「まつろはぬもの」 シクルシイ
高校同期のブログで、ある同期生が紹介してゐるのを読み、面白さうだと思った。
図書館で探してみるとあったので、早速借りて読んだ。
著者はシクルシイ、またの名を和気市夫(わき・いちお)といふ人物で、和人とアイヌのハーフである。
自伝なのだが、2000年に82歳で他界した彼の、誕生から1945年までの27年間しか書かれてゐない。
読了してそれ以後の事も知りたくなったが、それは姉妹書と言へる「戦場の狗」に書かれてゐるらしい。
さて、彼は天才だ。
4歳にして高等小学校2年に編入され、それからの4年間で中学(もちろん旧制)卒業以上の学力を身につけ、8歳で旭川商業学校(現旭川商業高校)2年に編入される。
さらに3年後、満鉄傘下のハルピン学院にわづか11歳で入学する。合計7年の間、学校の教師二人が個人授業をしたのだが、ひたすら勉強したのだった。
あとでわかったのだが、それらはすべて松岡洋右によって計画されたものだった。
松岡は、優秀な少年を捜し出して将来のために英才教育を施すといふ事を明治末期頃からやってゐたといふ。
50人ほどが選ばれたが、ほとんど彼の目標達成には至らなかったやうだ。
シクルシイは最後の「選ばれし者」だった。
それにしても、屈斜路湖畔のコタンの幼児にたどり着いたのはすごい情報収集力だと思った。
また、旭川商業学校の担任は、シクルシイのために師範学校でスカウトされ、当校に赴任してゐたのだったし、釧路の小学校教師は元々そこにゐた人だが、シクルシイのためには学校を辞めてもいいと言はれたさうで、それにも驚かされた。
個人教授を含めた学費・釧路や旭川での生活費は国費で賄はれた。
松岡は、彼を個人的な密偵にするのだが、それは国家のためであり、だからこそ国費が投じられた。
密偵とはスパイであり、多くの外国語や格闘技、銃器の扱ひや暗号なども特訓される。
それらはハルピンで行はれたのだが、「ゴルゴ13」の「日本人東研作」にあった特務機関での訓練を思ひ出させたが、彼も研作(ゴルゴとは別人だったが)のやうにすべてを会得した。
それに先立って、松岡が面接してこれまでの経過や意図を教へたのだが、世界平和のためといふのが遠大な目標だった。
松岡と言へば国際連盟脱退、日本が孤立して三国同盟から大戦へ・・・となる要因を作ったといふ理解をしてゐたが、どうやら本心に反するものだったらしい。
その後、ロックフェラー財団に属する燕京大学(現北京大学)に進み、ある教授の助手として世界各地を回るのだが、そこへの進学は13歳の時だ。驚くしかない。
20歳の時、渡ってゐたアメリカから帰国するのだが、それは徴兵のためだった。
しかし普通の兵ではなく、いきなり陸軍憲兵少尉となる。
そして、松岡から与へられた任務は大陸での日本軍の非道行為の真偽確認だった。
その調査のため、銀を扱ふ商人になりすましたり、苦力(クーリー)になるなどいかにもスパイといった行動を取るのだが、そのあたりは実に面白かった。
面白かったと言へば、旭商時代11歳の時の冬休みの事件がある。
故郷の村で過ごすのだが、郵便局で年賀状配達のアルバイトをする事になった。
ある日、局長の息子(14歳)と二人である地区を配達する。
途中で手分けする事を提案され、承諾する。
終わって合流場所に赴くと、自分より多い量を受け持った彼がすでにゐて焚き火をしてゐた。
ずいぶん早いなと思ひ、それを言ったが適当にはぐらかされる。
ところが、その息子は自分の持ち分のかなりの部分を配達せずに燃やしてしまってゐた。
しかも、配達した家ではシクルシイと名乗ってゐた。
年賀状が届かなかった家々の者たちが郵便局に苦情を言ひにくると、局長は彼らに金を渡した上で、皆の名でシクルシイを訴へるよう依頼する。
それらの事が、被疑者として旭川から連れてこられたシクルシイを交へての審問の場で明らかになる。
その事件を扱った検事はきちんとした人物で、局長やその息子、さらにはそれに荷担してゐた村長を糾弾する。
この事件は、当時あったアイヌ差別の中でも悪質なもので、和人より劣ってゐるはづ?のアイヌとのハーフであるシクルシイが飛び抜けて優秀であることへの嫉妬も大きな要因だったのだらう。
もっと前には、シクルシイの母親への電線泥棒といふ讒訴もあった。その際、わづか5歳のシクルシイは、電線の重さを提示するなど、警察官も舌を巻く論理的な主張で讒訴を論破するのだが、彼にとっては何ほどの事でもなかった。
ところで、この自伝は1989年、著者が77歳のときに書かれてゐる。
ざっと70年も前の事が昨日のことのやうに再現されてゐる。読みやすい文章で書かれてをり、会話もふんだんにある。
もちろん当時の会話そのままではないだらうが、果たしてこんなに鮮明に書けるものかといふ疑問が涌いた。
しかし、加藤昌彦氏の「解説にかえて」によれば、本人が「過去の情景がそのまま甦って来る」と言ったさうだし、
本文中でも、小学校時代の教師が校長の質問に答へて「ずばぬけて記憶力がいい」「教えたことは、全部憶え込んでしまいます」と言ってゐる。
してみると、やはり本物の天才で、作中の情景描写や会話などもほとんど信用できるのだと思った。ついでながら、所々に著者の手による挿絵があり、簡潔で的確な描画と感じた。
閑話休題。シクルシイは1945年8月15日、つまり日本敗戦の日に国民政府軍に逮捕される。
後に軍事法廷で戦犯として裁かれる予定だったが、それまで北京で拘束される。
その際拷問を受けるが耐え抜く。
ただ、責任者の大佐は道理がわかる人物で、拷問した者を叱責し、謝罪する。
軍事法廷、所謂東京裁判は松岡洋右を戦犯容疑者とし、シクルシイはその参考人でもあったが、松岡の病死によって不起訴となる。
しかし、本作品はそれに触れず、裁判のために送還され、佐世保に上陸したところで終わってゐる。
ここで、タイトルについて少し書いてみる。「まつろはぬもの」といふのは、日本書紀で何度か使はれ、そこでは大和朝廷(の前身)に従はない者(の集団)を指してゐる。
現代ではほとんど使はれないが、国家権力に従はない者といふ意味だ。
国家権力の中枢にゐた松岡に従ひ、帝国陸軍の軍人となった著者がなぜ「まつろはぬもの」なのか・・・。
これはおそらく彼のアイデンティティに関はる。
父親は和人だが、ほとんど妻子を捨てたやうな状態であり、シクルシイは父を憎んでゐる。
母親はコタンのエカシ(長老)の娘で、子供もアイヌの教へに従って育ててゐる。
シクルシイは母を慕ひつつ教へを守ってをり、ハーフではあるがアイヌ人といふ自覚が強い。
作品の終わり近く、帰国の少し前に例の大佐との会話があるのだが、その中で「日本人の君が云々」といふ大佐の言葉に対して、「僕は日本人ではありません。アイヌ人です」と言ってゐる。
ここでは、国籍ではなく民族として「日本人」「アイヌ人」と言ってゐるわけで、民族としては大和民族に「まつろはぬ」事の表明と考へられるのだ。
日本国とアメリカ合衆国の教育を受け、日本国のために働いたが、その目は世界に向けられ、胸にはアイヌ民族としての誇りを抱いての一生だった。その事が本作品のタイトル、そして著者名からも窺はれる。