バレエの世界②
(吉田さんがバレエを始められたきっかけを教えてください)
🔸吉田、幼稚園のお友達のバレエを習っていて、その発表会を見たのが最初ですね。
4、5歳の時だったと思います。
きれいな衣装にお化粧をして、照明が当たる舞台の上で踊っている姿に、
「私もこれをやりたい‼︎」
って強く惹かれるものがありました。
もうそこからずっとバレエ一筋(笑)。
(わずか4、5歳のときの出逢いが吉田さんの人生を決定づけたのですね)
🔸吉田、ええ。幼稚園の時にバレエに出逢って、それを仕事としてずっと続けるってなかなかできないことですから、
本当に運がよかったなと思います。
最初は両親にバレエを習いたいと言っても聞き入れてもらえず、
小学校1年生の時からリトミック(リズム体操)の教室に通っていました。
私がバレエ、バレエとあまりにもうるさいので、
とりあえず近所のリトミック教室に通わせておけば、そのうち忘れるだろう、と思ったらしいんです。
ところが、バレエへの憧れは、ますます大きくなるばかりでした。
やっぱりトウシューズが履きたいとしつこく頼み込み、
9歳の時にようやく念願のバレエ教室に通うことができたんです。
(ご両親も吉田さんの熱意に絆(ほだ)されたと)
🔸吉田、そうでしょうね。
バレエ教室が始まってからは、母が毎日送り迎えをしてくれたり、
合宿やコンクール、プロのバレエ団の公演などに連れて行ってくれたり、
私の意思を尊重し、とことん応援してくれました。
(実際にバレエ教室に通われて、いかがでしたか?)
🔸吉田、最初は週一回1時間の穏やかなお稽古だったんですけれども、
小学校高学年の頃から厳しいお稽古に変わっていきました。
平日は夜遅くまであり、日曜日も7時間くらい踊りました。
ここで先ほどお話しした基礎を徹底的に鍛えられたんです。
できないと先生に鞭のようなもので叩かれるので、
いつもあざだらけでした。
今だったら問題ですよね。
それでも決してやめようとは思いませんでした。
大変になればなるほど燃えてくるとゆうか、
きつければきついほど平気な顔してがんばるところがありましたね。
(小学生とは思えないほどの忍耐強さです)
🔸吉田、とにかくバレエが上手になりたかったんです。
だから、ここを乗り越えればもっと上手に踊れるようになると信じて、お稽古に打ち込んでいましたね。
その努力の甲斐もあって、中学3年の時には、全国バレエコンクールで1位を取ることができました。
(めきめきと実力をつけていかれたのですね)
🔸吉田、ただ、その頃は膝を怪我していて痛みがひどかったり、
バレエ教室の仲間が厳しさのあまりどんどん辞めていったり、
他にもいろんなことが重なって、肉体的にも精神的にも壊れかけていた状態でした。
まるで抜け殻のように全然笑わなくなってしまい、
それでコンクールで1位を取ったことを機に、半年くらいバレエをお休みすることにしたんです。
(ああ、そういう苦しい時期があったんですか)
🔸吉田、でも、そうやってバレエのある生活を離れたことで、
自分にとってどれだけバレエが大切な存在かに気づくことができました。
やっぱり踊りたいという強い気持ちが再び湧いてきたんです。
そのタイミングでバレエ教室の先生が松山バレエ団直属のバレエ学校を紹介してくださったことが1つの転機になりました。
(松山バレエ団といえば、世界的に有名な清水哲太郎さんと森下洋子さんが率いるバレエ団ですね)
🔸吉田、はい。いま考えるとこれは珍しいことです。
日本のバレエ界では教室の先生が自分の生徒を外に出さない傾向があるような気がします。
でも、その先生は私の将来のことを考えて、
地元の小さなバレエ教室よりもバレエ団のついている大きなバレエ学校に移ったほうがいいと
道筋をつくってくださったのだと思います。
(厳しくも愛情あふれる師に恵まれたと)
🔸吉田、それは本当にありがたかったですね。
松山バレエ学校では、同年代の子がたくさんいて嬉しかったですし、
踊っていてすごく楽しかったんですけれども、
やっぱりまだ引きずっていたのか、
「踊っていて楽しくないの?」
「都ちゃん、笑わないわね」
ってしょっちゅう言われていました。
そういう中で、もう一つ転機になったのが、17歳のときに出場したローザンヌ国際バレエコンクールです。
このコンクールは若手バレエダンサーの登竜門と言われているように、
世界に通用するダンサーを育成するために開催されています。
ですから、他のコンクールとは違って、
お稽古の審査から始まり、ソロの踊りの審査へと進んでいくんですね。
そこで世界各国から参加している有望なダンサーたちの姿に刺激を受けたこともあったのでしょう。
決勝の舞台では吹っ切れたような感じで、
本当に心の底から楽しく笑顔で踊ることができ、
結果的にローザンヌ賞をいただくことができたんです。
(本来の踊りを取り戻し、ローザンヌ賞に輝かれたのですね)
🔸吉田、私は賞を狙っていたわけではなく、
勉強になるから参加させていただきますという感覚だったので、
まさか自分が選ばれるとは思ってもみませんでした。
ただ、ローザンヌにいた数日間ですごく自分自身変わることができたと感じています。
入賞者にはスカラシップが与えられ、 世界の名だたるバレースクールに1年間留学できます。
私は世界3大バレエ団の1つ英国ロイヤル・バレエ団の傘下にある
英国ロイヤル・バレエスクールに単身留学することになりました。
1983年、17歳の時です。
(つづく)
(「致知」10月号 バレリーナ吉田都さんより)
(吉田さんがバレエを始められたきっかけを教えてください)
🔸吉田、幼稚園のお友達のバレエを習っていて、その発表会を見たのが最初ですね。
4、5歳の時だったと思います。
きれいな衣装にお化粧をして、照明が当たる舞台の上で踊っている姿に、
「私もこれをやりたい‼︎」
って強く惹かれるものがありました。
もうそこからずっとバレエ一筋(笑)。
(わずか4、5歳のときの出逢いが吉田さんの人生を決定づけたのですね)
🔸吉田、ええ。幼稚園の時にバレエに出逢って、それを仕事としてずっと続けるってなかなかできないことですから、
本当に運がよかったなと思います。
最初は両親にバレエを習いたいと言っても聞き入れてもらえず、
小学校1年生の時からリトミック(リズム体操)の教室に通っていました。
私がバレエ、バレエとあまりにもうるさいので、
とりあえず近所のリトミック教室に通わせておけば、そのうち忘れるだろう、と思ったらしいんです。
ところが、バレエへの憧れは、ますます大きくなるばかりでした。
やっぱりトウシューズが履きたいとしつこく頼み込み、
9歳の時にようやく念願のバレエ教室に通うことができたんです。
(ご両親も吉田さんの熱意に絆(ほだ)されたと)
🔸吉田、そうでしょうね。
バレエ教室が始まってからは、母が毎日送り迎えをしてくれたり、
合宿やコンクール、プロのバレエ団の公演などに連れて行ってくれたり、
私の意思を尊重し、とことん応援してくれました。
(実際にバレエ教室に通われて、いかがでしたか?)
🔸吉田、最初は週一回1時間の穏やかなお稽古だったんですけれども、
小学校高学年の頃から厳しいお稽古に変わっていきました。
平日は夜遅くまであり、日曜日も7時間くらい踊りました。
ここで先ほどお話しした基礎を徹底的に鍛えられたんです。
できないと先生に鞭のようなもので叩かれるので、
いつもあざだらけでした。
今だったら問題ですよね。
それでも決してやめようとは思いませんでした。
大変になればなるほど燃えてくるとゆうか、
きつければきついほど平気な顔してがんばるところがありましたね。
(小学生とは思えないほどの忍耐強さです)
🔸吉田、とにかくバレエが上手になりたかったんです。
だから、ここを乗り越えればもっと上手に踊れるようになると信じて、お稽古に打ち込んでいましたね。
その努力の甲斐もあって、中学3年の時には、全国バレエコンクールで1位を取ることができました。
(めきめきと実力をつけていかれたのですね)
🔸吉田、ただ、その頃は膝を怪我していて痛みがひどかったり、
バレエ教室の仲間が厳しさのあまりどんどん辞めていったり、
他にもいろんなことが重なって、肉体的にも精神的にも壊れかけていた状態でした。
まるで抜け殻のように全然笑わなくなってしまい、
それでコンクールで1位を取ったことを機に、半年くらいバレエをお休みすることにしたんです。
(ああ、そういう苦しい時期があったんですか)
🔸吉田、でも、そうやってバレエのある生活を離れたことで、
自分にとってどれだけバレエが大切な存在かに気づくことができました。
やっぱり踊りたいという強い気持ちが再び湧いてきたんです。
そのタイミングでバレエ教室の先生が松山バレエ団直属のバレエ学校を紹介してくださったことが1つの転機になりました。
(松山バレエ団といえば、世界的に有名な清水哲太郎さんと森下洋子さんが率いるバレエ団ですね)
🔸吉田、はい。いま考えるとこれは珍しいことです。
日本のバレエ界では教室の先生が自分の生徒を外に出さない傾向があるような気がします。
でも、その先生は私の将来のことを考えて、
地元の小さなバレエ教室よりもバレエ団のついている大きなバレエ学校に移ったほうがいいと
道筋をつくってくださったのだと思います。
(厳しくも愛情あふれる師に恵まれたと)
🔸吉田、それは本当にありがたかったですね。
松山バレエ学校では、同年代の子がたくさんいて嬉しかったですし、
踊っていてすごく楽しかったんですけれども、
やっぱりまだ引きずっていたのか、
「踊っていて楽しくないの?」
「都ちゃん、笑わないわね」
ってしょっちゅう言われていました。
そういう中で、もう一つ転機になったのが、17歳のときに出場したローザンヌ国際バレエコンクールです。
このコンクールは若手バレエダンサーの登竜門と言われているように、
世界に通用するダンサーを育成するために開催されています。
ですから、他のコンクールとは違って、
お稽古の審査から始まり、ソロの踊りの審査へと進んでいくんですね。
そこで世界各国から参加している有望なダンサーたちの姿に刺激を受けたこともあったのでしょう。
決勝の舞台では吹っ切れたような感じで、
本当に心の底から楽しく笑顔で踊ることができ、
結果的にローザンヌ賞をいただくことができたんです。
(本来の踊りを取り戻し、ローザンヌ賞に輝かれたのですね)
🔸吉田、私は賞を狙っていたわけではなく、
勉強になるから参加させていただきますという感覚だったので、
まさか自分が選ばれるとは思ってもみませんでした。
ただ、ローザンヌにいた数日間ですごく自分自身変わることができたと感じています。
入賞者にはスカラシップが与えられ、 世界の名だたるバレースクールに1年間留学できます。
私は世界3大バレエ団の1つ英国ロイヤル・バレエ団の傘下にある
英国ロイヤル・バレエスクールに単身留学することになりました。
1983年、17歳の時です。
(つづく)
(「致知」10月号 バレリーナ吉田都さんより)
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