GWは福岡へ行ってきました。
ちょうど博多どんたくのお祭りに重なったせいか、大変にぎやか。
駅前はホテルが沢山並び、町が大都会のように感じました。
しかし、観光してみると、
金印出土の志賀島もすぐ目の前に見え、
また元寇が来襲したという場所も、
町を一望するタワーから遠くに見えてと、
大変歴史を感じさせる町でした。
大濠公園という所へ行くと池があり、
昔はこのあたりまで入り江だったそうで、
カラスにまじって白サギや海カモメのような鳥も見かけました。
筑紫と呼ばれた頃は一体どんな風だったのかと
想像するのも楽しいです♪
ご存知の通り、筑紫は源氏物語にもその地名が見え、
夕顔の忘れ形見である玉鬘が
ここから右近達と京へ来たという設定がされています。
紫式部集によると、
京で姉とも妹とも思っていた紫式部の童友達が
父の任期のため、彼女は筑紫へ、式部は越前へと、
お互いに離れ離れになったというくだりがあります。
約束通り、文をその道中でもやりとりしていますから
その友情も、すごいものです。
そして文を持っていく使者達も、当時は大変だったでしょうね。
もっとも、今では新幹線でもあっという間に着きますし、
飛行機なら、もっと早いでしょう(笑)
『
筑紫へいく人のむすめの
「西の海をおもひやりつつ月見れば、
ただに泣かるるころにもあるかな」
返し
(紫式部)
「西へゆく月のたよりにたまづさの
書き絶えめやは雲のかよひ路」 (紫式部集)』
当時、京からは筑紫ははるかに遠く、
彼女が泣いたのもわかります。
もっとも、この歌の詞書は、
竹内美千代 「紫式部集評釈 桜風社 」によれば、
写本によっては「むすめに」という本もあるそうなので
そうであるなら、式部の歌が先となりますが、
ここでは普通に新潮日本古典集成の解釈で。
その後も、この筑紫へ行った童友達なりし人とのやりとりが載っていますし、彼女はどうもその後に九州で亡くなったようです。
源氏物語にも九州で有名だった地名が入った歌が見えます。
玉鬘
「君にしも心たがはば松浦なる鏡をかけてちかはむ」
「年を経て祈る心のたがひなば鏡の神をつらしとや見む」
実際には式部は九州へは行っていませんが、
こうやって歌であったり、屏風絵なのでも知り、
それを歌などに用いるあたりは、
当時の教養と雅さが感じられます。
私など地名や位置でさえ、知らない所が多くて困ります(笑)
それにしても、
玉鬘が九州の豪族の求愛を断って逃げてくるあたりの
豪族達の描写など、とてもリアルに感じました。
いつも思うのですが、紫式部はそういう人達の描き方も
大変上手だと思います。
京を離れた経験は、彼女にとって良かったのかもしれません。
旅行の方は、幸いにも天候にも恵まれ、
白味噌のもつ鍋や、珍しい瓦そばも食べました。
かば田の昆布漬け辛子明太子や、
万葉集の和歌が包みに載っていた
筑紫もちなどをお土産に持ち帰りました♪
九州の男の人の方言は、カッコ良かった!です(笑)
ちょうど博多どんたくのお祭りに重なったせいか、大変にぎやか。
駅前はホテルが沢山並び、町が大都会のように感じました。
しかし、観光してみると、
金印出土の志賀島もすぐ目の前に見え、
また元寇が来襲したという場所も、
町を一望するタワーから遠くに見えてと、
大変歴史を感じさせる町でした。
大濠公園という所へ行くと池があり、
昔はこのあたりまで入り江だったそうで、
カラスにまじって白サギや海カモメのような鳥も見かけました。
筑紫と呼ばれた頃は一体どんな風だったのかと
想像するのも楽しいです♪
ご存知の通り、筑紫は源氏物語にもその地名が見え、
夕顔の忘れ形見である玉鬘が
ここから右近達と京へ来たという設定がされています。
紫式部集によると、
京で姉とも妹とも思っていた紫式部の童友達が
父の任期のため、彼女は筑紫へ、式部は越前へと、
お互いに離れ離れになったというくだりがあります。
約束通り、文をその道中でもやりとりしていますから
その友情も、すごいものです。
そして文を持っていく使者達も、当時は大変だったでしょうね。
もっとも、今では新幹線でもあっという間に着きますし、
飛行機なら、もっと早いでしょう(笑)
『
筑紫へいく人のむすめの
「西の海をおもひやりつつ月見れば、
ただに泣かるるころにもあるかな」
返し
(紫式部)
「西へゆく月のたよりにたまづさの
書き絶えめやは雲のかよひ路」 (紫式部集)』
当時、京からは筑紫ははるかに遠く、
彼女が泣いたのもわかります。
もっとも、この歌の詞書は、
竹内美千代 「紫式部集評釈 桜風社 」によれば、
写本によっては「むすめに」という本もあるそうなので
そうであるなら、式部の歌が先となりますが、
ここでは普通に新潮日本古典集成の解釈で。
その後も、この筑紫へ行った童友達なりし人とのやりとりが載っていますし、彼女はどうもその後に九州で亡くなったようです。
源氏物語にも九州で有名だった地名が入った歌が見えます。
玉鬘
「君にしも心たがはば松浦なる鏡をかけてちかはむ」
「年を経て祈る心のたがひなば鏡の神をつらしとや見む」
実際には式部は九州へは行っていませんが、
こうやって歌であったり、屏風絵なのでも知り、
それを歌などに用いるあたりは、
当時の教養と雅さが感じられます。
私など地名や位置でさえ、知らない所が多くて困ります(笑)
それにしても、
玉鬘が九州の豪族の求愛を断って逃げてくるあたりの
豪族達の描写など、とてもリアルに感じました。
いつも思うのですが、紫式部はそういう人達の描き方も
大変上手だと思います。
京を離れた経験は、彼女にとって良かったのかもしれません。
旅行の方は、幸いにも天候にも恵まれ、
白味噌のもつ鍋や、珍しい瓦そばも食べました。
かば田の昆布漬け辛子明太子や、
万葉集の和歌が包みに載っていた
筑紫もちなどをお土産に持ち帰りました♪
九州の男の人の方言は、カッコ良かった!です(笑)