昨夜、深夜遅くに腐れ縁からLINEで種村直樹氏が逝去されたことが連絡ありました。享年78だったそうです。もう何年も入院していたので、復活する可能性は極めて低いと聞いていたので驚くこともなく、冷静に受け取ることができました。
今までも何回かブログで書いているように気もしますが、氏を語ることはこれで最後になると思いますので、私との関係についてちょっとだけ書こうと思います。
初めて種村直樹というライターを知ったのは中学に入った頃だったと記憶します。当時「青春18きっぷの旅」が刊行されたころで、たまたま書店で同書を見つけ購入して読みましたが、あまりにも面白く一気に読みました。そして「乗り継ぎ」という旅行の形態があることを知りました。私は鉄ちゃんですが元来「乗り鉄」で「規則鉄」ですので通じるものを感じたんですね。もし「撮り鉄」だったら気にすることもなかったかと。
初めて手紙を出したのもその頃です、誰もがあの悪筆には最初悩まされたと思います。すらすらと解読するまでには3年はかかりましたから。勿論ながら「種村直樹レイルウェイ・ライター友の会」に加入。
初めて会ったのは19歳の時、新千歳空港から宮崎空港への乗り継ぎに参加した時で、種村氏に挨拶をすると「キミがそうか!」と。この時はそれほど接点は無かったんですが、その次の夜明から日の出への乗り継ぎに参加した時にはなるべく積極的に接してみようと思い行動をした。芸備線の山中の駅でワンカップをゴチしてもらったが、当時はビールしか飲めず、貰った手前飲まないわけにもゆかなかったが「何でこんなものが旨いのだろう?」と思うほどだった。
しかしそれに転機が訪れたのは1999年5月の頃、種村氏から北海道の道東を1泊で取材旅行するから同行しないか?とお誘いがあり即決。二人で札幌から〈おおぞら13号〉の座席車に乗って釧路へ向かいました。その日は釧網本線を一旦網走まで乗り通してから行きつ戻りつの旅をして、夜18時頃だったかな、緑駅で下車して駅前の温泉「緑の湯」に向かったのです。最初はここに食堂があれば夕食とも考えたのですが受付で入浴のみで食堂はないが、そばに食堂があるのでそちらで済ますと言いと言われたので、風呂が先か食事が先かは忘れましたがそちらへ。そこで種村氏は男山の冷酒コップを2つ注文し、1つを私に回してきた。「男山はいい酒だから飲みなさい」とか言われた。本当は日本酒よりもサッポロビールなんだがなあ…と思いながら一口飲むと「旨い!」。日本酒ってこんなに旨かったんだと。以来日本酒を飲めるようになりました。この話を数年経ってから氏に話すと「そうか、ボクはキミに相当影響を与えたんだな」と。相当どころでない、もし種村直樹という人がいなかったら今のような旅行スタイルも確立していないのではないだろうか。
その後も何度かこういうことがあり、2003年3月には私から誘って「JR東日本パス」で湯田中温泉に行って、小さな旅館のコタツに入り鍋を囲んで食事したり。確かにこの頃になると氏は簡単に酔っ払うようになった。日本酒の300ミリの瓶を1本飲んだだけで沈没してしまったんだから、過去の「おはようビール」を知る者としては考えられないほどだった。しかしこれは衰えの始まりだったかと。
しかしこのような関係に転機が来たのは鉄道ジャーナル社から連載を打ち切られた頃。確かに間違いの上塗りのような文章は多いし、何度も聞いたようなエピソードばっかりだし、規則関係にしてもかつての精細な回答は見られなくなった頃だ。よく言われたのは、国鉄時代なら太いパイプがあり如何様に確認できたものの、JRになって久しくなってパイプも無くなり、JR東日本も特別扱いはしなくなって、過去の記憶や憶測で回答するからだと。そして切られた時のあの恨み節。何だか急速に種村氏への熱意は冷めてしまった。同じような人は多くいらっしゃるのではなかろうか。
しかしね、いま私が住んでいる所は大津市内の石山駅と膳所駅の中間点と言えるような場所。徒歩10分で母校の膳所高校にも行ける。仕事の関係とはいえこのような場所に住むことにある種の縁を感じてしまった。結局は私は種村氏の掌で転がされたままじゃないのかと。
ともあれ、あの世で乗り継ぎを楽しんでください、好きな酒やタバコを楽しんでください。あの世には「禁煙車」など無いでしょうから…。
合掌。
今までも何回かブログで書いているように気もしますが、氏を語ることはこれで最後になると思いますので、私との関係についてちょっとだけ書こうと思います。
初めて種村直樹というライターを知ったのは中学に入った頃だったと記憶します。当時「青春18きっぷの旅」が刊行されたころで、たまたま書店で同書を見つけ購入して読みましたが、あまりにも面白く一気に読みました。そして「乗り継ぎ」という旅行の形態があることを知りました。私は鉄ちゃんですが元来「乗り鉄」で「規則鉄」ですので通じるものを感じたんですね。もし「撮り鉄」だったら気にすることもなかったかと。
初めて手紙を出したのもその頃です、誰もがあの悪筆には最初悩まされたと思います。すらすらと解読するまでには3年はかかりましたから。勿論ながら「種村直樹レイルウェイ・ライター友の会」に加入。
初めて会ったのは19歳の時、新千歳空港から宮崎空港への乗り継ぎに参加した時で、種村氏に挨拶をすると「キミがそうか!」と。この時はそれほど接点は無かったんですが、その次の夜明から日の出への乗り継ぎに参加した時にはなるべく積極的に接してみようと思い行動をした。芸備線の山中の駅でワンカップをゴチしてもらったが、当時はビールしか飲めず、貰った手前飲まないわけにもゆかなかったが「何でこんなものが旨いのだろう?」と思うほどだった。
しかしそれに転機が訪れたのは1999年5月の頃、種村氏から北海道の道東を1泊で取材旅行するから同行しないか?とお誘いがあり即決。二人で札幌から〈おおぞら13号〉の座席車に乗って釧路へ向かいました。その日は釧網本線を一旦網走まで乗り通してから行きつ戻りつの旅をして、夜18時頃だったかな、緑駅で下車して駅前の温泉「緑の湯」に向かったのです。最初はここに食堂があれば夕食とも考えたのですが受付で入浴のみで食堂はないが、そばに食堂があるのでそちらで済ますと言いと言われたので、風呂が先か食事が先かは忘れましたがそちらへ。そこで種村氏は男山の冷酒コップを2つ注文し、1つを私に回してきた。「男山はいい酒だから飲みなさい」とか言われた。本当は日本酒よりもサッポロビールなんだがなあ…と思いながら一口飲むと「旨い!」。日本酒ってこんなに旨かったんだと。以来日本酒を飲めるようになりました。この話を数年経ってから氏に話すと「そうか、ボクはキミに相当影響を与えたんだな」と。相当どころでない、もし種村直樹という人がいなかったら今のような旅行スタイルも確立していないのではないだろうか。
その後も何度かこういうことがあり、2003年3月には私から誘って「JR東日本パス」で湯田中温泉に行って、小さな旅館のコタツに入り鍋を囲んで食事したり。確かにこの頃になると氏は簡単に酔っ払うようになった。日本酒の300ミリの瓶を1本飲んだだけで沈没してしまったんだから、過去の「おはようビール」を知る者としては考えられないほどだった。しかしこれは衰えの始まりだったかと。
しかしこのような関係に転機が来たのは鉄道ジャーナル社から連載を打ち切られた頃。確かに間違いの上塗りのような文章は多いし、何度も聞いたようなエピソードばっかりだし、規則関係にしてもかつての精細な回答は見られなくなった頃だ。よく言われたのは、国鉄時代なら太いパイプがあり如何様に確認できたものの、JRになって久しくなってパイプも無くなり、JR東日本も特別扱いはしなくなって、過去の記憶や憶測で回答するからだと。そして切られた時のあの恨み節。何だか急速に種村氏への熱意は冷めてしまった。同じような人は多くいらっしゃるのではなかろうか。
しかしね、いま私が住んでいる所は大津市内の石山駅と膳所駅の中間点と言えるような場所。徒歩10分で母校の膳所高校にも行ける。仕事の関係とはいえこのような場所に住むことにある種の縁を感じてしまった。結局は私は種村氏の掌で転がされたままじゃないのかと。
ともあれ、あの世で乗り継ぎを楽しんでください、好きな酒やタバコを楽しんでください。あの世には「禁煙車」など無いでしょうから…。
合掌。