今日から初場所が始まる、表題の句は大相撲隆盛を極めた項のことで、遡ること76年1月15日双葉山の69連連勝止まりになった正月だった、私が6才の出来事でメデアはラジオで日本中が騒然なった、今年の正月は横綱大鵬の記録が破られる歴史的な瞬間に立ち会うか白鵬も大横綱候補には間違いない。
親父の店は現代の店舗とは違っていた室蘭時代は店に入ると土間があり、その先は畳が引いあつた壁側には継竿が立て掛けてあり、棚にはテグスやリール等の小物が並べてあり昔からの店舗その物だつた、土間を奥は台所につながつていた、店の正面から居間に上がり込むと部屋の真ん中に囲炉裏が掘つて帳場の机があり大きなそろばんが置いてあつた、顧客は地方の人達で、時々宿屋代わりもしていた。
夜は決まって酒宴になっていたこと思い出す、北海道の磯釣りの竿は竹竿で15尺4本継ぎに竿先に鯨のヒゲを使い当たりを柔する工夫を、継ぎては糸を巻き漆塗り、昔は本物を作っていたので生乾きの竿に触って漆かぶれで毎年の様に被害を受けていた、私が此処に居た。
竹竿の産地は川口で竿作りの職人は此処に居た、親父の代役で訪ねたことがあるが大歓待を受けた記憶が有るが、商談の内容は殆ど覚えていなかったが遠藤商店とは深い繋がりがあつた、戦後食糧難時代馬鈴薯など送っていたが何と言っても大ヒット事件はスルメを送った事で、遠藤商店も売るものがなかったので親父は毎日魚釣りに隣町の鯨半島の漁師から磯舟を買い保管してもらっていた、一度乗せてもらつたことが有るが直ぐ船酔で漁師には成れないと思つた。
大当たりは烏賊で毎晩の様にイカの大漁が続き、翌朝家族全員でイタンキ浜迄イカ運びの日が続いたことを鮮明に覚えていた。
お袋の苦労は大変なものだった、イカを開き縄に並べる家の周りはイカ簾に、数日干し上げ束ねそれを川口竿作り作りの所へおくつた、戦後遠藤商店がスタート出来たのは竿作り作り職人たちが食糧のお返しと川口がら竹竿が送られて来た、戦後の物のない時代、釣具卸商・遠藤商店が一気に隆盛期に入っていつた。続く
親父の店は現代の店舗とは違っていた室蘭時代は店に入ると土間があり、その先は畳が引いあつた壁側には継竿が立て掛けてあり、棚にはテグスやリール等の小物が並べてあり昔からの店舗その物だつた、土間を奥は台所につながつていた、店の正面から居間に上がり込むと部屋の真ん中に囲炉裏が掘つて帳場の机があり大きなそろばんが置いてあつた、顧客は地方の人達で、時々宿屋代わりもしていた。
夜は決まって酒宴になっていたこと思い出す、北海道の磯釣りの竿は竹竿で15尺4本継ぎに竿先に鯨のヒゲを使い当たりを柔する工夫を、継ぎては糸を巻き漆塗り、昔は本物を作っていたので生乾きの竿に触って漆かぶれで毎年の様に被害を受けていた、私が此処に居た。
竹竿の産地は川口で竿作りの職人は此処に居た、親父の代役で訪ねたことがあるが大歓待を受けた記憶が有るが、商談の内容は殆ど覚えていなかったが遠藤商店とは深い繋がりがあつた、戦後食糧難時代馬鈴薯など送っていたが何と言っても大ヒット事件はスルメを送った事で、遠藤商店も売るものがなかったので親父は毎日魚釣りに隣町の鯨半島の漁師から磯舟を買い保管してもらっていた、一度乗せてもらつたことが有るが直ぐ船酔で漁師には成れないと思つた。
大当たりは烏賊で毎晩の様にイカの大漁が続き、翌朝家族全員でイタンキ浜迄イカ運びの日が続いたことを鮮明に覚えていた。
お袋の苦労は大変なものだった、イカを開き縄に並べる家の周りはイカ簾に、数日干し上げ束ねそれを川口竿作り作りの所へおくつた、戦後遠藤商店がスタート出来たのは竿作り作り職人たちが食糧のお返しと川口がら竹竿が送られて来た、戦後の物のない時代、釣具卸商・遠藤商店が一気に隆盛期に入っていつた。続く