変化の時代③
🔸落合、林野さんが西武百貨店からクレディセゾンへ移られたのはいつでしたか。
🔹林野、昭和57年、39歳の時でした。
営業企画部長として入ったんですが、ただ机は机が置いてあるだけで、
あとは何もない、そんなところへ乗り込んでいきました。
🔸落合、どういう経緯で移籍なさったのですか。
🔹林野、忘れもしない1月2日でした。
当時配属されていた宇都宮の店に、新年会に出席していた同期生から突然電話がかかってきましてね。
常務の竹内が今度クレジットカード会社をつくることになって、お前が来るかどうか聞いていると言うんです。
私はすぐに「行きます」と。
即決が私の信条なものですから(笑)。
クレディセゾンの母体になったのは、緑屋という小売会社なんですが、
経営不振に陥って富士銀行の管理下に入り、その後丸紅、西武百貨店が立て直しに乗り出して、いすれも上手くいきませんでした。
3連続で失敗して、今度はクレジットカード会社にするというわけですから、社員は皆そっぽを向いているわけです。
🔸落合、よくぞ決断なさいましたね。
🔹林野、実は、少し前にアメリカの百貨店を視察して、紙幣なんか出しているお客さんが誰もいないのを見て、
クレジットカードの時代が間違いなく来ると思っていました。
アメリカに行ったら1980年代は百貨店も絶頂期で、どうこれからピークアウトするだろうという予感もあったんです。
それで私は、着任早々皆を集めて、「十年で日本一のカード会社にする」と宣言したんですが、
誰も信じませんでしたね。
「また訳の分からんやつが来た」と。
🔸落合、勝算はあったのですか。
🔹林野、当時、トップのJCBカードの発行枚数が670万枚くらいで、
これに勝てば日本一です。
毎月10万枚ずつ増やせば年に120万枚。
途中で解約する人を計算に入れても10年で1000万枚くらいになるだろうと考えたんです。
私は西武百貨店で堤さんに鍛えられて、スタートプランの立て方などは熟知していましたから、
スタッフを10人くらい連れて行って一気に推し進めようと考えていたんですが、
竹内は「連れてくるな」と。
「組織というものは、平凡な人間を集めて、非凡なことを成し遂げるためにあるんだ」
と言うんです。
仕方ないので、休みの日に家でプランを練ってきて、夜に店の営業が終わってから社員を集め、
出前のラーメンを皆ですすりながらディスカッションを重ねたんです。
幸い、新しいお客様はひと月に10万人ずつ増えていきました。
🔸落合、どのようにして、そこまで急拡大することができたのですか。
🔹林野、落合さんと同じで、イノベーションですよ。
あらかじめカードをつくっておいて、お店で申込書に名前と住所と電話番号を書いていただくだけで、
すぐに使えるようにしました。
その代わり、キャッシングが5万円、ショッピングが10万円という限度額を設けて、リスクを抑えたんです。
当時銀行系カードは、1部上場企業の役職者で、勤続10年以上、持ち家がなければ持てませんでした。
これでは女性は誰も持てない。
しかし我われは小売りをやっていたから、
本当のお客様は女性だということを知っていた。
女性がすぐに入会できるカードにしたことで、ひと月10万枚も発行できたんです。
おかげさまで、20年かかりましたがJCBを抜いて日本一になり、いまは3800万枚発行しています。
本当に使ってくださるお客様に入っていただいているので、会員の質がとてもいいんです。
🔸落合、デパートに買い物に来るお客様はやはりそれ相応の人ですから、その時点でもうお客様を選別できているわけですね。
簡単にカードを発行しても、ほとんど事故は起きないと。
一見大胆なようで、林野さんにはちゃんと目算があったわけですね。
(つづく)
(「致知」2月号 落合寛司さん林野宏さん対談より)
🔸落合、林野さんが西武百貨店からクレディセゾンへ移られたのはいつでしたか。
🔹林野、昭和57年、39歳の時でした。
営業企画部長として入ったんですが、ただ机は机が置いてあるだけで、
あとは何もない、そんなところへ乗り込んでいきました。
🔸落合、どういう経緯で移籍なさったのですか。
🔹林野、忘れもしない1月2日でした。
当時配属されていた宇都宮の店に、新年会に出席していた同期生から突然電話がかかってきましてね。
常務の竹内が今度クレジットカード会社をつくることになって、お前が来るかどうか聞いていると言うんです。
私はすぐに「行きます」と。
即決が私の信条なものですから(笑)。
クレディセゾンの母体になったのは、緑屋という小売会社なんですが、
経営不振に陥って富士銀行の管理下に入り、その後丸紅、西武百貨店が立て直しに乗り出して、いすれも上手くいきませんでした。
3連続で失敗して、今度はクレジットカード会社にするというわけですから、社員は皆そっぽを向いているわけです。
🔸落合、よくぞ決断なさいましたね。
🔹林野、実は、少し前にアメリカの百貨店を視察して、紙幣なんか出しているお客さんが誰もいないのを見て、
クレジットカードの時代が間違いなく来ると思っていました。
アメリカに行ったら1980年代は百貨店も絶頂期で、どうこれからピークアウトするだろうという予感もあったんです。
それで私は、着任早々皆を集めて、「十年で日本一のカード会社にする」と宣言したんですが、
誰も信じませんでしたね。
「また訳の分からんやつが来た」と。
🔸落合、勝算はあったのですか。
🔹林野、当時、トップのJCBカードの発行枚数が670万枚くらいで、
これに勝てば日本一です。
毎月10万枚ずつ増やせば年に120万枚。
途中で解約する人を計算に入れても10年で1000万枚くらいになるだろうと考えたんです。
私は西武百貨店で堤さんに鍛えられて、スタートプランの立て方などは熟知していましたから、
スタッフを10人くらい連れて行って一気に推し進めようと考えていたんですが、
竹内は「連れてくるな」と。
「組織というものは、平凡な人間を集めて、非凡なことを成し遂げるためにあるんだ」
と言うんです。
仕方ないので、休みの日に家でプランを練ってきて、夜に店の営業が終わってから社員を集め、
出前のラーメンを皆ですすりながらディスカッションを重ねたんです。
幸い、新しいお客様はひと月に10万人ずつ増えていきました。
🔸落合、どのようにして、そこまで急拡大することができたのですか。
🔹林野、落合さんと同じで、イノベーションですよ。
あらかじめカードをつくっておいて、お店で申込書に名前と住所と電話番号を書いていただくだけで、
すぐに使えるようにしました。
その代わり、キャッシングが5万円、ショッピングが10万円という限度額を設けて、リスクを抑えたんです。
当時銀行系カードは、1部上場企業の役職者で、勤続10年以上、持ち家がなければ持てませんでした。
これでは女性は誰も持てない。
しかし我われは小売りをやっていたから、
本当のお客様は女性だということを知っていた。
女性がすぐに入会できるカードにしたことで、ひと月10万枚も発行できたんです。
おかげさまで、20年かかりましたがJCBを抜いて日本一になり、いまは3800万枚発行しています。
本当に使ってくださるお客様に入っていただいているので、会員の質がとてもいいんです。
🔸落合、デパートに買い物に来るお客様はやはりそれ相応の人ですから、その時点でもうお客様を選別できているわけですね。
簡単にカードを発行しても、ほとんど事故は起きないと。
一見大胆なようで、林野さんにはちゃんと目算があったわけですね。
(つづく)
(「致知」2月号 落合寛司さん林野宏さん対談より)
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