ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

朝から雨が降る

2014年05月16日 19時09分19秒 | ペタンク爺さんの一日
畑作農家にしては恵みの雨か、この春本格的に降った雨だった、今日は園芸士も農作業も完全にお休みとなった、無論山菜採りの竹の子狙いも元気のいい時などは雨を突いて出て行ったが。
まだまだ、一人前には戻り切っていないので自制せざろう得ない、札幌は左程の低温にならなかったが道東の峠では雪が降って通行止めの個所も出た、桜前線も根室に到達していて5月中の雪は珍しい。
菜園のほうも今日の恵みの雨を予想していたように、昨日で種蒔きをグットタイミングでほぼ終えていた、此れで農作業のペースもスローペースになるので週明けの火曜日から、いよいよ竹の子山に日参することにしている。

昨年奇しくも札幌市のフレーリダー研修の資格を取ってしまった、80歳にも手が届く私などは出番などないと思っていたが、26年度ブレーリダーの登録の案内か届き、冒険遊び場、プレーパークそれなら若い人達の仲間に入って活動をすることに決め週明けにでも申し込むことにしている、活動は6月から3期に分けて全市を対象にしているが、地域を絞れるので近くの区の行事に参加出来ればと思っている。
何にでも、首を突っ込むお節介爺さんです。
もうひとつ、『さわやかノルディック・ウォーク倶楽部』が5月からスタートすることになっていて、発足会に私も顔を出すことにしている、先行きは如何なる事やら全く判らないが、少しでも会の運営にお役にたてればとここでもNosy groupを実践して行く事にしている。

今週末は低気圧も抜けていますが、低温気温が気になるところです。

道東の峠は雪景色

プレーパーク研修修了書

自治会会報創刊号

園芸士と家庭菜園

2014年05月15日 20時10分47秒 | 市民農園
現在入居している札幌市市営団地は、60歳を目の前にした頃で子育ての最終章を山鼻地域で生活し、二人の子供達も親の元から巣立っていつた、それでその後の老夫婦二人だけの生活環境を選択したのは、親方日の丸とまで行かないが札幌市のお世話になることを決め市に申し込むと、大勢の中から本当に幸運にも希望していた団地に入居できた、夫婦二人終の棲家と喜んだのも此のころだった。

入居して間もなく、ベランダ下に花壇を作り園芸士の第一歩を歩みだした、此のころは先輩の爺さんや婆さんがいて、賑やかな交流も此のころから続いているが、先輩の園芸士も一人減り二人減ってしまい手を掛けない花壇も出てきた、それを盛り返そうと今週末の18日にピクニックと花苗交換会、それに私が種から育てた花苗の無料オークションを開催する、その宣伝を兼ねて会報の創刊号を週明けに全戸に配布した。
始めて企画して開催するイベントなのでやって見なければ判らない、運よく日曜日はお天気が良い事が判っているので今日も準備に余念もない、オークションに出す花苗を少し手入れして見た目にも良くする。

残りの花苗ポットも順調に育っているので、量的にも充分間に合うと見積もっている。

午前中の園芸士もそこそこに、昼から遠藤農園に出向く、余す畦床は僅かだが最後の種蒔きでゴボウ、枝豆を蒔き終えると、もう空いている畑は無くなった。
正確には、何種類の野菜が植えられたか数えていないが、いま温室で育てているトーモロコシを定置うえするとすべて完了するが、本当に狭い畑なのに良くも植えたものだと、自分ながら驚いている。
ぶっつけ本番の、農業でこれで一段落と思っているが、適当に雨が降らないと水撒きに通わなければと今から覚悟を決めねば・・・・・

花市にだす花苗
今日届いたジニア8種

最後に枝豆の種を蒔いて

夕食は豚丼でした。

土埃は百姓の勲章か

2014年05月14日 19時51分48秒 | 市民農園
兎に角半日でも市民農園の畑に出かけてくると、春の乾燥している畑は土埃で酷い、夏になり野菜類が成長してくると畑の土は見えなくなってしまうと思うのだが、広い市民農園の中は未だに畑おこしをしたままの所もあり千差万別で其々の畑のオーナーが勝手に決めて農作業を熟しているので、大農家が一斉に始めるような訳に行かず作業工程も、作付け計画もまちまちと思う、収穫期になるとまたそれぞれが異なった農作物を収穫する様は、此れも楽しい市民農園の良い所でないかと思っている。
遠藤農園も、正確に測ると畦の広さはタタミ20枚にも満たない、そこえらくらく農園で覚えたての作業手順やら種蒔き方法、苗の定置植え方法など全て教科書通りにやっている、タタミ一枚に何が植えられるから始まるので俄か百姓には判りやすくて大いに参考になっている。

15坪の長方形スペースのど真ん中に、ベースキャンプを置き十字を切った歩道を全体を4コーナーにしてひとコーナに立てに狭い歩道を作ると全部で8コーナーになる、此れが約畳2枚分の畦畑が出来た勘定になった。
今日は、ピーマン、ししとう、パプリカ、とうがらしの苗を買い込み定置植えする。
最後に残っていた畦1面にきゃべつ、と白菜の種を蒔く、残っているのはトーモロコシ畑と枝豆コーナーだけになった、後野菜畑の隅が少し空いているだけ、満員御礼が出るのももうすぐと云う感じになってきた。

久しぶりに、有明名水汲みに行ってくる朝がパン食だった頃はコーヒーを落とすのに使うお水は有明まで来ていた、昨年から日本食に戻ってしまっていたので水汲みは中断していた、今日も大きなタンク二つ、協力金百円を郵便ポストに入れる。

協力金100円なり

ピーマン類の苗定置植え
キャベツと白菜は種で

春の山菜づくし

2014年05月13日 19時17分19秒 | 山菜採り
2014山菜初日になる、夜半に低気圧が通過し久しぶりに雨を土産に置いて行ったが雨量は期待するほどの物でなく午前8時に家を出て、目的の支笏湖線街道に着いた頃は小雨が残っていたが時間とともに霧も晴れ、お天道さんは出なかったか、山菜日和になっていた。
街道から野牛山の山裾側に入る、天候が悪いのと未だ早いと見ているのか山仲間には一人も出合なかった、シーズン初め最も早く出始める笹薮に入るが全く出ていなかった、一日二日暑い日があったからと竹の子が出てくるのは変わらないことを思い知らされる。

1年プランクがあったので、最初から期待をしていなかったが何時頃が収穫に向いているかその目安を確認するのが今日の最大の目的で、今日の下見で来週から2週間くらいが今年の竹の子シーズンと見立てる。
朝の雨で笹薮は合羽で完全武装しなければ入れなかった、竹の子を諦め山菜五目採りに切り替える、一番早いコゴメは、もう終わっていた、タラの芽も半分は大きくなり過ぎていた、山フキだけは何処でも採れ、中にウドや竹の子のはしり、も出ていて数えると丁度5種類の山菜五目採りとなる。
今日の入山は、友人の本間氏と二人で11時頃には山から出てくる、今日は下見が目的だったが本格的な収穫日は雨は禁物だ、夏日も辛いが温かい日を狙って行こうと決めている。
何回入山するか、仔細は決めていないが竹の子の収穫期間中にわらび採りも入ってくる、終った頃越冬用の山フキ採りで春の山菜採りが終了するが、その期間は約一か月で今年は市民農園も同時進行しているので忙しさもダブルになると想像している。
6月中旬頃になると、夏野菜の早収穫種類も出てくると思ってる、温室で種蒔きしたトーモロコシも芽を出し始めた、残っている畦に白菜とキャベツの種を蒔いてみようと思ってる。

蒔かぬ種は生えぬ。

夕食は山菜料理で賑わったが到底食べ尽くせる量ではなかった。

山菜づくし
たけのこ
たらのめ
ふき
うど
こごめ

夕食は山菜づくし

明日は竹の子初日

2014年05月12日 21時22分10秒 | 山菜採り
北海道の山菜シーズンは、アイヌネギ(行者にんにく)から始まっている、円山の子育て時代に円山でも収穫できた未だ雪が残る八十八か所を山頂まで登り、帰りしな歩道を外れ雪が消えたささやぶを覗くと大群落は期待できなが、お土産程度は収穫出来ていた。
初物を卵とじにして食べ春を味わっていた、大量に食べるにはジンギスカンで野菜代わりに食べると、精力がつくと道産子の特権だったが、一人食べないでいると強烈な匂いに悩まされる、全員が食べると判らなくなるので初めての人にでも奨めることにしている。
北海道の竹の子と云えば、根曲り竹の子供で本州で云う孟宗竹の竹の子とは大きさが違う、太くても親指と人差し指の輪ほどの太さで長さも20cm程で、収穫時期は5月の連休あたりから6月初めころまで収穫できる北海道の山菜の代表です、ただ春早いアイヌネギは羆との遭遇が話題になっているが熊のほうも冬眠から覚め最初に食べれるものと云えは雪の間から顔を出した蕗の薹かアイヌネギで、もうこれは羆の食糧になっているのに人間が横取りしてしまっていると思う。

一方竹の子採りは、此方も毎年遭難騒ぎで新聞、テレビに出てくる事件で、中々無くならないことと思う。
私も数十年のキャリアかあるが、怖い思いをしたことは二度や三度はある、近頃は絶対大丈夫と云う方法でしかやっていないが、一年ごとに体力が衰えているので大量収穫は出来なくなってきている。
それでも、シーズンに成れば自家用程度は収穫すべく春山入りは欠かせない行事です。
昨年は病で丸きりお休みしてしまった、1年のプランクはあるが明日は親しい友達を誘って竹の子初日に挑戦する。

今日も忙しかった、午前中はダンスサークル、帰ってくるとサカタのタネ屋さんからトマトの苗が届いていた、午後から我が家の農園へ雨が降らないので水撒きに時間を費やす、トマト苗は全部で10本になる実が付きだしたら食べきれない。

明日、月寒はまなす自治会会報の創刊号を配布する、プリンターのカラー印刷で製作、A4裏表サイズです。

遠藤農園へ
今日の作業は此処まで
サカタの種屋さんから

らくらく園芸実践中

2014年05月11日 20時09分13秒 | 市民農園
今回突然の旅行で交通手段の選択肢が増えていて、じっくり考えて自分に合った旅行が出来る時代になったと実感できた。
昔の弥次喜多道中、富士登山講など旅行は結構お金がかかるのが当たり前で経済的に余裕のある人なら別だが、普通は旅行前にはそれなりの準備期間をおいての旅たちになっていたと思う。
昔は国鉄の鉄路で、青函連絡船で青森から鉄道で長旅が続いたものだ、車時代になり時間はかかるが割安に感じるフェリー時代が続き今でも続いているが、それに代わって空の旅に、一時は観光を兼ねパック旅行で割安感を演出していた現在も続いているが、移動手段は飛行機に移行していたと思う、ただ一般庶民感覚では普通に買うと結構高いのが難だった。
最近になり日本を代表する、航空会社の他に安売り航空会社が参入して安い料金で移動のサポートをしてくれると話には聞き及んでいたが、実際利用して見て本当に有ったと気が付かされた。
兎に角全てのサービスをカットし、チケットの購入や支払などを全てネット上で処理出来る能力を持っていれば、すりむにして航空券だけ買うと安いチケットが手に入る、ただ平日の一般に利用されていない日を利用して各サービスをカットして動けば人間の移動代は安くなる、機内の一人のスペースは極力狭められているが其れを承知で利用すれば良い事なので、少し貧乏人でも何とか利用出来るシステムに共感出来た。


5月11日は、当自冶会の春の大掃除日で午前9時から始った、お天気も最高だった今年最高の気温になるとの情報は間違いなかった、朝から温かい日に団地の皆さんも9時過ぎたあたりから続々と裏の公園に出て来ていた、その年によるがお天気が悪いと出席率は下がるが今年の大掃除には久しぶりに賑あった、ざっと数えると参加者は50名を悠に超えていると云っていた。

この後、11時には俄か農業で畑に向っていた、途中きゅうり、とまとの苗を仕入れて現地入り、日曜の市民農園は賑わっていた、先日蒔いていた小松菜、ほうれんそう、二十日大根の芽が出始めていた、晴天が続いているので水撒きが欠かせない作業になる、買っていった苗・きゅうり4本、とまと2本を定置植えする、其のあと種できうり7本分を直蒔きにする、豆の畦にモロッコ、いんげん、なすびの種を直蒔きにする、其のあと鳥対策にネットを張り巡らす。

先日の野菜畑の続きにカブとセロリ、別畦に春大根と、春人参の種を直蒔きにする。
今週中には、種蒔きは終わらせたいと思っている、

らくらく農園実践中



団地の大掃除です




球体関節人形

2014年05月10日 19時39分23秒 | ペタンク爺さんの一日
岡崎に住む甥っ子が、人形作りを始めたと聞いたのは今から三年ほどと思っていた、変わったことをやると余り気にも留めていなかったが同じころ札幌から母を呼び一緒に住むようになっていた、その母は私のすぐ下の妹で今年77歳の古稀で節目の年に成っていた、雪が降る札幌から温かい三河地方に転居し持病の乳がんの進行も止まっているいる様だと云っていた、若いころからエホバの証人の深い信者でその活動にも積極的に動いていた。
まだまだいじょうぶと思っていた矢先の悲報、癌でなく心筋梗塞が原因だった。

連休の真っ只中突然、甥っ子から母が逝ってしまったとの電話が入った、二人いた下の息子が母を残し突然他界し息子一人になっていたが彼は「アスペルガー」で一般社会で普通に生活するのも大変な事で、今はそんな人たちの組織の中の会社に入り仕事にも加わる事が出来る環境になっていた。
名古屋には、素晴らしい先生がいてその先生のカンセリングを受けながら生活していて、自分が「アスペルガー」だと云う事もカンセリングを受けて判ったと云っていた、その先生も「アスペルガー」だということも云っていた、その甥っ子の頭の良さは薄々早くから判っていたが本人から、小学生の頃大学の問題も判ったしアインシュタインの法則まで理解できていたと云っていた。
兎に角、普通でない甥っ子現在球体関節人形に熱心だ、人形作家にまでなれればとふとそう思う。

それにしても、彼だけなら事後処理が大変と遠藤家家長の私の仕事と岡崎に行く事を咄嗟に決めたが、連休があけなければと結局7日に岡崎に向っている、空港の到着口で沖縄から駆けつけた末の妹夫婦と合流した目的地は岡崎城が見えるマンションでその後三日間寝起きを共にする、私は今日の10日に一人だけ帰ってきたが沖縄の妹夫婦は週明けの火曜日に帰ると云っていた。
7年ぶりの再会だったと思う、この夫婦もエホバの証人の信者て信仰も若いころからで今でも熱心な活動をしているお二人です。

球体関節人形






岡崎八丁味一筋に「八丁味噌」

2014年05月09日 17時27分34秒 | ペタンク爺さんの一日
日を重ねるごとに岡崎の良さが判って來た、人口30万台で土地も多少の起伏の変化があり中心部の地下は岩石状態で地震にも強く津波が来てもこの街迄が被害を受けることはない地形と感じ取れる。
今日10時近くに動き始めた、岡崎の観光名所と云えば徳川家康生誕の城と、八丁味噌の工場が有るくらいで、地は何も無,いと云つてもいいと思う。
それ故名古屋観光迄で終わっていると思う、タクシーも流していない岡崎だが今日の目的地は歩いて訪ねてられると動き始めた、お元気も良く岡崎に来て一番暑い日になった、工場に着き30分程の案内を受ける味噌に対する知識が豊かになる、お土産を買って今度はハT味噌を使ったうどん屋さんの「ーおし」を目ざした、マツプを片手に、半分はウォーキング歩道の脇の花壇は大きめ目花を付けたツツジが咲き誇っていた、札幌の6月項の季節に重なって來る、そろそろ疲れかけた頃にうどん屋に当着する、名古屋地方の名物料理で赤味噌を使った煮込みうどんで評判の店、名物に美味しいもの無しと思い知らされているが今回も同様で道産子には馴染めない味だった。
それでも値段が手ごろなのか昼時なので地元の人達で店は賑わっていた、食べ終わるとここ迄歩いたのでこの先も歩いて帰ろうと、とうとう出発したマンシヨン迄帰ってくる。

ひと休み後、明曰中部国際空港迄行くバス停の確認に行く、半日くらい歩き廻ったが然程きっいとも感じなかった、岡崎のほぼ肝心な所を廻って來たと思った。
私の見た感じではシニア世代には住みやすい街と思へて、妹の選択肢は正しかったと結論付けたが、ガンで逝かず心臓病であっという間に逝くなんて、これも決まり事だつたのかと思い巡らしている。

岡崎公園前
国道1号線


信教の自由・エホバの証人

2014年05月08日 20時39分05秒 | ペタンク爺さんの一日
遠藤家の信教は日蓮宗で遡ると鎌倉時代の日蓮さんが活躍し、佐渡に島流しになった時に幕府の役人として護送して佐渡迄行く間に、諭されとうとう日蓮宗になってしまった。
同時に役人を辞めて佐渡に居着いてしまった、日蓮さんの刑が許され佐渡を去った後も佐渡に住み着いてしまい、それから11代目で対岸の五ヶ浜に住を移し現在迄に至っている。
当時は陸の孤島で限られた空間の村だったと思う、私の生れ故郷なのだが記憶が少い大人になり還暦の60戈以後の訪問から故郷のイメージが出来上っている。

その日蓮さんと深い繋がりをもっている遠藤家なのだが、女系の私の妹達の信教は創価会とエホバの証人を信心している、今は長男役をやっている私は真面目な日蓮宗ではないが私で終わる訳には行かず次世代に引き続ぐだけだ。

今日妹をダビにふしたが遺骨はひと欠片も持帰えらなかった。
仏教では考へられない事なのだが、考え方にはおおいに同調出来る所もある。

夕方近く直ぐ近くにある徳川家康のお城の岡崎城の見学に行ってくる、一度は訪ね天守閣より展望て見たいと思っていた所で、漸く念願叶う。


天守閣より展望

岡崎に来てしまいました。

2014年05月07日 20時45分48秒 | ペタンク爺さんの一日
夕べのこの時間は札幌の自宅で旅の支度をしていた、8年ぶりくらいの本州旅行で航空券の手配等に精力を使い果たしていた、それも一度も行った事もない名古屋の中部国際空港で最も安い費用での旅行と検索した所、Jetstarに行きついた、それでも連休明けの7日から10日迄3泊4日の旅となってしまった。
ただ残念だつたことは作年私が病気にかからなければ、この3月には岡崎を訪れていたと思う、すぐ下の妹が数平前長男が住んでいる岡崎に引っ越して行った持病の乳ガンもあり、たった一人の息子のそばでが彼女の最後の選択肢だったと思っている、その妹の悲報が突然届く、最初の気持ちはひと足遅かっただったこの三月の桜の咲く頃に最後の再会を考へていたのだが、現実は待ってくれなかった私の胃ガンも一年前か後であったらと思っている、が運命はこんなものかと思わずにはいられない。
朝7時に家を出る10時近くに千歳を飛び立つ、11時30分には名古屋についていた、一番下の妹夫婦が沖縄からの便で着くのを待つて飛行場で合流する、そこからは気持が一気に軽くなる、一度お袋が元気だのた頃に名古屋に來ているがその項は汽車の旅だつた長い時間を掛けての旅行だったがその項は若さと沢山の夢を持っていた、あれから60年も経っているのに気がつく、殆ど始めての街家康のお城が直ぐ近くに見えるマンシヨンの11階に現在いる。
明曰出棺する。
1
空港で織田信長の出迎えを受ける、人形はお菓子で出来ているらしい。

信長様のお出迎え

ジェットスター旅程表

2014年05月06日 21時12分30秒 | ペタンク爺さんの一日
今から8年前、女房と連れ立って全日本選手権福知山大会に出かけたのが最後の国内旅行になっていた、ころ頃すでに何処となく体調を崩していた女房、時々遺言擬きの言葉を発していた、そんなこともありフェリーを利用し福知山へ向かう、選手でなく応援団としての同行で大会終了後行きたかった永平寺に、輪島の朝市を楽しんだり最後は新潟からフェリーで帰ってきたが、此れが二人で歩いた最後の国内旅行になってしまった。
二人で動くときは、殆んどマイカーでフェリーを利用しての旅行だった、ほぼ10年間くらいだったが夫婦二人だけの本当に楽しい期間であったことが判ってくる。
私一人で動く場合は、パック旅行を利用した、それ以外に時間だけ沢山あったので矢張りフェリーを利用したが体だけでその後は汽車を利用して会議や大会等に参加していた。
最初の頃は、ユースホステルの会員になり宿泊も切り詰めての旅行だった、それでも足りずマイカーをキャンピングカー擬きに替えての少し長い旅行もやった、それからもう15年くらい過ぎ去っている、時々日本一周のマイカーとも出会うこともあった、私たちは長くてもせいぜい二週間ほどで終わっていた。
ペタンクや旅行の費用は春の山菜採りと秋のきのこ採りの内職で賄っていたので、長い旅行は出来なかった。

現在は、山菜、きのこは自家用だけの趣味の世界になっているが、体力が回復すれば未だ真似事でも出来るのではないかと思っている。

昨日から名古屋まての旅行日程を画策していたが、直接近くの中部空港までのフライトの席が取れた、ネットでの購入だったので取得マテ3時間ほどかかった、暫く旅行計画を立てていなかったのでやる事がちぐはぐだったそれでも完璧に出来なくて苦労した、出発は7日AMで今日決め打ちで10日AM帰路の便を取った、此れは電話で申し込んだので割高についたが、80爺さんの出来る所はこんなところまでと思っている。・・・・やれやれ。

忙しかったが合間を見て、畑に、種蒔きの後の水撒きをしてくる、今日は俄か百姓も増えていた。

最後の旅行で永平寺に立ち寄る


遠藤農園入口
俄か百姓増える
俄か百姓増える02
俄か百姓増える03


悲報届く

2014年05月05日 22時21分28秒 | ペタンク爺さんの一日
私と二つ違いの妹の突然の悲報が昼頃届く、北海道の遠藤家は親父とおふくろ時代に北海道に移住して来ていた、私の生れ故郷は新潟だが私が三歳の時なのでもうその時はすぐ下の妹も生まれていたことになる、私の上には姉と兄貴がいたが体一つで北海道まで流れて来ていたので兄貴も姉も親元に預けて出て来ていた。
それから私が小学校に入学するころになり兄姉を親元から引き取った、すぐ下の妹とは年も近かったので自然と関係が深かったと思っている、妹の性格は親父に一番近かった、勘が鋭く高校時代は優等生総代にもなっていたくらいなので親父は良く男ならよかったのにと良く云っていたことを思い出す。
親父は大学に入れたかったらしいが、本人は其れに逆らって家でもしている、彼女の希望は今でいうデザイナー志願だったと思っている、それでも親が決めた銀行員の男性と結婚する、親は裁判官をするほどの秀才家系であったが、大和撫子のようにかしずく女性でなかった、間もなく離婚してしまったが何ともやりきれない歳月が過ぎ命を絶った夫、残された息子二人も次男は普通に結婚したが数年前旅立った、最後まで一緒に行動していた長男はもう50才になると思うが未婚だった。
その長男からの悲報で、今残っている兄弟が私と今同居している妹と沖縄に居る末の妹の3人の縁者だけになってしまった。
10年ほど前に札幌を切り上げ名古屋に住んでいた長男の近くに引っ越していった、矢張り乳がんが原因で先のことを考えての英断だったと思っている、私も昨年胃癌にならなかったら屹度元気の内にと訪ねて行こうと思い詰めていた、残念ながら元気な顔を見られないが連休明けの7日には札幌から駆けつけることにした。

77歳の古稀と思っている。

子供の日はお寿司で

爺さんの半日仕事

2014年05月04日 18時43分48秒 | ペタンク爺さんの一日
此のところ決めつけた訳でもないのにハーフサイクル(4時間)が自然に身について来ている、連日の俄か農業の実践も長い時間では体が持たないのか知らず知らずの内に時間割が出来つつあるように思った、今日も予定通り9時には家を出た無論朝6時頃には起きてテレビや新聞を見ながらストレッチ体操を熟している、前後30分は優にかかっている暫く続けていた「きたえ~る」のトレーニングも鍼灸治療院の治療にも通っていない、体の手当ては終えて病み上がりであるがNusy爺さんは実践モードに入り込んでしまっていた。
未だ昔の元気な時と違って、100パーセント戻ることは無いと思うが、せめて50パーセントも回復していれば、もう一人前と自覚出来る所まで来ている。

予定では今日は種蒔き初日になっていた、馬鈴薯は昨日灰をまぶし用意していた、途中ホーマックに立ち寄り菜葉用肥料を揃えたり足りない種を仕入れたりして行く。
今回借りた市民農園の場所が実際に使いだして判ったことは、風の通り道か毎日風の収まる日が無いのに気づく、それでも防風ネットを張ってから始まったが、私の畑だけ皆さんより早いのが気になったが、それでも5月4日の日曜日の今日300ヶ所もある畑に20ケ所ほど作業する人達が立ち働いていた、服装は様々で普通の農家の作業スタイルの人は滅多に居なく、服装だけ見ても素人集団とすぐ判ってしまう。

今日の種蒔きには妹を同伴していた、動画で見て実践を始めたが向かいで作業していた先輩がもう少し深く掘り下げて植える様にとアドバイスをしてくれた、こんなところが市民農園の良い所で直ぐ友達になる。
種イモは全部で20個でひと畦が馬鈴薯畑に出来上がる、もうここまででお昼になっていた、今日は二人だったので家からおにぎりを持参して来ていた、何を食べても畑の中の食事は美味しく食べられる。

午後からは、ほうれんそう、小松菜、二十日大根を植え防虫、防鳥ネットを被せて備えを万全にする。明日の午後からの雨を期待することにしている。
水道の栓も近くまで来ているので、この先畑の水撒き仕事が多くなりそうだと想像している。

明日明後日は、畑仕事はお休み予定で7日に竹内キサ先生を連れての農作業から始まる。

おにぎり2個がお昼です
ネットで防虫、鳥対策
馬鈴薯と菜っ葉の種蒔き終える
子供の頃の秘密基地の様だ

帰り道八紘学園に立ち寄りソフトクリームを

2014作付け計画書作る

2014年05月03日 20時56分37秒 | ペタンク爺さんの一日
当団地の新規事業で私が主になり始めて行う、イベントが三つもスタートすることになっている5月18日に当団地の花壇つくり同好者を対象とした花苗交換会と、終わってから無料で参加できるオークション(せり市)を開催し、希望者が重なった場合は昔よく使っていた紙縒りでの抽選で落札者を決めることに、その出品商品をこの三月頃から手弁当で我が家のサンルームで種から育てていた、今では数にして400ポットくらいが順調に育っている。
花つくりが好きで勝手にやっているので、全て持ち出しになるが皆さんが喜んでもらえれば私の喜びにも繋がってくると、ここは矢張りノージーグルプ精神が此処でも出てくる。
同時開催に何処にも出て行くことなく我が団地裏公園でピクニックを開催する、お昼ご飯を裏の公園でみんなと一緒に食べようよと、それだけの話だが、こんな事業なら会からの予算が無くても出来てしまう、今年は実験的に開催して見て結果を見てから次年度続けるか、内容を変えても開催するかやって見ての話になる。

今年の新事業のひとつに月寒はまなす自冶会会報を年4回発刊することが決まり、5月中に創刊号を発刊することにしている、ピクニック&花苗交換会の宣伝も兼ねて一週間前には第1号を出そうとしている、近々第1回編集会議を開き方向を決めて行こうと思っている、市民農業と重なっているので中々忙しい日々が続くのを覚悟している。

今日も朝から2時頃まで畑に行っていた、風が強く防風ネットが有効であることを実証していた、残っていた野菜の畦きりを済ませ、鳥対策と防虫対策のネットも必要と自宅に有った備品を持ち込むと畑の半分はカバー出来ることが判った。

取りあえず明日は、妹と二人で馬鈴薯の種植えをする、其のあとほうれんそうと小松菜の種を撒こうかなと思っている。

子供の頃の秘密基地を作るがごとく
廻りは未だ手を掛けず

昨夜の夕食
今夜の夕食は

八十の手習い家庭菜園

2014年05月02日 19時46分47秒 | ペタンク爺さんの一日
人生黄昏期に突入し80歳になろうとしている此の時期に、ひょんなことから突然百姓の真似事をやることに成ってしまった、テレビではトキオのダッシュ村辺りから農業の面白さも解りかけて来て、TBSの金マスのひとり農業を見るにつけて人生の最終章で人間の衣食住の食の部分を実践出来る気力体力が残っていると確認できると、もうその目的に向って走り出していたと思う。
今回借りた畑、たかが15坪の広さしかないが私の菜園のネット上の先生の教えを忠実に守って作業を進めている、1年経過すればそれなりの経験が脳波として蓄積されるが、全く経験のない未知の世界に突入するので、モデルが無いと戸惑いが先に立ち精神も不安定になってしまうと考えての先生選びだったが、手取り足取りで教えを乞える竹内キサ先生も、連休明けの7日には一緒に我が畑に来てくれる。
この日まで、4日の日曜日には妹を連れだって馬鈴薯の種蒔きとホウレンソウの種をまくことにしている、豆類の種を蒔くとハトが来て食べてしまうと農園の先輩が教えてくれた、その対策をキサさんに尋ね解決を考えている。

今日は、9時には自宅を出て畑に向っていた、畑のすぐ手前にホーマックがあり手しばの女竹を買い込む、作業一番は畑の周りに風よけのネットを張り巡らす慣れない作業で結構時間がかかった、縦長の敷地を四分割し中央に休憩スペースを作る、北側に背の高い作物のきゅうり、とまと、豆類の手柴をセットする。
これだけできゅうり、とまと各10本、トーモロコシ20本、豆類20本を植えられる、同時に馬鈴薯の畦も切って植えるだけにする、こちらも20株植えられるので結構収穫できると計算している。

明日もい一日、野菜等の畦きりをして何時でも種を植えられる状態にしておこうと思っている。
農業の作業はいくらでも仕事が出来てくるので大変な仕事だと思えてくる。

廻りはまだ始まっていない
きゅうり、とまと、豆類の手柴セット終える

清田旧街道も桜が咲くと車が混みだす。