ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

遥か彼方70年~遠くに遠くに来たもんだ。

2015年01月27日 17時35分39秒 | 自叙伝

親父の大工職人職人も二年ほどで日本製鉄所の城下町町輪西に移り住む、国策で、会社の操業活発に大勢の従業員が輪西の駅を利用し、会社の正門まで真っ直ぐ行く通勤道路もあるが駅前の三条通リを南下し輪西町の銀座通リの仲通リを四条、五条、六条、七条、八条、九条まで商店街を眺めながらここで左折すると会社の正門に続いていた、我が家は四条仲通リで、親父は四つ角の場合は必ず死角があって商売しても駄目な所があるので見る目が大事と言っていた、我家の斜め向かいは一般住宅であとは殆ど商店繋がっていた、我が家の左隣は場鉄屋と八百屋、下宿屋の隣は射的とパチンコ屋が続いていた、向かいは仕出しとおかずや、菓子工場に魚やさん、米屋の隣は質屋さん、仲通を挟んだお向かいはお風呂屋が隣が髪結い屋さんに靴屋、雑貨屋と、右隣は化粧品店に少し大きなお菓子屋さんと、続き、テレビの「3丁目の夕日」で町並みが再現いたので驚いた。

親父は小学校しか出ていなかったが専門的な建築の話はよく話してくれていて、町並みの四つ角は死角を見極めと商売屋は道路と引居は同じ高さにする事で、客の入りが入り易くなるとよく話していた。

室蘭から輪西に移り住んだのは、二年後くらいで間もなく四条仲通リの角地の一角を手にい入れ遠藤百貨店の店をオープンしている、あっという間に小金を貯め商人に変身してしまった、私がまだ幼稚園時代でその頃は町中より少し高台にあった幼稚園まで毎日通っていたが、もうその頃から粗暴で弱いものいじめするガキだった、幼稚園では、帯で縛られ柱に繋がれたり、園内から閉め出されカギを掛けられたり、悪童だったことは間違いなかった、それでも近くの沢でザリガニ取りがある時などは、おお張り切りで一番収穫しては得意になっていた事を思い出す、園では茹でて子供達に食べさせていたが、真っ赤に茹で揚がったザルガニはおやっになっていたと思う。

その粗暴さは、小学生まで続くことになる。