兵隊とは死ぬことなりと、子供の脳裏に焼きっけて行った当時の国の指導は政治家はいたが実働組織は軍[陸軍、海軍、空軍]]に握られていた、伝統的には海軍のレベル高かった、所が日中戦争で力を付けてきていた陸軍の意見が優先される環境になっていた。
この頃の少年達の頭の中には1905年5月27ー28日の日本海海戦が刷り込まれていた、大国ロシア海軍のバルチック艦隊との大海戦、戦艦三笠に東郷平八郎、「本日天気晴朗なれど浪高し」信号を受け待ち構えていた日本海軍が「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の号令この時Z旗が掲げられ先端が切って落とされた。
この時戦法はT字戦法で日本独特の手法で歴史を遡り村上水軍まで行きつく。
太平洋戦争で日米開戦に最後まで反対したのは聨合艦隊司令長官の山本五十六であった彼は日本とアメリカの国力の差を熟知していた数少ない軍人だった、彼の意見は取り入れられず意にそま無かったが根は軍人、真珠湾攻撃を指揮をとる初戦は勝ってもその後をうるえていた、初戦だけは勝てたが二年ほどで日本のゼロ戦の上を行く飛行機、海軍より空軍が活躍する時代になる、諜報戦でも日本は負けていた、昭和18年4月18日ラバウルからブーゲンビル島に向かっている途中でアメリカ陸軍機編隊の待ち伏せで撃墜される護衛にゼロ戦6機がついていたがアメリカ製のPー38の16機との戦いに負けていた。
日本の暗号文が全て解読され時間もルートもアメリカ側に筒抜けだったことが後に分かる、海軍ではこの人しかリーダー的な人材は残っていなかった。
その頃の軍歌に「海行かば」・海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ。
此の歳になって凄い、酷い歌であった事が分かつて来る。少年期の世相は
本当に天皇の為に死ねたであろうか。合掌