで「全身」と「全霊」双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に「全身」をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。五月からは皇太子が、陛下のこれまでと変わらず、心を込めてお役を果たしていくことを確信しています。
陛下は御譲位と共に、これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、以後もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これから皇太子と皇太子妃が築いてゆく新しい御代の安泰を祈り続けていきたいと思います。
二十四歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました。そして振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの六十年に近い年月を過ごしていらっしゃいました。義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、新憲法で定められた「象徴」(皇太子時代は将来の「象徴」)のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています。
皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、六十年という歳月が流れたように思います。学生時代よく学長が「経験するだけでは足りない。経験したことに思いをめぐらすように」と云(い)われたことを、幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。その間、昭和天皇と香淳皇后の御姿からは計り知れぬお教えを賜り、陛下には時に厳しく、しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。三人の子どもたちは、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした。これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。
陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています。そうした中で、これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け、心を寄せ続けていければと思っています。例えば、陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題などは、平成の時代の終焉(しゅうえん)と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。これからも家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います。
先々(さきざき)には、仙洞(せんとう)御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて三十年ほど住まったあちらの御所には、入り陽(ひ)の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。三人の子どもたちも皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います。
赤坂に移る前に、ひとまず高輪の旧高松宮(たかまつのみや)邸(てい)であったところに移居いたします。昨年、何年ぶりかに宮邸(みやてい)を見に参りましたが、両殿下の薨去(こうきょ)よりかなりの年月が経ちますのに、お住居(すまい)の隅々まできれいで、管理を任されていた旧奉仕者が、夫妻二人して懸命にお守りして来たことを知り、深く心を打たれました。出来るだけ手を入れず、宮邸であった当時の姿を保ったままで住みたいと、陛下とお話しし合っております。
公務を離れたら何かすることを考えているかとこの頃よく尋ねられるのですが、これまでにいつか読みたいと思って求めたまま、手つかずになっていた本を、これからは一冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許(てもと)に置けます。ジーヴスも二、三冊待機しています。
また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田(おた)の近くに一畳にも満たない広さの畠(はたけ)があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、六月の大祓(おおはらい)の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田(かでん)に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。
皇太子、天皇としての長いお務めを全うされ、やがて八十五歳におなりの陛下が、これまでのお疲れをいやされるためにも、これからの日々を赤坂の恵まれた自然の中でお過ごしになれることに、心の安らぎを覚えています。
しばらく離れていた懐かしい御用地が、今どのようになっているか。日本タンポポはどのくらい残っているか、その増減がいつも気になっている日本蜜蜂は無事に生息し続けているか等を見廻(まわ)り、陛下が関心をお持ちの狸(たぬき)の好きなイヌビワの木なども御一緒に植えながら、残された日々を、静かに心豊かに過ごしていけるよう願っています。