🚢幸山船長🚢②
30分ほど経ってから、私たちは長四帖(じょう)ほどの狭い船室で、窮屈に坐(すわ)って茶を飲んでいた。
それはどの船にもある設備で、腰掛ける客のほか、坐る客のために設けられているのだが、
その17号はもっと外輪船だったからであろう、
他の通船のそれより幾らか広いように感じられた。
左右は硝子(ガラス)を嵌(は)めた窓、うしろは機関部と仕切られた板壁、
前方は腰壁のある広い船室であるが、
そこには障子(しょうじ)が取り付けられているし、
床には畳が4帖敷いてあった。
板壁には棚が作りつけられ、小さい仏壇と、6、7冊の本が並んでい、
本の片方を硝子(ガラス)張りの人形がブックエンドのように押えていた。
炊事は腰掛けのある船室のはうでするらしいが、こちらにも小さな火鉢があり、
その脇に茶箪笥や、たたんだ卓袱台(ちゃぶだい)や、炭取、柳行李(やなぎごうり)、駒箱(こまばこ)をのせた将棋盤、
そのほかこまごました道具類が、
いかにもきれい好きな老人の独りぐらしらしく、きちんと整理されてあった。
「あの人形が可笑(おか)しいかね」
と船長は私の視線を追って問いかけた、
「可笑しかんべえさ、こんな、としよりの持つもんじゃねえだからな、
いつだかも倅(せがれ)が孫をつれて来たとき、孫は女の子で5つだっけだが、
その孫が欲しがって泣き喚(わめ)いただ、
倅(せがれ)も呉れろってせがんだだよ、
だがおらあ断わっただ、なげえあいだ側に置きつけたでね、
いまでも手放す気にゃならねぇだよ」
私は船を大切にする船長の、船乗り気質についてなにか云ったように覚えている。
「さっき、 "倉なあこ" が先生って呼んでたっけだな」
と幸山船長は笑った、
「なんの先生がおら知らねえし、そう思ってくれるのは有難えだがね、
これはそんなむずかしい理屈でやってるわけじゃねえだよ、
ただ悪いガキどもが来ちゃ船をよごすだ、黒いペンキをなすくったり泥を塗りつけたりよ、
近頃のガキどもときたら手に負えねえ、
わけもなんもねぇのに、きれいな物さえ見るとめのかたきにして、
ぶっ毀(こわ)したり、よごしたりしてよろこんでるだ、
しょうがねぇ、叱りようもねえだから、そのたんびにおら塗り直しているだよ、
おらのほかにこいつをきれいにしといてやる者はねえだからね」
それから暫くのあいだ、いまは記憶してない話が続き、
どんなふうにしてか、やがて幸山船長は、むかしの恋物語をはじめ、
私は、できるだけ無関心をよそおって聞いた。
そういう話をうまく聞くには、相手によって、2種類の聞きかたがあるようだ。
或る者はこっちが乗り気になって、強い関心を示さなければならないし、
他の者は反対に、聞くような聞かないような、平静な態度を保つほうがよい。
この選択を誤ると、しばしばいい話を聞きそこなうようである。
私は幸山船長が後者に属するように感じたのだが、
その直感は外れなかったとみえ、船長はなんの警戒心も起こさず、
静かに、ゆっくりと語り続けた。
話は単純なものであった。
船長は18歳のとき初恋をした。
相手は新堀川の小さな雑貨店の娘で、名はお秋、年は彼より一つ下であった。
その恋はあどけないほど幼く、けれどもあたたかい、きれいなものであったが、
きれいなままで3年あまり続いて終わりになった。
2人の気持ちが変わったのではなく、娘の親がかれらの仲を裂いたのである。
その父親というのはなかなか切れる男で、芦畑を作ることを思いつき、
県からその許可を取ると、根戸川の下流から浦粕の東の浜へかけて、
広大な地域の権利を手に入れた。
葛飾から浦粕一帯は海苔の産地として知られている。
したがって、海苔を漉(す)くのに使う海苔簾(すだれ)(20センチ四方ほどの大きさで、細い芦の軸で編んだ物)だけでも、
その需要は、信じがたいほど多量であり、
その他の分も加えると、どんなに広大な芦畑を作っても、作り過ぎることはなかった。
こうして新堀川の小さな雑貨屋は、見ているうちに産をなした。
新たに家を建てたり、刈った芦の倉や、海苔簾を編む工場を作ったりし、
「大叶屋(おおかのうや)」という看板を揚げて、ひとかど旦那と呼ばれるようになった
「大叶屋、、」と云って、幸山船長は喉(のど)で笑った。
「子供たちは、おっかねーや、ってはやしたてたもんだ、おっかねーや」
娘は21歳で嫁にいった。
根戸川に沿った永島というところの、かなり資産家だったそうで、
その結婚が迫った或る日、娘は幸山船長としめし合せ、東の浜の松並木でひそかに逢った。
娘は持ってきた人形箱を渡し、
躯(からだ)は嫁にゆくが、自分の心はこの人形にこめてある、
どうか、これを私だと思って持っていてくれ。
そう云って泣いた。
こういう話は文字に書く、あまりにありふれておかしくもないが、
幸山船長からじかに聞いていた私は、その「ありふれ」ている単純さのため、却(かえ)って深く感動したことを覚えている。
娘はなお、どうせ嫁にいくのだから、このからだはあなたの好きなようにしてくれと云って、
やけのような態度で幾たびも迫った。
船長もいっそのことそうしようかと思ったが、
まだ女に触れたことがないため、
どういう手順が必要なのかはっきりわからず、
娘が積極的になればなるほどこおじけづいて、ついなにごともなく別れてしまった。
娘の婚家は根戸川に近いので、幸山船長の乗った船が通ると、彼女は土堤(どて)まで出て来て姿を見せた。
通船の排気音やエンジンの音は、それぞれに特徴があって、
馴(な)れた耳で聞くと何号船かということが判別できるという。
娘は17号船の音が遠くからかわかるのだろう。
ときには、あねさまかぶりに襷(たすき)をかけ、裾(すそ)を端折(はしょ)ったままで、
たぶん洗濯かなんかしていたのだろうが、
あたふたと土堤へ駆けだして来たりする。
出て来ても手を振るとか声をかけるなどということはない、船のほうを見るようすもなく、
ただ船の通り過ぎるあいだ、自分がそこにいることを彼に見せ、
また、さあらぬ態(てい)で彼のほうをひそかに見るのであった。
船がそこを通過するのに約500メートル、
2人がお互いの姿を見ることのできる区間は約300メートル。
川を遡行(そこう)する時間は長くて5分ぐらいだし、
くだりのときは3分たらずであるが、
その水上と土堤との短くはかない、けれども誰にも気づかれることのない愛の交換は、
若い彼にとってこの世のものとは思えないほどのよろこびであった。
やがて17号船は荷物専用になり、彼は19号船に移った。
そのあいだに一度、50日あまり彼女が姿を見せなかったことがあった。
もうこれで終わりだろうか、娘の気持ちはさめてしまったのだろうか。
彼は2人の仲を裂かれたときよりも
激しい不安と、絶望感におそわれた。
だがそれは思いすごしで、
彼女はそのあいだ産褥(さんじょく)についていたのだ、ということがわかった。
再び土堤へ姿を見せたとき、彼女はおくるみで包んだ赤子を抱いていた。
「おかしなことだが」
と幸山船長は云った、
「まったく根もねえ話だが、
そのときおらあ、あのこが抱いているのはおらの子だっていう気がしたけだ、
あの子がおらの子を生んだ、いま抱ているのはおらたち2人の子だってよ、
先生なんぞにゃあばかげて聞こえるかもしれねえだがね」
彼女の生んだのは女の子であった。
あとでわかったのだが、彼女の産は重く、そのため躯が弱ったということで、
土堤(どて)へ姿を見せないことが多くなった。
しかし、今度は彼は疑いも不安も感じなかった。
相当な資産家の主婦であり、また子も生んだとなれば、ときには都合の悪いこともあろう。
番たび土堤に出て来られないのは当然だ、というふうに考えるようになった。
彼は27歳でエンジナーになり、結婚した。
相手は郷里の水戸在に育った娘で、気が強く、言葉も動作も荒っぽく、彼は初めから好きになれなかった。
妻は息子と娘を生み、32歳で死んだが、
死なれるまで彼は愛情というものを感じたことがなかった。
妻のほうも同様であったか、硝子箱の京人形を見てもべつに気にしなかったし、
彼に愛情があるのかないのかを知ろうともしなかった。
「芦が風を呼んでるだな」
幸山船長ふと頭を傾けて云った、
「、、、ちょっと外へ出て風に吹かれようかね」
私たちは甲板へ出た。
(つづく)
(「青べか物語」山本周五郎さんより)
30分ほど経ってから、私たちは長四帖(じょう)ほどの狭い船室で、窮屈に坐(すわ)って茶を飲んでいた。
それはどの船にもある設備で、腰掛ける客のほか、坐る客のために設けられているのだが、
その17号はもっと外輪船だったからであろう、
他の通船のそれより幾らか広いように感じられた。
左右は硝子(ガラス)を嵌(は)めた窓、うしろは機関部と仕切られた板壁、
前方は腰壁のある広い船室であるが、
そこには障子(しょうじ)が取り付けられているし、
床には畳が4帖敷いてあった。
板壁には棚が作りつけられ、小さい仏壇と、6、7冊の本が並んでい、
本の片方を硝子(ガラス)張りの人形がブックエンドのように押えていた。
炊事は腰掛けのある船室のはうでするらしいが、こちらにも小さな火鉢があり、
その脇に茶箪笥や、たたんだ卓袱台(ちゃぶだい)や、炭取、柳行李(やなぎごうり)、駒箱(こまばこ)をのせた将棋盤、
そのほかこまごました道具類が、
いかにもきれい好きな老人の独りぐらしらしく、きちんと整理されてあった。
「あの人形が可笑(おか)しいかね」
と船長は私の視線を追って問いかけた、
「可笑しかんべえさ、こんな、としよりの持つもんじゃねえだからな、
いつだかも倅(せがれ)が孫をつれて来たとき、孫は女の子で5つだっけだが、
その孫が欲しがって泣き喚(わめ)いただ、
倅(せがれ)も呉れろってせがんだだよ、
だがおらあ断わっただ、なげえあいだ側に置きつけたでね、
いまでも手放す気にゃならねぇだよ」
私は船を大切にする船長の、船乗り気質についてなにか云ったように覚えている。
「さっき、 "倉なあこ" が先生って呼んでたっけだな」
と幸山船長は笑った、
「なんの先生がおら知らねえし、そう思ってくれるのは有難えだがね、
これはそんなむずかしい理屈でやってるわけじゃねえだよ、
ただ悪いガキどもが来ちゃ船をよごすだ、黒いペンキをなすくったり泥を塗りつけたりよ、
近頃のガキどもときたら手に負えねえ、
わけもなんもねぇのに、きれいな物さえ見るとめのかたきにして、
ぶっ毀(こわ)したり、よごしたりしてよろこんでるだ、
しょうがねぇ、叱りようもねえだから、そのたんびにおら塗り直しているだよ、
おらのほかにこいつをきれいにしといてやる者はねえだからね」
それから暫くのあいだ、いまは記憶してない話が続き、
どんなふうにしてか、やがて幸山船長は、むかしの恋物語をはじめ、
私は、できるだけ無関心をよそおって聞いた。
そういう話をうまく聞くには、相手によって、2種類の聞きかたがあるようだ。
或る者はこっちが乗り気になって、強い関心を示さなければならないし、
他の者は反対に、聞くような聞かないような、平静な態度を保つほうがよい。
この選択を誤ると、しばしばいい話を聞きそこなうようである。
私は幸山船長が後者に属するように感じたのだが、
その直感は外れなかったとみえ、船長はなんの警戒心も起こさず、
静かに、ゆっくりと語り続けた。
話は単純なものであった。
船長は18歳のとき初恋をした。
相手は新堀川の小さな雑貨店の娘で、名はお秋、年は彼より一つ下であった。
その恋はあどけないほど幼く、けれどもあたたかい、きれいなものであったが、
きれいなままで3年あまり続いて終わりになった。
2人の気持ちが変わったのではなく、娘の親がかれらの仲を裂いたのである。
その父親というのはなかなか切れる男で、芦畑を作ることを思いつき、
県からその許可を取ると、根戸川の下流から浦粕の東の浜へかけて、
広大な地域の権利を手に入れた。
葛飾から浦粕一帯は海苔の産地として知られている。
したがって、海苔を漉(す)くのに使う海苔簾(すだれ)(20センチ四方ほどの大きさで、細い芦の軸で編んだ物)だけでも、
その需要は、信じがたいほど多量であり、
その他の分も加えると、どんなに広大な芦畑を作っても、作り過ぎることはなかった。
こうして新堀川の小さな雑貨屋は、見ているうちに産をなした。
新たに家を建てたり、刈った芦の倉や、海苔簾を編む工場を作ったりし、
「大叶屋(おおかのうや)」という看板を揚げて、ひとかど旦那と呼ばれるようになった
「大叶屋、、」と云って、幸山船長は喉(のど)で笑った。
「子供たちは、おっかねーや、ってはやしたてたもんだ、おっかねーや」
娘は21歳で嫁にいった。
根戸川に沿った永島というところの、かなり資産家だったそうで、
その結婚が迫った或る日、娘は幸山船長としめし合せ、東の浜の松並木でひそかに逢った。
娘は持ってきた人形箱を渡し、
躯(からだ)は嫁にゆくが、自分の心はこの人形にこめてある、
どうか、これを私だと思って持っていてくれ。
そう云って泣いた。
こういう話は文字に書く、あまりにありふれておかしくもないが、
幸山船長からじかに聞いていた私は、その「ありふれ」ている単純さのため、却(かえ)って深く感動したことを覚えている。
娘はなお、どうせ嫁にいくのだから、このからだはあなたの好きなようにしてくれと云って、
やけのような態度で幾たびも迫った。
船長もいっそのことそうしようかと思ったが、
まだ女に触れたことがないため、
どういう手順が必要なのかはっきりわからず、
娘が積極的になればなるほどこおじけづいて、ついなにごともなく別れてしまった。
娘の婚家は根戸川に近いので、幸山船長の乗った船が通ると、彼女は土堤(どて)まで出て来て姿を見せた。
通船の排気音やエンジンの音は、それぞれに特徴があって、
馴(な)れた耳で聞くと何号船かということが判別できるという。
娘は17号船の音が遠くからかわかるのだろう。
ときには、あねさまかぶりに襷(たすき)をかけ、裾(すそ)を端折(はしょ)ったままで、
たぶん洗濯かなんかしていたのだろうが、
あたふたと土堤へ駆けだして来たりする。
出て来ても手を振るとか声をかけるなどということはない、船のほうを見るようすもなく、
ただ船の通り過ぎるあいだ、自分がそこにいることを彼に見せ、
また、さあらぬ態(てい)で彼のほうをひそかに見るのであった。
船がそこを通過するのに約500メートル、
2人がお互いの姿を見ることのできる区間は約300メートル。
川を遡行(そこう)する時間は長くて5分ぐらいだし、
くだりのときは3分たらずであるが、
その水上と土堤との短くはかない、けれども誰にも気づかれることのない愛の交換は、
若い彼にとってこの世のものとは思えないほどのよろこびであった。
やがて17号船は荷物専用になり、彼は19号船に移った。
そのあいだに一度、50日あまり彼女が姿を見せなかったことがあった。
もうこれで終わりだろうか、娘の気持ちはさめてしまったのだろうか。
彼は2人の仲を裂かれたときよりも
激しい不安と、絶望感におそわれた。
だがそれは思いすごしで、
彼女はそのあいだ産褥(さんじょく)についていたのだ、ということがわかった。
再び土堤へ姿を見せたとき、彼女はおくるみで包んだ赤子を抱いていた。
「おかしなことだが」
と幸山船長は云った、
「まったく根もねえ話だが、
そのときおらあ、あのこが抱いているのはおらの子だっていう気がしたけだ、
あの子がおらの子を生んだ、いま抱ているのはおらたち2人の子だってよ、
先生なんぞにゃあばかげて聞こえるかもしれねえだがね」
彼女の生んだのは女の子であった。
あとでわかったのだが、彼女の産は重く、そのため躯が弱ったということで、
土堤(どて)へ姿を見せないことが多くなった。
しかし、今度は彼は疑いも不安も感じなかった。
相当な資産家の主婦であり、また子も生んだとなれば、ときには都合の悪いこともあろう。
番たび土堤に出て来られないのは当然だ、というふうに考えるようになった。
彼は27歳でエンジナーになり、結婚した。
相手は郷里の水戸在に育った娘で、気が強く、言葉も動作も荒っぽく、彼は初めから好きになれなかった。
妻は息子と娘を生み、32歳で死んだが、
死なれるまで彼は愛情というものを感じたことがなかった。
妻のほうも同様であったか、硝子箱の京人形を見てもべつに気にしなかったし、
彼に愛情があるのかないのかを知ろうともしなかった。
「芦が風を呼んでるだな」
幸山船長ふと頭を傾けて云った、
「、、、ちょっと外へ出て風に吹かれようかね」
私たちは甲板へ出た。
(つづく)
(「青べか物語」山本周五郎さんより)