ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

丙午迷信背負い母生きる

2015年01月16日 13時22分45秒 | 釣夜話
母は遠藤吉五郎家の四女として五ヶ浜で生まれている、父の実家とは隣同士。二歳上の兄さんが隣の遠藤家の長男の親父だった、家同士で決めてまってしまい本人達の知らぬ間に決められていたと、子供の私達に聞かせてくれていた、ただ迷信を信じていたかの様に父の事業が行き詰まると、一気に吹き出て母を責めていた。
1666年丙午の八百屋お七夜が迷信の原点で、母の生まれた1906年が丙午だった、母には何の責任も無かったが運命と甘んじていた様に思えたり母の行動だった。
母の直ぐ下の弟に大工の遠藤吉四郎伯父さんがいた、戦後釣具商で財をなしていたので伯父さんが東京八丁堀に一家を構える時に支援し独立を助けた、その後いろいろと北海道遠藤家が八丁堀を出張所の様に利用する様になる、私も衣料品店を始めると東京八丁堀が中継地として利用させてもらっていた、私の風貌はこの伯父さんとそっくりだった。

馬鈴薯の花が咲がく頃は、油子(アイナメ)が産卵の為に岸よりする、何とか言っても釣り場は礼文~静狩間の岩場が一番だ鉄道路線沿いは海岸に近く海面より高い所を走っていてトンネルが続く難所で、道路も静狩峠になっているので汽車利用が殆どだった。
下車はトンネルとトンネルの間の小幌で降りると静狩よりに山道を少し歩く事になる可なり歩くと小幌の岩場にたどり着く、絶好の自然釣り堀の感じがする、平らの釣り場が続き目の前の海は直ぐ深く遠投げしなくても良く釣れた。
春の油子には寄生虫が入っていたりするので刺身は避けているが味噌汁に大根と一緒に頂くと何とも旨い、醤油で薄味の煮付けも旨く堪えられない。
寒い内の油子で三枚におろし昆布で挟んで一晩寝かしてから食べる刺身は何とも美味しくきっと酒の肴には最高と思っている。


小正月小樽時代も懐かしき

2015年01月15日 19時34分58秒 | 釣夜話
学校は好きだったが勉強は嫌いだった、高校時代の悪友は工藤、菅野、佐々木、五十嵐、平井の5名だったこの内二人が大学に進学している、商業高校だったので卒業と共に社会に,出るが多く銀行関係が多った、信金の頭取になった菅野くらいで後は皆泣かず飛ばずの悪友達で今年生存が確認されているのは時計屋の平井君だけだ、工藤。菅野は先に逝く、後の二人は音信不通で生きているか死んでしまったのか判らない。
平井君はいまだに輪西で生きている、今年元気を取り戻したら妹を伴って、 故郷輪西を訪ねたいと思っている。
高校を卒業と同時に南小樽繊維問屋森川商店の丁稚小僧に入る初めての親離れに親爺が付き添って来てくれた、この時の印象はいよいよ一本立する覚悟で緊張感で一杯だった事を覚えている、住み込の小僧は私の他に一人いて心強かった、その夜から店の玄関先が寝床となる、覚えることは沢山あったが本当に残念な事に修行時代は二年で終わりを告げる。
会社が倒産してしまった、やむなく故郷輪西に戻った。続く

チツプ釣りは室蘭時代の後半で最初は、登別の倶多楽湖だった5月が解禁日で岸からの釣り場はなく手漕ぎボートに乗ってウキ釣りだった、アンカーは打てず流し釣りで手竿だったので勝負は早かつた、湖水が少さかったのか魚形はやや小ぶりだったが数釣ばと楽しい季節の釣りだった、余録として対岸の岸辺で春椎茸を見つけ収穫するもう1つの楽しみ方もあつた、室蘭時代のチツプ釣りは何時も親父に同伴していた。
チップ釣りの釣り場は洞爺湖もあり、此方は岸からの浮釣りでポイントが沢山あり広いので選ぶのに苦労していた。
室蘭方面からは壮瞥に入り壮瞥発電所の横を素通りすると湖畔に出るその辺から右岸沿いがポイントの1つで、竿は磯釣り用リール竿を使い少し大きめの浮を利用して釣る方法で魚が掛かると立つていたウキが寝てしまう、そのうち魚が水面で跳ね出すので直ぐ判る。
洞爺のチツプは形がいい、釣りたての刺身は格別ですチップ釣りは季節の風物詩です。

この項はホンダドリューム300が足で後部シートに親父を乗せて走り回っていました。

ヤッチンの全ての世界輪西町

2015年01月14日 21時08分17秒 | 釣夜話
親父(遠藤家)の一番番頭は室蘭の高久さんだった戦前は商工会議所に席を置いていた、赤紙1枚で激戦が続くビルマ戦線に連れて行かれた、此処で親父の持ち味が発揮された残った奥さんにデパートの一角を借りて釣具店を開き支援し続けた 、それは戦争が終わり高久さんが帰国してくるまで続く、帰国後駅の近くに釣具店を開業させる。
その後高久さんは遠藤商店の一番番頭的に、酒宴で盛上がって来ると「私のラバさん集長の娘」を歌いながら面白く可笑しく踊っていたのを覚えている。

親父に釣りを教わったのは白老のポロト沼の鮒釣りだった何か遠い所に感じていたのは少年の感覚だったと思っている、駅から降りてダートの一本道を歩いて行った映像が今でも鮮明に残っている、沼に到着しさて竿の下ろす所まで浮草の浮島を歩いていた事も記憶に残るシーンで、私も竿を出しているはずだが鮒を釣り上げたシーンは出てこない。
釣果はあったが獲物は魚籠に入れ換え自宅まで持ち帰っている、親父の哲学か釣った魚は命を戴くと自ら処理していた、鮒も鱗を落とし背割りにし一度七輪で焼き上げその後甘露煮や残ったものは藁で編んで囲炉裏の上にぶら下げていた、これが晩酌時の酒の魚になっていた、鮒釣りの最後に沼の周りはで 山菜の蕗採りをやっている、此方も直伝と思っている。

親父は酒は年季が入っていた、一升酒は飲まないが定量は銚子2~3本で晩年には朝昼晩と酒は増えて行った、室蘭時代は酒屋から12本入れの箱買いで銘柄は多聞だった、命を縮めるたのも酒で満80歳を前にして逝ってしまった、私は酒は全くやらなかったので親父の酒のお相手は出来なかった。
一緒に酒を飲めていたら、沢山の教えを戴いていたと思っている。

故郷は遠くにありて思うもの

2015年01月13日 16時07分19秒 | 釣夜話
三歳から20歳後半まで私の人間形成の土台造りとなった土地が輪西(室蘭)で、幼児、少年期から果敢な青年期をここで過ごす。
この輪西の町は日本製鉄室蘭の城下町で、奇くも1934年に創設され同じ年に新潟五ヶ浜で私も産声を上げ運命的なもある。
そして父と母の町でもある、戦前戦後の時代背景をバックに子育て教育の場ででもあり生業確立の場所が輪西だったが北海道に渡って来て此処を決めた親父の先見を見つめる目は確かと思っている。

親父の目は鋭かつた、鼻は高く馬ずら顔の武士の風貌で足は長く、ただ教育を受けていないのに博学だつた、自分から先頭に立たず人を動かした話術に長けていたと思っている、普段からその味方の人作りは考えてのことだつた、兎に角尋常な人でなかった。
そんな親父の風貌、内面 は私には引き継がれてはいない、母方の遺伝子が勝っている。

山女魚・実戦編
輪西を拠点に鉄道沿線が主戦場、近くは苫小牧までの駅ごと各河川全て太平洋に流れ込んでいる川で良く山女魚は鮭の子で親は同じと話して聞かされていた、戦後の食糧難時代は食糧調達の手段と魚釣りは一般に広がっている、現在は鮭も釣魚の対象になっているが当時は鮭は捕獲することは出来なかった、同じ親から生まれた山女魚は別で食べても美味しく釣り期間も長かった。
釣り竿も子継ぎにし長さも9~11尺が使い良く、川の大きさで竿を決めていた、普通は下流から上流へと釣り上がりるが、大事なことは魚がどの辺に潜んでいて魚影が見えていなければと、魚に先に人影をサッチされる様では人間の負けで、時には木陰岩影に身を潜め竿を振り上流からそっと流し入れる、いつ匹掛かったら静かに下流まで流し音を立てない様に釣り上げ、また同じ様に今度は下流にいる魚から釣り上げて行くとそのポイントにいる魚は全部釣り上げられるとの山女魚釣り名人の話しを聞いている。
親父は少し遠征する時はその名人と一緒に出掛けていた、親父は人を釣り上げるのが名人で沢山の取り巻きも自然に出来ていて、親父の情報の元はこの辺にあつたと後になってから解る。
地下たびでこけで滑る川は鞋をと携帯していた、エサは一般的にいたどり虫で少し高級なぶどう虫、鮭の卵のいくら、それに毛針も忘れてはならない、この毛針釣りは奥が深い。
今日はここまで

春を探しに屋上の温室まで、アザレアが咲いていた。

初場所や座布団も舞う宝富士

2015年01月12日 22時31分47秒 | 釣夜話
初場所二日目で注目の二人の力士が揃って負けてしまった、最近の力士の中にあつて横綱と対戦するところまであがた宝富士、四股名が優しいその上顔もそして体が丸々と博多人形のモデルに見えてくる、決してして強そうには見えない、それが大番狂わせの一番が起きてしまった。

人生で番狂わせは何時でも発生する、親父の人生の中での大番狂わせの出来でとが事業に失敗した時に大事に育てて来た長男を自殺する所まで追い込でしまつた事だ。
兄は私よリ七歳年上だつた小学校卒業まで祖父の所で育てられていた、中学校に入学するため親元にひきとられている、その時二歳違いの妹も一緒で我が家が一変に大家族世帯になつた。
子供は13歳頭に男2人女3人食べ盛りの子供を抱え親父の仕事は、大工から商人に変身していった、最初に今のコンビニの遠藤百貨店で間もなく釣具卸になっている、ただの大工で終るような親父でなかった、大戦後の混乱期を利用し一気に財をなした。
その間子供の教育は漫画の巨人の星の親父のようだつた、特に長男を鍛え育てていた、次男の私には余り期待をしていなかった、それが私が高校生項まで続いた。

親父はよく人を支援する、またそれが自分に返っ来ることを戦後の釣竿職人との出来事で
その後の人生の中でも何回も出てくる。
戦国時代の小さな城の城主で生き残るために必死だったと思えてくる。

退院は 梅の便りの届くこ

今年の年賀状です。

一年を10日で暮らすいい男

2015年01月11日 19時23分05秒 | 釣夜話
今日から初場所が始まる、表題の句は大相撲隆盛を極めた項のことで、遡ること76年1月15日双葉山の69連連勝止まりになった正月だった、私が6才の出来事でメデアはラジオで日本中が騒然なった、今年の正月は横綱大鵬の記録が破られる歴史的な瞬間に立ち会うか白鵬も大横綱候補には間違いない。

親父の店は現代の店舗とは違っていた室蘭時代は店に入ると土間があり、その先は畳が引いあつた壁側には継竿が立て掛けてあり、棚にはテグスやリール等の小物が並べてあり昔からの店舗その物だつた、土間を奥は台所につながつていた、店の正面から居間に上がり込むと部屋の真ん中に囲炉裏が掘つて帳場の机があり大きなそろばんが置いてあつた、顧客は地方の人達で、時々宿屋代わりもしていた。
夜は決まって酒宴になっていたこと思い出す、北海道の磯釣りの竿は竹竿で15尺4本継ぎに竿先に鯨のヒゲを使い当たりを柔する工夫を、継ぎては糸を巻き漆塗り、昔は本物を作っていたので生乾きの竿に触って漆かぶれで毎年の様に被害を受けていた、私が此処に居た。
竹竿の産地は川口で竿作りの職人は此処に居た、親父の代役で訪ねたことがあるが大歓待を受けた記憶が有るが、商談の内容は殆ど覚えていなかったが遠藤商店とは深い繋がりがあつた、戦後食糧難時代馬鈴薯など送っていたが何と言っても大ヒット事件はスルメを送った事で、遠藤商店も売るものがなかったので親父は毎日魚釣りに隣町の鯨半島の漁師から磯舟を買い保管してもらっていた、一度乗せてもらつたことが有るが直ぐ船酔で漁師には成れないと思つた。
大当たりは烏賊で毎晩の様にイカの大漁が続き、翌朝家族全員でイタンキ浜迄イカ運びの日が続いたことを鮮明に覚えていた。
お袋の苦労は大変なものだった、イカを開き縄に並べる家の周りはイカ簾に、数日干し上げ束ねそれを川口竿作り作りの所へおくつた、戦後遠藤商店がスタート出来たのは竿作り作り職人たちが食糧のお返しと川口がら竹竿が送られて来た、戦後の物のない時代、釣具卸商・遠藤商店が一気に隆盛期に入っていつた。続く







沢山の願いの束に我も入る

2015年01月10日 20時53分56秒 | 釣夜話
年明けの初釣は日本海側に場所を移す、近い所では余市、岩内のカレイ釣りから始まる狙いはマガレイの型のいいやっでカレーに混じって廻りほっけに巡り合わせで箱釣になることもある、釣名人は季節のほかに場所とポイントと天候、潮見が大事と様々な角度から 検討していた、情報量は新聞の天気図だけ我が家の大黒柱に架かって気圧計が一番の決め手となっていた。
現在は車社会で誰でも車は持っている、この頃は国鉄時代で店の顧客メンバーには大勢の国鉄マンがいたが、キツプを買い鉄道路線が釣り場であつた。
磯釣り大会など開くと海岸線が続く駅から数駅を決め、釣り自慢の太公望が自分で決めてあるポイントに来ると三々五々列車を降りていた、場所取りは自由で先に入った者の勝ち、魚の餌は生きのいいエラコが一番だが時にはホッキガイ、手に入りやす烏賊やサンマ、 'を使う、大会で上位に入ってくる魚はアブラコ、黒がしら、カジカ等で釣り大会の表彰式には独特な雰囲気があったのを覚えている。

除夜の鐘 聞き漏らしての 夜が明ける

2015年01月09日 20時30分27秒 | 釣夜話
1月もあっという間10日は過ぎる、寒風にも負けず苫小牧防波堤にカンカイ釣りが懐かしい、釣にお金をがけるくらいなら魚屋で買って食べた方が安いと良く云われていたが、趣味で始めたのと釣具店が我家の家業のひとっでもあったので其くらいの文句を云わても屁とも思わなかつたし、親父直伝の数々の釣のテクニック、それにシーズンと場所、それに時間迄、夜來客があり囲炉裏を囲んで酒宴が始まり釣談義が繰り広げられていた、そんな大人の話の中に聞き役になった小学生中学生項の私が居た。
中でも海より川釣りの山女釣の話しが面白く、実際家を出て何日も帰らない事もあった、それ故生では持ち帰えれず焼き干しにていた、人里を離れ入った川の上流に向かっての釣り上り方法で、全くサバイバルで持ち出すものは味噌と米だけその他は全て現地調達、スタイルは小さな菅笠を被り腰には柳魚籠、そして武器にも使える鉈、釣竿は親父が考案して作らしている9尺5本次竹竿で餌は現地でイタドリ虫や川虫で、夕方近くまで釣り上ると河原の太い流木が重なっている所をベースキャンプ にしてその流木の下で焚き火をして自炊釣った魚はそこで内臓を取り出し鉈で作った串に刺し焚き火の周りに立並べる、食器は飯盒ひとつ蓋で山菜に味噌を入れるだけ、魚は無論串刺しが焼き上っているリツクの中から貴重な酒を出し飯盒の中蓋に山女入れ酒を継ぐ、この時の酒は最高とのこと同伴した友人と今日の釣果と明日の予定、その項には飯盒の飯は炊き上がり残った。ご飯はおにぎりに、食事が終わると一夜中の薪を集め山が赤くなるほど焚く、睡魔はどっと。

羆用心の焚き火とか、我家には本格的な親父か作った囲炉裏があり上には山女が多ったが様々な魚が藁で編まれ吊下げてあった。



ついに出るものが出た

2015年01月08日 20時25分03秒 | ペタンク爺さんの一日
今朝から食事は三分粥になる午前中は治療には時間がかかった今日特に長がつた、新しく出来た人口肛門の手当てで、医師は指図だけで去つて行き後は看護婦三人くらいで手際良く処置してくれていた、それが終るのを待つていたかのように、大をな動きが出た。
私の考への中では人口肛門も出来たし体外には袋もついているし、出てくる時は判リ特別なことをしなくてもと思っていた、昨日から紙オムツも使用していたので大事には至らなかった、昼近く入院して始めての便通がありひよっとするとと思いトイレに向かいかけていたが、立上がった瞬間何時もの肛門から一気に出てしまつた、此処で始めて旧肛門も生かしていることが分かる。
今だ傷ロからは管が一本出ていて体中の異物が出たりしている担当医は近々抜いてしまうと云っていた、食べるものが違うとこれほど戦況が代わって行くものかと身を持って感じた、体勢が整うとどんどん自力回復も速度を増して行くと想像出来る一日だった。

今日から食事始まる

2015年01月07日 17時28分54秒 | ペタンク爺さんの一日
今朝から食事が出るようになった、食事と云ってもどの容器の中には固形物はひとっも入つていない、二年にもなろうとする前回の胃癌手術を受けてから又もやの闘病生活で前回と全く同じ道を歩み始めている、今朝の食事を見て此れから始る回復への道程をずっと考えている、20K近くも体重を落としていたあの頃、それでも気力だけは残つていた、カーリングも再開したし今年からは社交ダンスも再開ダンスパテーにも参加していた。
舂には山菜採りも出来たしトレーニングの為に初めた市民農園がヒットイベントと思っている、今回の入院も春の雪が溶けぬ項と想像している、今回は天敵のガン細胞とも対陣していないので戦いも前回より楽と思っている、今朝妹に今年作った梅の蜂蜜漬けを頼んだ、今考えても判って来る男の料理内容に疑問がのこった

同じ道 ゆっくり歩き 後を追い

2015年01月06日 17時56分54秒 | ペタンク爺さんの一日
恋女房が死んで7年になる、こんな悲しい出来事は生涯で只一度の出来事だったと思う後にも先にもそれ以上の悲しみは合っていない。
女房も見てたであろう東札幌病院の外科病棟その屋上に小さな温室がある、この病院を選んだのは女房が治らぬ病気と判ってからで、終末医療科があるのが判ったからで、最後は終の棲みか月寒市営団地一階のベランダから公園や私が手塩にかけて育てている花逹咲き乱れる日二人の息子夫婦二人の妹と私の手を握ったまま8月の空へ旅立っていつた。
そんな彼女の後を沢山の道草をくいながら一つ一つ障害を乗りとえ後を辿っているが今だ女房の後ろ姿は見えて来ない、最近は夢に迄出てこなくなった、私もこんなになってもシャバにまだ未練があるらしい。

年賀状五日も経つて眺めてる

2015年01月05日 19時09分38秒 | ペタンク爺さんの一日
少し先輩の著名人有名人同世代の映画俳優逹が作年の暮迄に次々と旅経つていつた私の青春もひとっひとっ消えて行く、此には中々耐え難く人生後半にある立い立いハードルにもなることもある、101歳迄生きた女房の母親は弟早々と送りその自分の子供の長男、次男、三男、それに私の女房の四人が先だって行った。
この現実目の当たりにすると百歳迄生きると人間は不幸だなと思えて来る、前からの持論で私の寿命90歳にしてある、 目出たし、目出たし。 /
'

正月四日目で平静を取もどす

2015年01月04日 21時07分44秒 | ペタンク爺さんの一日
今回私の目線から感じた事で社会の仕組みの大事さが本当に機能して動いていることに気付かされた。
自分が救急車を自から選らんで、自分の携帯から掛けた距離して三丁もない、ひと月も前に私よりずつと若い自治会会長がそれも緊急車で運ばれ入院中、新手会も11日に組まれていて、会長抜きで総務の私を含終ったばでりでほつとしていた。
それに14日にさわいかノルデックオーキングの寝曲がり竹でカンジキを作りを私の指導で作ることになっていた、参加者も20名とのことで私も張り切っていた、私のモチベーンの一つが増えると共に橇遊びともツナがつていて北海道の冬の遊びとしては理想に思えていた。
そんなことを混乱している私の顧の中脳裏に浮かんで來たり、入院してみて本人一人ではどうにもならない事も判リ身内を呼び寄せる、ぞれでも野戦病院の中の様子をしている病院内を検査に2ケ所ほど廻された後の、手術は早くから決つていたが、順番から午後6時過ぎてしまつた、それ迄どこいても痛い~痛い~何んとかしてと叫んでいたのを覚えている、手術台には自ずから率先して上り早く切ってくれとの態度だったと覚えて点滴が付き間もなく痛さ苦しさから解放され大晦日の夜は更けていつた。

大きな歳の節目だった。




入院四日目

2015年01月03日 20時07分10秒 | ペタンク爺さんの一日
入院して今日で四日目を迎える今日も夕方迄非常に調子が悪く、体を余していた何を1自分の事を自分でも出まず看護士さんの手を煩せねばなかった、切ったはずの肛門の方の方が痛くて響くのはどうしてなのか良く判っていない、今日はうれしいとに苦しまされてきたたんがきれて、しゃばに出る入口をみっけた。
明日はもっと元気になるど 。

痳院の一日は長が~い

2015年01月02日 16時46分30秒 | ペタンク爺さんの一日
老人になると病気とは隣り合わせだ、普段から気にかけている胃癌の再発だったが今の所定期的に診察を受けてたので安心はしていた。
ただその後の食事回服過程で見謝ったと言うのがはっきりしてきた、もう少し病院食を続けるべきだとはっきり判ったが後の祭りだ、身がら出た錆びなのだ何処にも訴える所もなし、改めて自分の末塾さをさらけ出してしまった。