平成29年10月22日執行の最高裁判所裁判官国民審査広報がある。裁判官としての心構えの欄には美辞麗句が並ぶが、菅野博之判事は「原告や被告等それぞれの立場に立ち、心を開いて話し合い……」と述べている。
また平田オリザ著『対話のレッスン』では、他人の共感を得るためには「対話」が重要であることが強調されている。
しかるに行政訴訟では、口頭弁論と称して準備書面の文章で代替している。裁判長に「準備書面記載の通りですか」と聞かれて、「その通りです」と答えると陳述したことになる。
しかし実際の裁判の次の場面には違和感を覚えた。法廷において、私が口頭で追加説明をしようとした時、「文章」で出すようにとがめられた。にも拘わらず次には、裁判長が私に「次回までに○○を説明せよ」という指示を文章では無く、口頭のみで行なった。口頭では後日の確認が困難だと裁判所が考えているように、おかげで後日私は何を答えるように命じられたのか正確なことがぼやけてしまい、回答作りにえらい苦労した。
ついでに蒸し返すが、この指示は既述の、「本来は被告が答えるべきことがら」である。これを原告に求めることは、裁判所がシナリオを誘導していることになり、石原豊昭ほか著『訴訟は本人で出来る』(p26)にある「裁判官が勝手に訴訟を進めてはいけない、という大原則」にもとるのではないか。憲法が、裁判官の身分を保障していることの意味を逆手に取ってはいけない。何をやってもよいということではない。
文章が先行するのは、主張の証拠を残すためという事務効率上の理由が付いている。
「対話」でさえお互いに分かり合うのが難しいのに、文章のやり取りでは、ほとんど分かり合えないことは容易に推察できよう。
裁判は「対話」ではなく「ディベート」かもしれないが、文頭の判事さんが書かれているような「心を開いて話し合い」からは程遠いことが現実は行われている。
また平田オリザ著『対話のレッスン』では、他人の共感を得るためには「対話」が重要であることが強調されている。
しかるに行政訴訟では、口頭弁論と称して準備書面の文章で代替している。裁判長に「準備書面記載の通りですか」と聞かれて、「その通りです」と答えると陳述したことになる。
しかし実際の裁判の次の場面には違和感を覚えた。法廷において、私が口頭で追加説明をしようとした時、「文章」で出すようにとがめられた。にも拘わらず次には、裁判長が私に「次回までに○○を説明せよ」という指示を文章では無く、口頭のみで行なった。口頭では後日の確認が困難だと裁判所が考えているように、おかげで後日私は何を答えるように命じられたのか正確なことがぼやけてしまい、回答作りにえらい苦労した。
ついでに蒸し返すが、この指示は既述の、「本来は被告が答えるべきことがら」である。これを原告に求めることは、裁判所がシナリオを誘導していることになり、石原豊昭ほか著『訴訟は本人で出来る』(p26)にある「裁判官が勝手に訴訟を進めてはいけない、という大原則」にもとるのではないか。憲法が、裁判官の身分を保障していることの意味を逆手に取ってはいけない。何をやってもよいということではない。
文章が先行するのは、主張の証拠を残すためという事務効率上の理由が付いている。
「対話」でさえお互いに分かり合うのが難しいのに、文章のやり取りでは、ほとんど分かり合えないことは容易に推察できよう。
裁判は「対話」ではなく「ディベート」かもしれないが、文頭の判事さんが書かれているような「心を開いて話し合い」からは程遠いことが現実は行われている。