🏯🏠楫取素彦(かとり もとひこ)🏠🏯
私が公務員を退職後、第一回「萩ものしり博士検定」の博士試験に合格し、
「萩の語り部」となったのは2012年のことでした。
以後、地元・萩に縁のある人物の生涯や生き方を広く知っていただこうと、
市の語り部講座で観光に来られた方々にお話をする活動をしております。
そんな私が、今とりわけ力を入れて皆様にお話ししているのが、
幕末・明治期に活躍した偉人、 "楫取素彦(かとり もとひこ)" です。
素彦の名を初めて知ったのは2012年6月、「楫取素彦 没後100年顕彰会」の会員による講演会に参加したことがきっかけでした。
素彦は、吉田松陰先生に松下村塾を託されたり、初代群馬県令になったりと、
歴史に大きな足跡を残しましたが、長州藩にはたくさんの有名人がいるからか、
その生涯は一般にあまり知らずれてきませんでした。
しかし、松陰先生にも劣らない実直・誠実な生き方を貫いた素彦の生涯は、今を生きる私たちにも多くのことを教えてくれます。
楫取素彦は、1829年、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に、藩医・松島家の次男(3人兄弟)として生まれました。
当時、家を継ぐ長男以外は他家に出るのが慣わしで、
勉強ができた素彦は、13歳のときに長州藩の藩校である明倫館の儒者・小田村 吉兵の養子となります。
その後、明倫館で学び、19歳のときに養父が亡くなったため家督を相続。
22歳で江戸藩邸に努めますが、この時期、江戸遊学に来た1歳年下の松陰先生と知り合います。
そして、萩に帰郷後の1853年には、とんとん拍子で縁談が進み松陰先生の妹の寿(ひさ)と結婚するのです。
ただ、松陰先生が素彦と寿の仲を取り持ったと言うわけではありません。
2人が結婚した時、松陰先生は江戸遊学中で、萩からの手紙でその慶事を知らされました。
松陰先生は二人の結婚について、
「小田村の三兄弟は皆優秀である。(結婚して)よかった」
などと書き送っています。
素彦は松下村塾の設立に携わるなど、ともすれば過激に走りがちな松陰先生を陰に陽に支えました。
しかし、幕府が朝廷の許可を得ることなく、「日米修好通商条約」を結んだ1858年を境に、
素彦と松陰先生の運命は大きく分かれていきます。
松陰先生は、幕府への批判を強めていき、高じて老中・間部詮勝(まなべかつあき)の暗殺計画を立て、
野山獄に投獄されてしまうのです。
野山獄に送られる前、松陰先生の送別会が開かれました。
その翌日、松陰先生から素彦ほか参加者宛に、
「吾れを送る十三名、決別なんぞ多情なる、松塾当に隆起すべし、村君(素彦)義盟を主どる」
と記された手紙が届きます。
松陰先生は、松下村塾を素彦に託したのです。
また、素彦は身の危険を顧みず松陰先生を助けようと奔走しますが、
そのような素彦について、松陰先生は、入江杉蔵への手紙で次のように述べています。
「小田村(素彦)人となり、正直すぎるに困る、
(中略)、
併し、権謀なき所は、天地に対すべき」
松陰先生は、素彦があまりにも正直で、心中を藩吏に打ち明けすぎると不満を述べる一方、
"権謀" すなわち種々の計略がない点は高く評価しているのです。
しかし、素彦の奔走の甲斐もなく、「安政の大獄」による弾圧を強める幕府は、
松陰先生の身柄を江戸へ送るように命じます。
そして江戸送り直前の1859年5月18日、松陰先生は素彦に、
「至誠にして動かざる者、未だこれ有らざるなり」
という孟子の言葉を贈り、
伝馬獄で処刑される前日の10月26日に書き終えた「留魂録(りゅうこんろく)」の中でも、
同志の名前のうち最初に素彦の名を挙げています。
素彦が松陰先生からどれほど信頼されていたかが伝わってきます。
松陰先生の死後、素彦は藩主の相談役の侍講(じこう)として藩政の中心で活躍。
「禁門の変」など、政局は目まぐるしく変わっていきますが、明治維新後には、早々に新政府から登用されます。
ところが、藩主・毛利敬親(たかちか)が新政府に登用された木戸孝允、広沢真臣、素彦の3人の解任を請うたため、
素彦は40日で新政府を辞任し、帰郷。
結局、3人のうち藩主の思いに応え、辞任したのは素彦だけでした。
1876年には、素彦は群馬県初代県令に抜擢され、
人づくりと新産業育成に取り組み、群馬の発展に力を尽くします。
草鞋(わらじ)履きで握り飯を持ち、群馬県内を視察して歩いたという逸話も残っていますが、
教育事業については、特に「道徳教育」に力を入れ、
「西の岡山、東の群馬」と称されるほどの学力向上を成し遂げました。
素彦の胸中には、かつての松下村塾や明倫館での教育があったのだと思います。
また、養蚕業の育成にも取り組み、
世界遺産に登録された今日の富岡製糸場の基礎をつくったのも素彦の功績です。
妻・寿を亡くした2年後の1883年、その妹・文(久坂玄瑞の未亡人)と再婚。
その後、素彦は元老院議官、貴族院議員などを歴任、
松下村塾の保存などにも尽力し、
1912年、満83歳の生涯を閉じました。
質素倹約を信条とし、最期まで至誠一貫の生涯を歩んだ楫取(かとり)素彦。
私たちは物質的には豊かな生活を送れるようになりましたが、
遠い幕末・明治を生きた素彦の高い精神性、心の豊かさから学ぶことは多いはずです。
そのために、これからも素彦をはじめ萩に縁のある人物の生き方を、1人でも多くの人に語り伝えていきたい。
そして今、人間同士の繋がりが希薄になっているといわれますが、
萩を訪れてくださった方々に自分の肉声で、思いや感動を直接お伝えすることで、
人と人との温もりを感じられる社会をつくる一助にもなれればと願っています。
(「致知7月号」中野悦子さんより)
私が公務員を退職後、第一回「萩ものしり博士検定」の博士試験に合格し、
「萩の語り部」となったのは2012年のことでした。
以後、地元・萩に縁のある人物の生涯や生き方を広く知っていただこうと、
市の語り部講座で観光に来られた方々にお話をする活動をしております。
そんな私が、今とりわけ力を入れて皆様にお話ししているのが、
幕末・明治期に活躍した偉人、 "楫取素彦(かとり もとひこ)" です。
素彦の名を初めて知ったのは2012年6月、「楫取素彦 没後100年顕彰会」の会員による講演会に参加したことがきっかけでした。
素彦は、吉田松陰先生に松下村塾を託されたり、初代群馬県令になったりと、
歴史に大きな足跡を残しましたが、長州藩にはたくさんの有名人がいるからか、
その生涯は一般にあまり知らずれてきませんでした。
しかし、松陰先生にも劣らない実直・誠実な生き方を貫いた素彦の生涯は、今を生きる私たちにも多くのことを教えてくれます。
楫取素彦は、1829年、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に、藩医・松島家の次男(3人兄弟)として生まれました。
当時、家を継ぐ長男以外は他家に出るのが慣わしで、
勉強ができた素彦は、13歳のときに長州藩の藩校である明倫館の儒者・小田村 吉兵の養子となります。
その後、明倫館で学び、19歳のときに養父が亡くなったため家督を相続。
22歳で江戸藩邸に努めますが、この時期、江戸遊学に来た1歳年下の松陰先生と知り合います。
そして、萩に帰郷後の1853年には、とんとん拍子で縁談が進み松陰先生の妹の寿(ひさ)と結婚するのです。
ただ、松陰先生が素彦と寿の仲を取り持ったと言うわけではありません。
2人が結婚した時、松陰先生は江戸遊学中で、萩からの手紙でその慶事を知らされました。
松陰先生は二人の結婚について、
「小田村の三兄弟は皆優秀である。(結婚して)よかった」
などと書き送っています。
素彦は松下村塾の設立に携わるなど、ともすれば過激に走りがちな松陰先生を陰に陽に支えました。
しかし、幕府が朝廷の許可を得ることなく、「日米修好通商条約」を結んだ1858年を境に、
素彦と松陰先生の運命は大きく分かれていきます。
松陰先生は、幕府への批判を強めていき、高じて老中・間部詮勝(まなべかつあき)の暗殺計画を立て、
野山獄に投獄されてしまうのです。
野山獄に送られる前、松陰先生の送別会が開かれました。
その翌日、松陰先生から素彦ほか参加者宛に、
「吾れを送る十三名、決別なんぞ多情なる、松塾当に隆起すべし、村君(素彦)義盟を主どる」
と記された手紙が届きます。
松陰先生は、松下村塾を素彦に託したのです。
また、素彦は身の危険を顧みず松陰先生を助けようと奔走しますが、
そのような素彦について、松陰先生は、入江杉蔵への手紙で次のように述べています。
「小田村(素彦)人となり、正直すぎるに困る、
(中略)、
併し、権謀なき所は、天地に対すべき」
松陰先生は、素彦があまりにも正直で、心中を藩吏に打ち明けすぎると不満を述べる一方、
"権謀" すなわち種々の計略がない点は高く評価しているのです。
しかし、素彦の奔走の甲斐もなく、「安政の大獄」による弾圧を強める幕府は、
松陰先生の身柄を江戸へ送るように命じます。
そして江戸送り直前の1859年5月18日、松陰先生は素彦に、
「至誠にして動かざる者、未だこれ有らざるなり」
という孟子の言葉を贈り、
伝馬獄で処刑される前日の10月26日に書き終えた「留魂録(りゅうこんろく)」の中でも、
同志の名前のうち最初に素彦の名を挙げています。
素彦が松陰先生からどれほど信頼されていたかが伝わってきます。
松陰先生の死後、素彦は藩主の相談役の侍講(じこう)として藩政の中心で活躍。
「禁門の変」など、政局は目まぐるしく変わっていきますが、明治維新後には、早々に新政府から登用されます。
ところが、藩主・毛利敬親(たかちか)が新政府に登用された木戸孝允、広沢真臣、素彦の3人の解任を請うたため、
素彦は40日で新政府を辞任し、帰郷。
結局、3人のうち藩主の思いに応え、辞任したのは素彦だけでした。
1876年には、素彦は群馬県初代県令に抜擢され、
人づくりと新産業育成に取り組み、群馬の発展に力を尽くします。
草鞋(わらじ)履きで握り飯を持ち、群馬県内を視察して歩いたという逸話も残っていますが、
教育事業については、特に「道徳教育」に力を入れ、
「西の岡山、東の群馬」と称されるほどの学力向上を成し遂げました。
素彦の胸中には、かつての松下村塾や明倫館での教育があったのだと思います。
また、養蚕業の育成にも取り組み、
世界遺産に登録された今日の富岡製糸場の基礎をつくったのも素彦の功績です。
妻・寿を亡くした2年後の1883年、その妹・文(久坂玄瑞の未亡人)と再婚。
その後、素彦は元老院議官、貴族院議員などを歴任、
松下村塾の保存などにも尽力し、
1912年、満83歳の生涯を閉じました。
質素倹約を信条とし、最期まで至誠一貫の生涯を歩んだ楫取(かとり)素彦。
私たちは物質的には豊かな生活を送れるようになりましたが、
遠い幕末・明治を生きた素彦の高い精神性、心の豊かさから学ぶことは多いはずです。
そのために、これからも素彦をはじめ萩に縁のある人物の生き方を、1人でも多くの人に語り伝えていきたい。
そして今、人間同士の繋がりが希薄になっているといわれますが、
萩を訪れてくださった方々に自分の肉声で、思いや感動を直接お伝えすることで、
人と人との温もりを感じられる社会をつくる一助にもなれればと願っています。
(「致知7月号」中野悦子さんより)
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