気になること

視点を変えて、近頃気になること

地方自治の危機(追記65)「遠くの他人」とオンライン交流

2020-09-05 11:13:14 | 地方自治
 現役引退のシニアが、新しい「地域とのつながり」を求めて勉強する講座があり、その関連で講座開設法人と他県の大学との企画でオンライン会議があった。従来あまり無かった、大学のゼミの学生と我々シニアの交流が、インターネットによる会話と作文(作文は別途メール交換)で行われた。

 コロナ禍でオンライン交流を使わざるを得なかった面が大きいが、会議の発言を一部の人のみが独占するのではなく、お互いに同じ量だけ話そうという目標を大学の先生から与えられた(「等話」という呼び名)。実際、オンラインで話すときは特に「等話」が有効であるように感じた。1回の発言は要領よく短く話し、最後に相手の発言を促す言葉を言って相手に発言を譲る。

 一般に、人は喋ることが好きで、会話あるいは対話をしていても、つい喋る方が時間を占有してしまう。そして相手の話しを聞かないことが多い。オンラインで「等話」するためには、自分の発言はよりコンパクトに要約を伝え、相手に発言を促す気配りが必要である。

 従来のように、地域で同好の士が集まるグループに入れば比較的長く付き合えるが、オンラインで知り合ったような遠隔の他人と、長く付き合うことはできるだろうか。「遠い親戚より近くの他人」と言われる。「遠い親戚」と疎遠にならないようにLINEやSkypeを使う人がいるという話しは聞いた事があるが、「遠くの他人」がオンラインでつながれば、コロナ禍後の新生活様式の一つになるかも知れない。
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地方自治の危機(追記64)隣組意識の難しさ

2020-08-05 15:22:12 | 地方自治
 現役の仕事を卒業して、第二の人生に何かしようと考えた時、周囲にある趣味グループやボランティアグループに参加することが比較的多い。しかしその多くは、少し広域のメンバーから構成されている。日常生活には、身近な地域内の互助関係が必要だが、既に壊れかかっている。前記の広域グループでは、地域の課題解決にミスマッチな所がある。

 地域の困り事を広域でないボランティアグループが解決している地域もあるが、私の地域では、社会福祉協議会などが、家事の手伝いに有償ボランティアを斡旋するなど、ある程度「官」が先導している。官主導の場合、止むを得ないことだが、ある程度広域での相互扶助になり、利用しにくい点がある。

 かつての隣組関係の良き時代の様に、近所の困っている方を手助けしたい気持ちに駆られるが、簡単でない。例えば、少し余った自家栽培の野菜を持っていくと必ずお返しをしてくれるので、次回から差し上げにくくなる。または、隣の一人暮らしの家のほんの少しの木の剪定をしてやりたいと思っても、それより自家の仕事を先にやって欲しいという家族の意見も出る。
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地方自治の危機(追記63) コロナウィルス対策をした傾聴ボランティアとは?

2020-07-03 16:08:44 | 地方自治
 話し相手がいない高齢者の話しを「聴く」という傾聴ボランティアをしている。人は人の話を聞くよりも、自分の関心ごとをおしゃべりするのが好きである。独居などで話し相手がいない人はもちろん、多人数がいる介護施設に入所した方も職員は様々な仕事に忙しく、また周囲の入所者も何かしらの身体的不自由さや記憶の衰えがあるために、入所者同士で話しができる機会は意外に少ない。

 「話しをすることで元気になってもらう」事を目的に、「傾聴ボランティア」団体が全国にできている。ほとんどのボランティアは、相手の力になるというよりも、むしろ自分の方が生きる力をもらっていることに気付いていく。相手から教えてもらうことがあり、また自分が普段周囲の人と会話するときに、自分だけ喋りすぎないコミュニケーションの方法として役に立つ。

  ここに来て世界中が驚愕したコロナウィルス感染防止のため、傾聴ボランティア活動は全面的にストップしている。施設入所者を家族が面会にいくのは再開の動きがあるが、ボランティアに従来通りの面接方式が復活するかどうか未だ分からない。マスクやフェースシールドはするにしても、耳が遠い方も少なからずおられるので遠くからでは話しにくい。

  最近、別の機会でオンライン会議に招待されて体験した。かなりしゃべりにくいとか相手の表情が分かりにくいことがあり、ネットによる会話が施設の入所者に受け入れられるかという問題はある。将来的には施設の高齢者の傾聴をする新しい方式が生まれるかもしれない。ただし、パソコンなりスマホの購入費や、使うときに施設側に余計な手間が掛かるという壁を克服する必要がある。

 一方、諏訪市社協が最近始めた“Pen Friends”という企画がある。副題は「令和にこそ市民による心のつながりづくり」とある。聞いて欲しいこと、最近頑張っていること、心がホッとなった出来事、絵葉書や書など何でも、ボランティア・市民活動センターに手紙を送ると、登録したメンバー(複数の申込者)に手紙が届くという仕組みである。

 傾聴ボランティアとして、施設の入所者に手紙は書けても、返事は戻ってくるだろうか。かつて母親を介護していた頃、地域の小学生が書いた手紙が母に届いたことがある。学校の先生が導いた一種のボランティア教育かも知れないが、結構嬉しがっていたのを思い出す。
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地方自治の危機(追記62)コロナ禍と「公共」

2020-06-06 16:46:54 | 地方自治
 曜日の観念が無くなるほど現役引退後の年月が長くなり、紋切言葉で「悠々自適でいいですね」と微妙なものの言い方をされることもあるが、各種趣味の団体に参加したり、自治体が主催する講演会などが結構あって退屈することはなかった。しかしここに来て コロナ禍による在宅が続いてテレビを見る時間が増えた。

 NHK-Eテレの番組「世界の哲学者に人生相談」の5月28日の相談事は、「PTAや地域の活動が煩わしいが、どうしたら前向きに参加できるか」であった。哲学者の小川仁志さんが、ナチスを逃れて亡命したユダヤ系の政治哲学者ハンナ・アーレントの“「公共」についての研究”を引いて解説した。

 権力に付き従う個々人が、連帯する幾つもの団体やグループを作って話し合い(公共)をしなければ、個人はアトム化して思考停止する(結果、全体主義へ)というアーレントの考え。PTAや地域団体に前向きになるには、人の多様な意見を認め、相手と親しすぎない適度な距離を取る(コロナ対策のような物理的距離でなく、意見に距離を取る)ことで、参加しやすくなるのではないかという。これらの実践には「勇気」が必要であるとも。

 コロナ禍で人との意見交換が出来にくくなっても、人間関系は従来と同じように必要であると、わたしは感じる。しかし、権力が国や自治体の場合は特に、市民がアトム化していると、社会は市民の望まない方向に行くかもしれない。身近なグループや団体では同調圧力が強く、異論はなかなか受け入れられないので、ある程度やりたいことを通すには会長になって頑張るのが一つの手である。しかし一般に、会長や役員になろうとする人は少ない。
また、人との交流がフレイル予防になるとも言われるが、コロナウィルス感染防止対策はそれに沿いきれない方向である。「公共」に参加する努力が求められている。
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地方自治の危機(追記61)“誤解を与えたとするならば謝りたい”という表現

2020-05-03 16:23:54 | 地方自治
  多くの人に未曾有の「新型コロナウィルス禍」に関連して、4月23日放送のニッポン放送オールナイトニッポンで、岡本隆史氏が「コロナが明けたら可愛い人が風俗嬢やります」などと発言した。
 27日に、ニッポン放送が、「女性の尊厳と職業への配慮に欠ける発言があったが、放送を聴いて不快に感じられた皆様にお詫び」する、という趣旨のコメントを発表した。これを聞いて、『不快に感じられた皆様に』ということは、「不快に感じなかった皆様には謝罪しない」という事かと違和感を感じた。

 「不快に感じられた皆様に」という所に引っかかりを感じたのは一寸大袈裟かもしれないが、次のような経験があったためである。過日、県の福祉関係部門に協賛する、あるボランティアグループに対して、県の準職員が「こんな活動のどこが面白いか」と発言した。真意を確かめた所、「不快な思いをさせてしまったなら、申し訳ありません」という釈明があった。グループ活動は高齢者が健康維持や社会参加のために自主的に活動しているもので、普通の会話として、「何が面白いか」と言われて、いい気持ちの人はいない。「不快な思いをさせてしまったなら」が、ニッポン放送の「不快に感じられた皆様に」と響き合った。

 最近のEテレ「100分de名著」で放送された、チェコのハヴェル著『力なき者たちの力』の第3回(2020年2月17日放送)に出てきた司会者のコメントに、上記に近いことがあった。すなわち、「政治家などは、『誤解を与えたとするならば謝りたい』とよく口にする。これは常套句だけの謝罪はするが、責任は取らないというシステムである。」「個人なら責任を担えるが、近代の権力は技術者に過ぎないので、罪を担うことがない。」先ごろ、日本の国会でも『~したとするならば謝りたい』という表現を使う政治家がいて顰蹙を買っていた。
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