むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

32、柏木 ⑤

2024年03月11日 08時02分01秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・柏木衛門督は、
女三の宮が出家されたことを聞き、
身も心も消え入るように思った。

もう元通りの健康を、
回復することは無理と思った。

もしこのまま命終わるならば、
妻の二の宮(三の宮の異腹の姉君)に、
会いたかった。

こちらの邸へ二の宮を、
お呼びすればいいのだが、
高貴な身分はこういうとき、
不便であった。

宮は軽々しくお出歩きになれない。

「どうかして、
あちらへ今一度、
行きたいのです」

柏木は泣いたが、
両親はどうしても許さない。

柏木は誰かれなく、
見舞いに来る人をつかまえては、

「二の宮をよろしく」

といっているのも、
哀切なことだった。

元々、
二の宮の母君は、
この縁談には乗り気でなかった。

それを柏木の父大臣が、
熱心に奔走して、
結婚にこぎつけ、
朱雀院もしぶしぶお許しになった。

しかし院は、
三の宮にくらべて、

「かえって二の宮のほうが、
幸せな結婚だった」

と洩らされた。

「宮をお見捨てして、
逝くのが辛い。
私亡きあと宮をお願いします」

と母君にたのむのであった。

柏木は弟にも、
亡くなったあとのことを、
こまごま頼んだ。

柏木は弟たちをよく世話して、
やさしい兄だったから、
みな柏木を頼っていた。

朝廷でも、
柏木の重病を惜しまれた。

死期が近づいたと聞かれて、
権大納言に昇進させられた。

喜びで、
元気を取り戻すことにも、
なろうかと、
主上の思し召しにかかわらず、
柏木は再び参内することも、
出来なかった。

病床からお礼を申し上げるだけ。

父大臣の悲しみは、
いうまでもない。

夕霧大将は、
親友の死病を嘆いて、
絶えず見舞いに来ていたが、
この度の昇進のお祝いを述べに、
まっさきに来た。

柏木は親友の見舞いに、
起き上がりたかったが、
それも出来ないほど弱っていた。

柏木は枕元へ、
招じいれた。

加持の僧などを退席させ、
久しぶりに夕霧と会った。

夕霧は、
こうも弱った友の顔を見るのは、
悲しかった。

今日は、
昇進のお祝いに来たのだから、
少しは晴れやかな顔も、
見られるかと思ったのに。

重病人といえば、
髪も髭も乱れ、
むさくるしくなるものだが、
柏木は痩せ衰えながら、
色白く上品に見える。

夕霧は、

「長患いにしては、
やつれて見えないよ。
いつもよりきれいに見えるよ」

となぐさめつつ、
涙を落とした。

そうなると制止が出来なくなって、

「死ぬ時も一緒、
と約束したことがあったっけ。
子供のころに。
おぼえているかい。
それなのにこんなことに、
なるなんて・・・」

涙ながらにいった。

「私にもわからないよ」

柏木は弱い低い声でいった。

「心のこりはあるよ。
親たちに孝養を尽くさず、
心配をかけ、
主上にもまだ十分、
お仕えしていない。
そのほか、
自分の周囲にも心残りは多い。
とりわけ、
一つの悩みを持っているのだよ。
こんなこと、
君のほかに誰に言えるだろう。
弟たちにも言えない。
それは、
六條院と私の関係だ。
院とのあいだに行き違いがあった」

夕霧は父の名前が出たので、
緊張して聞いた。

「私は院に、
心のうちでお詫びしていたが、
それ以来、悩みが積もって、
気分が鬱屈してしまった。
久しぶりに院のお召しがあって、
朱雀院の御賀の日に伺った。
院はやはり私を許せないものと、
怒っていらっしゃるらしかった。
院は私に強い視線を当てられた。
私はそれに衝撃を受けた。
帰るなり寝つき、
心はうつうつと楽しまず、
生きる張り合いをなくした。
私は院を敬愛していた。
このことが気がかりで、
後世のさまたげに、
なりそうな気がする。
どうか機会があったら、
院によろしくお取り成しをたのむ。
院のご不興が消えたら、
君をありがたく思うよ」






          


(次回へ)

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