先日にお知らせした山本淳子先生の講座
「紫式部と藤原道長」を拝聴しました。
あくまで自分なりの解釈と感想ですので、よろしくお願いします
結論はというと、妾というほどの連続した関係では無いようです。
道長は艶福家だったようで、沢山の女性がいました。
紫式部と道長の関係については、
「尊卑分脈」 (南北時代の系図集 ~1399成立) 紫式部の没後400年ぐらい?の成立
「藤原為時」の「女子」の注記に
(式部父)
『紫式部是也 源氏物語作者 右衛門佐藤原宣孝室 御堂関白道長妾云々』
によります。
つまり、為時の「女子」は紫式部であり、
源氏物語の作者 藤原宣孝の正妻 御堂関白道長の妾うんぬん(伝わっている=聞いております)となります
それで、学者がいろいろ調べたのですが、
紫式部日記と紫式部集に載っている歌の状況が違っていたという事でした。
日記の方はあくまでも彰子出産の正式な記事執筆で献上品だったが、
この日記も後世に伝わっているものは、
同僚や清少納言の悪口も書いたいわゆる消息文 私的なものなども入って伝わっていて
謎が多いのです。
日記には次の2首があります
① 源氏の物語御前にあるを・・・略・・
道長 「 すきものと 名にし立てれば 見る人の
折らで過ぐるは あらじと思ふ」
紫式部 「 人にまだ 折られるものを 誰かこの
すきものとは 口ならしけむ 」
② 渡殿に寝たる夜、戸を叩く人有りときけど・・・略・・
道長 「 夜もすがら 水鶏(くいな)よりけに なくなくぞ
真木(まき)の戸口に 叩きわびつる 」
紫式部 「 ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ
開けてはいかに くやしからまし 」
日記には①②両方が、年次不明の記事。連続していたことも不明であるが、
しかし、その状況から、戸口を叩いた人は道長であるとも解釈できます。
そして紫式部集と日記では違う状況の和歌
紫式部
「女郎花さかりの色を見るからに 露の分きける身こそ知るられ」
あな疾くと微笑みて 硯召し出づ
道長
「白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ」
紫式部集にはこの同じ歌の状況が違う。
日記では道長が 随身を連れて鑓水を掃除させている状況で
1枝女郎花を折らせて 几帳より出して早く!とよみかけるが、
式部集では朝露のをかしきほど 殿出てて女郎花の盛りをご覧になる
(ここには誰もそばにいない?)
=集=は、私的なものなので、
何か意図的に違った状況を書いておいたのかもしれません。
とはいえ、継続的な妾関係ではなかったのだろう、
いわゆる召し人(めしうど)
妻・妾扱いされない主格の人物と固定的な男女関係にある女房
か?
という事でした。
権力者にとって、あくまで手をつけた女の人は情報源だったり利用価値があるのでしょう。
お仕えしているのだから、女房も何度も拒否はできないのではないかと、私は想像します。
実際、源氏物語には、様々な召し人が登場しており、
光源氏の中務の君などや、
代表格としては、
宇治八宮の召し人として、浮舟の母がいます。
自分の身分も低いから娘(浮舟)も八宮に捨てられています。
そういう召し人の女達の存在も描かれていて、
源氏物語は1000年後の私達に教えてくれるという事でした。
お詫び
女郎花の歌を、
詠んだ人を逆に書いていたので
訂正しました。おかしいな?と。
先の歌は紫式部作です。
露の分きける・・方です。
山本先生の訳によると(少しはしょりましたが)
紫式部
=・・略・・露のめぐみを受けられず、美しくなれなかった我が身が恥ずかしく思われます=
道長
=白露はどこにでもある。隔てなどない。
自分の美しくあろうという心によって染まっている。
おまえも心がけ次第では、なかなかのものだ