むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

31、若菜(下) ⑭

2024年03月01日 08時47分15秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・「宮のお具合が、
よろしくないというので、
六條院へお見舞いに行ってくる」

と源氏は紫の上に言った。

源氏は紫の上とかたときも、
離れたくないのであるが、
宮のご不例を聞いて、
うち捨てておくのも、
兄君の主上、
父君の朱雀院にたいして、
義理がわるく、
仕方なく六條院へ行った。

女三の宮は、
柏木とのことが、
良心に咎め、
呵責を感じていられる。

源氏にお会いになるのも、
避けたく思っていられる。

源氏が話しかけるのへ、
お返事も途切れがちで、
口ごもっていられる。

源氏は、

(このところ、
疎遠にしていたので、
やはりこんな方でも、
ふくれていらっしゃる)

とすまない気持ちがして、
やさしく機嫌をとっていた。

年輩のしっかりした女房を呼び、
宮のお具合を聞くと、

「ご懐妊のようでございます」

女房の答えに、
源氏は、

「珍しいことを聞く、
いまごろ・・・」

とつぶやいた。

(宮はここへご降嫁になって、
七、八年になろうか。
もう長年、そんなことはなかった)

まだはっきり、
妊娠と決まったわけでは、
ないかもしれないと源氏は思い、
宮にはそのことを話題に、
しなかった。

やっとのことで来た六條院、
二、三日は滞在したが、
紫の上の容態が案じられ、
しきりに手紙を書いた。

「まあ、
宮さまのところへいらしても、
よくもあれだけお手紙を、
お書きになること。
お気の毒なのは宮さま」

宮の過失を知らぬ女房たちは、
口々に言い合ったが、
小侍従だけは胸が騒いだ。

かの柏木衛門督は、
源氏の君が六條院へ、
おいでになっていると聞くと、
嫉妬に燃えるのである。

彼が嫉妬するのは、
筋違いであるのに、
青年は自制出来なくなり、
手紙を書いた。

青年は、
綿々と苦しみや辛さを綴って、
小侍従に托した。

青年に同情している小侍従は、
源氏が宮のそばを離れたすきに、
そっとその手紙をお見せした。

「いやよ。
そんな煩わしいもの。
よけい気分が悪くなるわ」

宮はお手もふれず、
臥したままいわれた。

「ではございましょうが、
ちょっとだけでも・・・」

と手紙をひろげたとき、
女房が近くへ来る気配。

小侍従は困って、
宮のおそばへ几帳を引き寄せ、
退った。

宮は手紙をちらと、
ご覧になっただけで、
胸がどきどきなさる。

悪事を重ねるようで。

そこへ源氏が入ってきたので、
ちゃんと隠すことも、
お出来になれず、
とっさに御しとねの下に、
差しはさんでおかれた。

源氏は二條院へ帰る、
そのご挨拶を申し上げに、
来たのだった。

「あなたのほうは、
とりたててお悪くも見えないが、
二條のひとはまだおぼつかなくて。
あちらばかり大事にして、
あなたを軽んずるようなことは、
決してありません」

などと話してさしあげる。

宮は長いあいだ、
源氏にお慣れになって、
父か兄のように睦んでいられた。

それで、いつもなら、
久しぶりに訪れた源氏に、
まつわってはしゃぐのに、
今日は打ち解けられないで、
思い沈んで、
源氏に視線も合わせられない。

源氏は、

(すねているのだな)

と思った。

もう一晩、
と宮の申し出に、
源氏は躊躇しつつ泊まったが、
紫の上のことが心配で、
果物だけを食べて寝た。

朝早く涼しいうちに、
二條邸へ帰ろうとして、
源氏は起きた。

「昨夜のかわほり(扇子)を、
どこかへ落とした」

源氏はかわほりを探していた。
かわほりは紙張りの扇子である。

扇は檜の板を綴じたものなので、
風当たりがかわほりよりも、
ぬるいのだった。

しとねが少し曲がったその縁から、
浅緑の薄様に書いた手紙の、
端が見える。

何気なく源氏が引き出してみると、
男の筆跡である。

二枚の紙に、
こまごまと書いた手紙、
源氏はその筆跡を知っている。

たきしめた香も艶な風情で、
意味ありげな文章。

(あの男だな・・・)

と知った。






          


(次回へ)

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