今日は、各地で駅伝大会が目白押し。
全日本大学女子駅伝(仙台)、実業団女子駅伝西日本大会(福岡)、広島実業団駅伝などなど。
STCIが日頃、海外遠征サポート事業でお手伝いさせて頂いているチームもこれら大会に参加します。
そんな中、今日は10年前の大会を持って廃止となったあの青東駅伝(青森―東京縦断駅伝)の初日
スタートの日。
この駅伝は青森から東京までを7日間かけて、東日本地区の各都道県が争う全62区間865.3kmの
駅伝レース。
険しい起伏、強風の吹くコースがあったり、中には一人で一週間に3回走る機会のある選手もいるなど、
かなり過酷な条件下でのレースですが、それだけにタフな選手の育成にもつながっていた様に思います。
当時私は埼玉県チームのマネージャーとして業務に関わっていました。
勿論、それまで大学や実業団の駅伝でもマネージャー業務をこなしてきましたが、これ程規模の大きい
駅伝は初めて。同県のマネージャー業務に最初の年(たしか99年大会)に関わった時は、ハプニング、
失敗も多く経験しました。
そんな中、私は県の伴走車を運転することが多かったので、東北みちのく路を走る選手と共に南下しながら
同県の指揮を執っていた青葉昌幸総監督(現・関東学連会長)、青木正義監督(現・東日本実業団連盟
事務局長)、佐藤尚マネージャー(現・東洋大陸上部コーチ)らの各ベテラン指導者の方々に駅伝とは、
マネージャー業務とは何かを色々と指導して頂き、自分を大きく成長させてくれた大会でもあります。
また、埼玉チームの中には他実業団や大学の選手もいたり、更には大会7日間の中でライバルチームの
スタッフや選手との交流もあったりと、この大会を通じて多くの仲間とも出会った思い出深いレースです。
その青東駅伝も2002年の大会を最後に、諸般の事情により廃止に。
(幸いにもこの最後の大会で埼玉県は優勝)
1951年から約半世紀近くの間、数多くの一流ランナー、そして指導者育成の場としてその役割を
担ってきました。
そして、この青東駅伝で活躍した選手、指導者の皆さんも現在はそれぞれ多方面で活躍中。
当時の02年大会のサイトを覗くとは走った選手、スタッフの名前も残っていて懐かしい限りです。
最後の開催となった2002年大会のリザルト・・・全区間、全選手の名前・記録が記載
またいつの日かこの青東駅伝が復活することを願ってやみません。
全日本大学女子駅伝(仙台)、実業団女子駅伝西日本大会(福岡)、広島実業団駅伝などなど。
STCIが日頃、海外遠征サポート事業でお手伝いさせて頂いているチームもこれら大会に参加します。
そんな中、今日は10年前の大会を持って廃止となったあの青東駅伝(青森―東京縦断駅伝)の初日
スタートの日。
この駅伝は青森から東京までを7日間かけて、東日本地区の各都道県が争う全62区間865.3kmの
駅伝レース。
険しい起伏、強風の吹くコースがあったり、中には一人で一週間に3回走る機会のある選手もいるなど、
かなり過酷な条件下でのレースですが、それだけにタフな選手の育成にもつながっていた様に思います。
当時私は埼玉県チームのマネージャーとして業務に関わっていました。
勿論、それまで大学や実業団の駅伝でもマネージャー業務をこなしてきましたが、これ程規模の大きい
駅伝は初めて。同県のマネージャー業務に最初の年(たしか99年大会)に関わった時は、ハプニング、
失敗も多く経験しました。
そんな中、私は県の伴走車を運転することが多かったので、東北みちのく路を走る選手と共に南下しながら
同県の指揮を執っていた青葉昌幸総監督(現・関東学連会長)、青木正義監督(現・東日本実業団連盟
事務局長)、佐藤尚マネージャー(現・東洋大陸上部コーチ)らの各ベテラン指導者の方々に駅伝とは、
マネージャー業務とは何かを色々と指導して頂き、自分を大きく成長させてくれた大会でもあります。
また、埼玉チームの中には他実業団や大学の選手もいたり、更には大会7日間の中でライバルチームの
スタッフや選手との交流もあったりと、この大会を通じて多くの仲間とも出会った思い出深いレースです。
その青東駅伝も2002年の大会を最後に、諸般の事情により廃止に。
(幸いにもこの最後の大会で埼玉県は優勝)
1951年から約半世紀近くの間、数多くの一流ランナー、そして指導者育成の場としてその役割を
担ってきました。
そして、この青東駅伝で活躍した選手、指導者の皆さんも現在はそれぞれ多方面で活躍中。
当時の02年大会のサイトを覗くとは走った選手、スタッフの名前も残っていて懐かしい限りです。
最後の開催となった2002年大会のリザルト・・・全区間、全選手の名前・記録が記載
またいつの日かこの青東駅伝が復活することを願ってやみません。