私が若い頃は、病を患っているわけではなく、健康でいながら、内股歩きの女の子がたくさんいた。
昭和20年代の生まれで、まだまだかつての日本人の生活様式やDNAが色濃く残っている世代だからだろうか?
私は京都生まれだが、小学校1年生の時は、今の京北町に住んでいた。
初めての運動会に土の校庭で運動用の足袋を履いた。以前、その話を15歳年下の女性に話したら「それは戦前の話ですか?」と聞かれた。
「私は戦後の生まれだから戦前の事なんか知らん!!」と言うと「でも運動会に靴じゃなくて足袋を履くなんて、とても戦後の話だとは思えません」と真顔になっていた。
記憶をたどると、体育の時間には運動靴を履いていたが、運動会の時だけ、何故か指定された足袋を買い求め、その後は一度も履かなかった。
「そりゃあ、そうでしょうねぇ。てっきり、体育の時間は、ずっと裸足で、運動会になると足袋が履けるのかと思いました」
私は相撲取りではないのである!!
一応、物資も一般家庭に行き渡っていたから靴くらいはちゃんと履いていた。
でも、それが何故、運動会になると耐久性のないマイナーチェンジの足袋を履かされたのかは謎だ。
今の子供は靴ばかりの生活なので七五三の時に足袋や草履が履けないらしいが、私達が練習もしないで、すっと足袋が履けたのは、やはり下駄も履き、体型も脚のつくりも日本人DNAが濃かったからだと思う。
同じクラスで内股の女の子が何人かいて、細身の女の子らしい子ばかりだったが、体育の時間は相当に大変そうだった。
体操、鉄棒などは、まだいいが、かけっこになると同じ年ながら「大丈夫か?」と言いたくなった。
本人は速く走ろうと「よーーい」の声で、いさましくささっと腕を構えるものの、「ドン」となった途端に、一拍遅れてバタバタと一応走り出す。
本人は走ってるつもりだろうが傍目には早歩きとしかみえない。
腕の振りも全く役に立たない。
何とも言えない走り方であった。
が、そのうち、自分の左足を自分の右足で踏んで、ばたっと転んだ時には本当に驚いた。
私も何かに、けつまずいて、転ぶのは何度も、やらかして膝に赤チンがついていない日はなかったくらいだが、自分で自分の足を踏んで転ぶというのは見たことが無かった。
つづく
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