🌸🌸人の承認🍀欲求🌸🌸
僕は昔から「人はどうすれば幸せになれるのか」を考えていました。
なぜ生きて、なぜ死ぬのか。
死ぬのに、なぜ生きている間に大変な思いをしなくてはいけないのか。
そんな疑問を持っていました。
僕自身は両親にも恵まれていましたし、別に不幸な境遇でもありませんでした。
でも何となく、「今を生きている」という充実感がなかったように思います。
20代の時、僕はバックパッカーとして世界を旅しました。
はじめにタイやカンボジアに行きました。
その時の旅があまりにも楽しくて、初めて「生きている」という実感を得られたのです。
日本に帰国してから、またお金を貯め、今度は友達3人でインドへ行くことにしました。
上海までの片道切符だけ買って、後は無計画での旅でした。
上海からラオスという国へと向かっていた時のことです。
ラオスに入ろうとする国境近くで、友達の1人が亡くなってしまったのです。
それは観光客がいないような田舎のことでした。
調子が悪くなった友人を町医者に連れていって点滴をしてもらったのですが、
良くならなかったので近くの大きな病院まで何時間もかけて行きました。
それでも間に合わず、息を引き取りました。
その時、僕は自分がいかに無力かを痛感しました。
本当に何もしてあげることができなかったのです。
そして、
「人って、本当に死ぬんだ。
人って、生きているのが当たり前じゃないんだ」
ということを初めて実感したのです。
その友達はほんとにいい人でした。
少し言葉が悪いですが、僕はその時、
「なんで世の中にはもっと悪い人がたくさんいるのに、
友達が若くしてこの世を去らなくてはいけないのか」
と思ったのです。
そこから僕は
「人はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか」
「どうすれば幸せになれるのか」
といったことを、ずっと考え続けていくことになりました。
それを考えていく中で気づいたのは、
「自分らしく生きる」
ということでした。
それは、都合のいい自分だけを認めるのではなく、
悪い自分も認めるということです。
しかし、この
「悪い自分」「マイナスの自分」
を、私たちは無意識のうちに抑えつけている場合が多いのです。
たとえば、僕は4人兄弟で、姉に次いで2番目に生まれた長男でした。
親も悪気はなかったと思うのですが、
「お兄ちゃんだからできるよね」
と当たり前のように言われてきました。
今でも覚えています。
幼稚園で予防接種があったんです。
その時、必ず先生に
「けんちゃん、先頭に来てくれる?」
と呼ばれるのです。
そしてこう言われます。
「最初の子が泣くと、後ろのみんなが泣いちゃうから。
けんちゃんなら大丈夫だよね」
と。
先生は僕が「1番泣かない子」に見えたのでしょう。
でも内心は全然違いました。
ホントはドキドキして怖かったのです。
でも平気なふりをして泣かずに注射を受けられる子供でした。
僕は「怖いと思う自分」に気づかないように、心の奥のほうに閉じ込めていたんですね。
そもそも、僕たちはいつから「自分らしさ」を失ってしまったのでしょう。
実は、僕たちも純粋に自分らしく生きていた時期がありました。
それは、赤ちゃんの時です。
「こんなに泣いたら、お母さんを困らせるかもしれないから泣き止まないと」
なんて考えたことはなかったはずです。
僕たちは成長する過程で、いろんな思い込みを刷り込まれていきます。
「こうしなきゃいけない」
とか
「こうすることが正しいんだ」
と思うようになっていくのです。
もともとの、まっさらの状態でずっと過ごせたらいいのに、
そんな「思い込み」や「こだわり」で頭の中をいっぱいにして大人になっていくわけですね。
ところが大人になってから、
「注射が怖くて泣いたら嫌われるかもしれない」
とか
「本当の自分を出したら周りの人から評価されないんじゃないか」
というのは「思い込み」だったと気づいていきます。
つまり、わざわざ身につけたその「思い込み」や「こだわり」を、
今度は、手放していく作業をしていくのです。
もし「魂」というものがあるとしたら、
僕は「思い込み」や「こだわり」を手放す過程で、
自分たちの「魂」は成長していくのではないかと考えています。
一度身につけたものを手放すというめんどくさいことをしているのは、
"魂の成長" のためなのではないか、と。
そう考えると、
「なんで僕たちがこの世に誕生して、つらいことを経験しなければいけないのか」
という疑問も、何となく分かりそうな気がするのです。
では、なぜ僕たちは、あるがままの自分を認めることが苦手なのでしょうか?
もちろん自分を認められる人もいますが、
「こんな自分なんて」
と思っている人も少なからずいらっしゃるでしょう。
この「自分を認めて欲しい」ということを「承認欲求」といいます。
私たちは三つ承認欲求があるといわれています。
1つ目が存在そのものを承認してほしい
「Be(存在そのもの)の承認欲求」。
次に行動や行為を認めて欲しい「Do(行動)の承認欲求」。
そして、
結果や成果を認めてほしい
「Have(成果)の承認欲求」
があります。
ただ、僕たちは小さい頃から後者の2つばかりで評価されてきました。
たとえば、お手伝いをシッターから褒められる、
勉強したから褒められる、
これは行動を承認していますよね。
そして、いい大学に入って、いい会社に入って、いい結果を残した、
とか、
社会的地位を得た、というのは「成果の承認」になります。
ところが、肝心の最初の「存在そのものの承認」は認めてもらう機会が少ないので、
なかなか感じられないまま大人になっている人が多いのです。
勉強ができてもできなくても、
健康であっても病気であっても、
「私」という人間そのものの存在価値が変わるわけではありません。
「あなたは、どんなあなたでも素晴らしいんだよ」
「どんなあなたでも、生きている価値があるんだよ」
と、存在そのものを承認することが、本当は大事なのです。
(「みやざき中央新聞」心理カウンセラー・心理療法家、則武さんより)
僕は昔から「人はどうすれば幸せになれるのか」を考えていました。
なぜ生きて、なぜ死ぬのか。
死ぬのに、なぜ生きている間に大変な思いをしなくてはいけないのか。
そんな疑問を持っていました。
僕自身は両親にも恵まれていましたし、別に不幸な境遇でもありませんでした。
でも何となく、「今を生きている」という充実感がなかったように思います。
20代の時、僕はバックパッカーとして世界を旅しました。
はじめにタイやカンボジアに行きました。
その時の旅があまりにも楽しくて、初めて「生きている」という実感を得られたのです。
日本に帰国してから、またお金を貯め、今度は友達3人でインドへ行くことにしました。
上海までの片道切符だけ買って、後は無計画での旅でした。
上海からラオスという国へと向かっていた時のことです。
ラオスに入ろうとする国境近くで、友達の1人が亡くなってしまったのです。
それは観光客がいないような田舎のことでした。
調子が悪くなった友人を町医者に連れていって点滴をしてもらったのですが、
良くならなかったので近くの大きな病院まで何時間もかけて行きました。
それでも間に合わず、息を引き取りました。
その時、僕は自分がいかに無力かを痛感しました。
本当に何もしてあげることができなかったのです。
そして、
「人って、本当に死ぬんだ。
人って、生きているのが当たり前じゃないんだ」
ということを初めて実感したのです。
その友達はほんとにいい人でした。
少し言葉が悪いですが、僕はその時、
「なんで世の中にはもっと悪い人がたくさんいるのに、
友達が若くしてこの世を去らなくてはいけないのか」
と思ったのです。
そこから僕は
「人はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか」
「どうすれば幸せになれるのか」
といったことを、ずっと考え続けていくことになりました。
それを考えていく中で気づいたのは、
「自分らしく生きる」
ということでした。
それは、都合のいい自分だけを認めるのではなく、
悪い自分も認めるということです。
しかし、この
「悪い自分」「マイナスの自分」
を、私たちは無意識のうちに抑えつけている場合が多いのです。
たとえば、僕は4人兄弟で、姉に次いで2番目に生まれた長男でした。
親も悪気はなかったと思うのですが、
「お兄ちゃんだからできるよね」
と当たり前のように言われてきました。
今でも覚えています。
幼稚園で予防接種があったんです。
その時、必ず先生に
「けんちゃん、先頭に来てくれる?」
と呼ばれるのです。
そしてこう言われます。
「最初の子が泣くと、後ろのみんなが泣いちゃうから。
けんちゃんなら大丈夫だよね」
と。
先生は僕が「1番泣かない子」に見えたのでしょう。
でも内心は全然違いました。
ホントはドキドキして怖かったのです。
でも平気なふりをして泣かずに注射を受けられる子供でした。
僕は「怖いと思う自分」に気づかないように、心の奥のほうに閉じ込めていたんですね。
そもそも、僕たちはいつから「自分らしさ」を失ってしまったのでしょう。
実は、僕たちも純粋に自分らしく生きていた時期がありました。
それは、赤ちゃんの時です。
「こんなに泣いたら、お母さんを困らせるかもしれないから泣き止まないと」
なんて考えたことはなかったはずです。
僕たちは成長する過程で、いろんな思い込みを刷り込まれていきます。
「こうしなきゃいけない」
とか
「こうすることが正しいんだ」
と思うようになっていくのです。
もともとの、まっさらの状態でずっと過ごせたらいいのに、
そんな「思い込み」や「こだわり」で頭の中をいっぱいにして大人になっていくわけですね。
ところが大人になってから、
「注射が怖くて泣いたら嫌われるかもしれない」
とか
「本当の自分を出したら周りの人から評価されないんじゃないか」
というのは「思い込み」だったと気づいていきます。
つまり、わざわざ身につけたその「思い込み」や「こだわり」を、
今度は、手放していく作業をしていくのです。
もし「魂」というものがあるとしたら、
僕は「思い込み」や「こだわり」を手放す過程で、
自分たちの「魂」は成長していくのではないかと考えています。
一度身につけたものを手放すというめんどくさいことをしているのは、
"魂の成長" のためなのではないか、と。
そう考えると、
「なんで僕たちがこの世に誕生して、つらいことを経験しなければいけないのか」
という疑問も、何となく分かりそうな気がするのです。
では、なぜ僕たちは、あるがままの自分を認めることが苦手なのでしょうか?
もちろん自分を認められる人もいますが、
「こんな自分なんて」
と思っている人も少なからずいらっしゃるでしょう。
この「自分を認めて欲しい」ということを「承認欲求」といいます。
私たちは三つ承認欲求があるといわれています。
1つ目が存在そのものを承認してほしい
「Be(存在そのもの)の承認欲求」。
次に行動や行為を認めて欲しい「Do(行動)の承認欲求」。
そして、
結果や成果を認めてほしい
「Have(成果)の承認欲求」
があります。
ただ、僕たちは小さい頃から後者の2つばかりで評価されてきました。
たとえば、お手伝いをシッターから褒められる、
勉強したから褒められる、
これは行動を承認していますよね。
そして、いい大学に入って、いい会社に入って、いい結果を残した、
とか、
社会的地位を得た、というのは「成果の承認」になります。
ところが、肝心の最初の「存在そのものの承認」は認めてもらう機会が少ないので、
なかなか感じられないまま大人になっている人が多いのです。
勉強ができてもできなくても、
健康であっても病気であっても、
「私」という人間そのものの存在価値が変わるわけではありません。
「あなたは、どんなあなたでも素晴らしいんだよ」
「どんなあなたでも、生きている価値があるんだよ」
と、存在そのものを承認することが、本当は大事なのです。
(「みやざき中央新聞」心理カウンセラー・心理療法家、則武さんより)
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