💓💓一途な心💓💓
(梅木さんは東京都日野市で長年開業医をされていて、90歳になられたのを機に、神戸に越してこられたそうですね)
ここに移ってきてもう7年も経っちゃった。
その時は、故郷に戻ってきて、すぐにお迎えが来るかと思っていたけど、とんでもない。
きょう死ぬか、明日死ぬかって思っていても、なかなか、死ねない(笑)。
東京を引き払ってこっちに来たのはね、
患者さんたちが年老いた私のことを心配するようになったから。
「もし、先生が倒れたら面倒を見るし、おしめも替えます。
私がダメだったら、子供にやらせます」
って言うの。
(そこまで地元の方々に愛されていたのですね)
50年も開業医をやっていたら、みんな親戚みたいになっちゃうのよ。
だって、親子3代で患者さんを診てきたんだから。
それにいじめに遭った中学生を慰めたり、離婚を考えている女性の相談に乗ったりと、
駆け込み寺みたいだった(笑)。
でも、私が歳をとってみんなに心配してもらうことが、だんだん重荷になってきた。
そこで、こっちなら知った人は誰もいないから移ってきたんだけど、
まだ元気だったものだから、地元の医院で臨時医師として勤めていたの。
でも、それも去年でおしまい。
もうこれ以上やったら老害になってしまう。
(まだまだお元気そうですが)
仕事場で倒れるのも名誉なことをかもしれないけど、
もし本当に倒れちゃったら、患者さんがびっくりしちゃう(笑)。
さすがに97にもなって年相応に体は弱ってきたけど、
おかげさまで特に痛いところや苦しいところもないので、
これ以上何を望みましょうか。
欲しいものなんて、なーんにもない。
『旧約聖書』の「伝道の書」9章10節には、
「全て汝の手に堪(たえ)うることは、力を尽くしてこれをなせ」
と書いてある。
だから日常生活を自立してやること、
社会へ迷惑を掛けないこと、
これがせめてもの私の生き甲斐ですね。
(医療現場に長年身を置かれて、何か感じることはありましたか)
今のお医者さんはダメね。
だって患者さんの顔を見ないもん。
パソコンの画面しか見てなくて、データのことばかり。
本来なら患者さんが診察室に入ってくる時の歩き方とか、
顔色、喋り方で80%は診断がつくんですよ。
あぁ、この人はここが悪いんだなって。
もちろん、そうなるには勉強が必要ね。
医者っていうのは、毎日毎日が勉強だもん。
患者さん一人ひとりがマテリアルであって、医者は患者さんの勉強させてもらっているんです。
それに病気が治れば、患者さんに感謝してもらえるし、
おまけにお金までいただける。
こんなありがたい職業は、他にないですよ。
以前、いま言ったようなことを何かに書いていたら、
現役の若いお医者さんが手紙をくれたんです。
その方は医者という職業に、ほとほと困り果てていたようなんだけど、私の文章を読んで目が覚めたって。
これからはよい医者になりますと書いてありました。
(それは嬉しいお便りですね)
そうね。私はずっとそう思ってやってきたし、本当に素晴らしいお仕事。
だから神様からいただいたお仕事だと思わなきゃいけないですね。
(梅木さんは若い頃から医者になろうと思われていたのですか?)
小さい頃は日本赤十字の看護婦さんになりたかったの。
だから高等女学校を卒業してすぐに姫路にある日赤へまっしぐら。
ところが応募者がものすごい数だったものだから、
門前にずらっと並ばされてね。
婦長さんに向かって順番に両手を差し出すんだけど、
私はそこではねられちゃった。
(何が悪かったのですか)
霜焼けで両手が少しふっくらしていただけなんだけど、それだけでダメ。
私の小さな手をポンと叩いて、「はき、外へ」って。
身体検査場にも入れてもらえなかった。
とにかく健康な人しか取らないかったんですよ。
その時は本当に悔しくてね。
医者になってからも日赤が恋しくて、もし採用されていたら、
いま頃は総婦長になって青臭い医者を叱り飛ばしていただろうに、なんて思ったりしてきました(笑)。
(医者になろうとされたきっかけは何だったのでしょうか?)
それは私が恋をしたからね。
あれは昭和13年の夏のことで、長兄の妻の弟、梅木靖之さんと初めて出会ったの。
私は一目で彼を愛してしまい、彼もまた私に好意を持ってくれたんです。
すぐに文通が始まったんだけど、
彼は厳しいと評判の神戸高等商船学校に入学したばかり。
おっかない上級生の目が光っているものだから、
手紙は簡素にして、誰に読まれてもいいような文面でした。
でも、それでも嬉しかった。
男女七歳にして席を同じゅうせず、が当たり前だった時代でしょう。
しかも会えることは滅多になかったので、
貴重な逢瀬(おうせ)は六甲山の山中や
垂水の海沿いの小道をひたすら歩いて、疲れると馬酔木(あせび)の木陰や空木(うつぎ)の下に並んで座って、
家族や家のことなどを語り合っていました。
私たちは
「強く明るく正しく」
をモットーとして、お金持ちでなくてもいいから、
楽しくて笑いの絶えない家庭をつくろうと誓い合っていたんですよ。
(あぁ、すでに結婚も考えられていたのですね)
彼が学校を卒業したと同時に結婚しようという話もしていたので、
私は茶の湯、生け花、琴に裁縫と、自分を高めることに毎日夢中でした。
ところが、私たちの望みとは裏腹に支那事変から日中戦争へと発展していく時局だったことから、
学校卒業が短縮され、すぐに船の実習生として横浜へと飛び立ってしまったんです。
そして昭和16年12月8日にアメリカとの開戦があった翌年には、彼にも召集令状が届きました。
(それではすぐに結婚というわけにはいかなくなったと)
当時、彼からはこんな手紙が届きました。
「小生の希望、父の意志を語り合った結果、
父は結婚に賛成し、入籍も希望とあれば何時にても入籍してくれるとの事でした。
(中略)
日本の軍人として立派に御奉公して、
武運あれば、生きてお目にかかれましょうが、
還り来ぬ身として征く小生の唯一の贈り物です」
(唯一の贈り物?)
実は私も最後の言葉の意味がわからなくて、
ようやく理解できたのは、彼が昭和18年10月22日に戦死してからでした。
あの時は、本当に泣き死にするくらい泣きましたけど、
その後に佐世保で行われた海軍葬のの時のことです。
いろいろとお話があった中に
「軍人の遺族には医学進学の特典がある」
というひと言があって、ハッとしました。
そうかと。
靖之さんは軍遺族に関する国の配慮を知っていたんですよ。
だから出征前に入籍、入籍とせがまれたのだと思いました。
(もしもの時のことを、靖之さんは考えておられたのですね)
ええ。私はこんなにも深く愛されていたのかと。
これ以上の幸せ者があるだろうかと、思いました。
残念ながら父に再三反対されたために、彼の生前に入籍することはできませんでしたが、
戦死してもなお彼を慕い続ける私を見て、
遂に父も断念したんでしょう。
結婚を許してくれました。
昭和19年1月29日に日田区裁判所で結婚確認の裁判が行われ、
彼からの手紙や海軍省に出されていた結婚許可願などが証拠となって翌日には受理されました。
(では、晴れて靖之さんと結婚することができたわけですね)
ええ。誰1人声も立てない静かな式でしたけど、
私は白無垢姿で靖之さんの遺影とともに式を挙げました。
そして、決心したんです。
軍医になろうと。
まだまだ戦争は続くだろうから、軍医になれば私も戦争にゆける。
そして軍人の妻として運よく戦死できれば、靖之さんと一緒に靖国神社にいけるかもしれない。
それが私にとって最高の望みでした。
だから力いっぱい努力して医者になり、お国のために尽くそうと。
ただ、戦局はいよいよ切迫し、本土への本格的な空襲は目前に迫っていました。
それでも私は軍人の妻としての誇りをもって、
どんな時でも勉強だけは続けようと努力を惜しみませんでした。
そして昭和20年1月31日、東京女子医科専門学校(以下、女子医専)に合格したんですよ。
(軍医への道が開けたと)
ところが、その後は東京大空襲をはじめ連日の空襲で東京は一面の焼け野が原。
とても勉強できるような状況ではありませんでした。
それどころか、その年の7月には山梨県豊村への疎開が決まり、
8月15日の終戦を迎えると、
もう自分がどうすればよいのか分からなくなってしまったんです。
この時ほど、死を願ったことはありませんでしたけど、
弱り果てた末、亡き夫の生家がある大分県玖珠町へと向かいました。
それからしばらくの間は、慟哭と絶望の毎日で、
私は、まさに生ける屍(しかばね)でした。
ただ1つの慰めは、
毎夜のように夢に現れて、
励ましてくれる靖之さんでしたね。
「僕たちは一つなんだから、元気になってほしい。
僕を覚えていてほしい。
君が思い出してくれる限り、
僕は生きているんだよ」
って。
夢の中でも号泣し、自分の泣き声で目が覚める日が続きましたが、
翌月になると思いがけず学校再開の通知が届いたんです。
(医者への道はまだ閉ざされたわけではなかった)
でも、軍医の道は当然のこと、靖国への道も完全に閉ざされてしまったわけでしょう。
目標のない勉強を続けて、何の意味があるのだろうかと随分悩みました。
そうしたら、義兄が私にこう言ってくれたんです。
「義父の言葉を思い出しなさい。
靖之の敷いてくれた道をゆくんだ。
それが妻としての取るべき道だ」
って。
(お義父さんも梅木さんのことを応援してくれていたのですね)
義父は靖之さんが亡くなる六ヶ月前に胃がんで亡くなったのですが、
まるで遺言のように言葉を残してくださったんです。
「この戦局だ。いつ結婚できるか分らないよ。
今度上陸の機があったら、2人だけで結婚するんだね。
そして、靖之に、もしものことがあったら信子さん、
医者になって奉公するんだなぁ」
と。
女子医専を卒業した後、インターを経て、医師国家試験をパスしたのは昭和26年3月。
そして博士号を取得したのを機に、東京都日野市に開業医として内科・小児科医院を開設したのが昭和35年のことでした。
おかげさまで医者として60有余年やってきましたが、
困難にぶつかったこともなく、
身の丈に合った環境で常に充足した毎日を送ることができました。
誰に媚びることなく、諂(へつら)うことなく、
良心の命ずるままに仕事をできたことに、
私は誇りを持っています。
(再婚をしようと思われたことはなかったですか?)
私も他の多くの戦争未亡人のように再婚の道がなかったわけじゃないの。
でも、私には亡き夫を裏切るようなことはできなかった。
それに女子医専の面接試験をしてくださった創立者の吉岡弥生先生に、
「再婚はしませんね?」
と聞かれた際に、私は
「絶対にしません」
とお返事したんですよ。
(自ら立てられた誓いを守りとおされたと)
私と同じように、英霊と結婚した人は他にもいたと思います。
あの頃の愛は神聖で真摯そのもので、
自分を捨ててでも相手のことを思いやるのが当たり前でした。
でもね、紆余曲折が世の習いいでしょう。
誠を貫きとおせた人は多くないと思うんですよ。
その中にあって、
私は彼への愛を貫きとおすことができた幸せな人間だったと
心底思うんです。
「愛するということは、自分の愛する相手の生を生きることである」
これはロシアの小説家トルストイの言葉ですけどら
愛する人を与えられ、その人の亡き後もその愛に守られた私の生涯に何一つ悔いはありません。
(靖之さんもまた信子さんと結ばれて、本当に幸せでしたね)
以前、彼が手紙の中で、こんな歌を書いてくれたことがありました。
仇討ちて 還ると思ふな 敷島の 我が家に咲きし なでしこの花 靖之
そしてこれが私の返歌。
なでしこの 花よと我を 呼びし君
海中にひとり 淋しからずや 信子
一人残された私は、なでしこを自分の花と決めて、長い間絶やすことなく育て続けてきました。
私たち2人にとって、なでしこの花は、生命の象徴でもあるんですよ。
(おしまい)
(「致知」6月号 97歳医師 梅木信子さんより)
これ、二回読むと、涙が溢れます。
(梅木さんは東京都日野市で長年開業医をされていて、90歳になられたのを機に、神戸に越してこられたそうですね)
ここに移ってきてもう7年も経っちゃった。
その時は、故郷に戻ってきて、すぐにお迎えが来るかと思っていたけど、とんでもない。
きょう死ぬか、明日死ぬかって思っていても、なかなか、死ねない(笑)。
東京を引き払ってこっちに来たのはね、
患者さんたちが年老いた私のことを心配するようになったから。
「もし、先生が倒れたら面倒を見るし、おしめも替えます。
私がダメだったら、子供にやらせます」
って言うの。
(そこまで地元の方々に愛されていたのですね)
50年も開業医をやっていたら、みんな親戚みたいになっちゃうのよ。
だって、親子3代で患者さんを診てきたんだから。
それにいじめに遭った中学生を慰めたり、離婚を考えている女性の相談に乗ったりと、
駆け込み寺みたいだった(笑)。
でも、私が歳をとってみんなに心配してもらうことが、だんだん重荷になってきた。
そこで、こっちなら知った人は誰もいないから移ってきたんだけど、
まだ元気だったものだから、地元の医院で臨時医師として勤めていたの。
でも、それも去年でおしまい。
もうこれ以上やったら老害になってしまう。
(まだまだお元気そうですが)
仕事場で倒れるのも名誉なことをかもしれないけど、
もし本当に倒れちゃったら、患者さんがびっくりしちゃう(笑)。
さすがに97にもなって年相応に体は弱ってきたけど、
おかげさまで特に痛いところや苦しいところもないので、
これ以上何を望みましょうか。
欲しいものなんて、なーんにもない。
『旧約聖書』の「伝道の書」9章10節には、
「全て汝の手に堪(たえ)うることは、力を尽くしてこれをなせ」
と書いてある。
だから日常生活を自立してやること、
社会へ迷惑を掛けないこと、
これがせめてもの私の生き甲斐ですね。
(医療現場に長年身を置かれて、何か感じることはありましたか)
今のお医者さんはダメね。
だって患者さんの顔を見ないもん。
パソコンの画面しか見てなくて、データのことばかり。
本来なら患者さんが診察室に入ってくる時の歩き方とか、
顔色、喋り方で80%は診断がつくんですよ。
あぁ、この人はここが悪いんだなって。
もちろん、そうなるには勉強が必要ね。
医者っていうのは、毎日毎日が勉強だもん。
患者さん一人ひとりがマテリアルであって、医者は患者さんの勉強させてもらっているんです。
それに病気が治れば、患者さんに感謝してもらえるし、
おまけにお金までいただける。
こんなありがたい職業は、他にないですよ。
以前、いま言ったようなことを何かに書いていたら、
現役の若いお医者さんが手紙をくれたんです。
その方は医者という職業に、ほとほと困り果てていたようなんだけど、私の文章を読んで目が覚めたって。
これからはよい医者になりますと書いてありました。
(それは嬉しいお便りですね)
そうね。私はずっとそう思ってやってきたし、本当に素晴らしいお仕事。
だから神様からいただいたお仕事だと思わなきゃいけないですね。
(梅木さんは若い頃から医者になろうと思われていたのですか?)
小さい頃は日本赤十字の看護婦さんになりたかったの。
だから高等女学校を卒業してすぐに姫路にある日赤へまっしぐら。
ところが応募者がものすごい数だったものだから、
門前にずらっと並ばされてね。
婦長さんに向かって順番に両手を差し出すんだけど、
私はそこではねられちゃった。
(何が悪かったのですか)
霜焼けで両手が少しふっくらしていただけなんだけど、それだけでダメ。
私の小さな手をポンと叩いて、「はき、外へ」って。
身体検査場にも入れてもらえなかった。
とにかく健康な人しか取らないかったんですよ。
その時は本当に悔しくてね。
医者になってからも日赤が恋しくて、もし採用されていたら、
いま頃は総婦長になって青臭い医者を叱り飛ばしていただろうに、なんて思ったりしてきました(笑)。
(医者になろうとされたきっかけは何だったのでしょうか?)
それは私が恋をしたからね。
あれは昭和13年の夏のことで、長兄の妻の弟、梅木靖之さんと初めて出会ったの。
私は一目で彼を愛してしまい、彼もまた私に好意を持ってくれたんです。
すぐに文通が始まったんだけど、
彼は厳しいと評判の神戸高等商船学校に入学したばかり。
おっかない上級生の目が光っているものだから、
手紙は簡素にして、誰に読まれてもいいような文面でした。
でも、それでも嬉しかった。
男女七歳にして席を同じゅうせず、が当たり前だった時代でしょう。
しかも会えることは滅多になかったので、
貴重な逢瀬(おうせ)は六甲山の山中や
垂水の海沿いの小道をひたすら歩いて、疲れると馬酔木(あせび)の木陰や空木(うつぎ)の下に並んで座って、
家族や家のことなどを語り合っていました。
私たちは
「強く明るく正しく」
をモットーとして、お金持ちでなくてもいいから、
楽しくて笑いの絶えない家庭をつくろうと誓い合っていたんですよ。
(あぁ、すでに結婚も考えられていたのですね)
彼が学校を卒業したと同時に結婚しようという話もしていたので、
私は茶の湯、生け花、琴に裁縫と、自分を高めることに毎日夢中でした。
ところが、私たちの望みとは裏腹に支那事変から日中戦争へと発展していく時局だったことから、
学校卒業が短縮され、すぐに船の実習生として横浜へと飛び立ってしまったんです。
そして昭和16年12月8日にアメリカとの開戦があった翌年には、彼にも召集令状が届きました。
(それではすぐに結婚というわけにはいかなくなったと)
当時、彼からはこんな手紙が届きました。
「小生の希望、父の意志を語り合った結果、
父は結婚に賛成し、入籍も希望とあれば何時にても入籍してくれるとの事でした。
(中略)
日本の軍人として立派に御奉公して、
武運あれば、生きてお目にかかれましょうが、
還り来ぬ身として征く小生の唯一の贈り物です」
(唯一の贈り物?)
実は私も最後の言葉の意味がわからなくて、
ようやく理解できたのは、彼が昭和18年10月22日に戦死してからでした。
あの時は、本当に泣き死にするくらい泣きましたけど、
その後に佐世保で行われた海軍葬のの時のことです。
いろいろとお話があった中に
「軍人の遺族には医学進学の特典がある」
というひと言があって、ハッとしました。
そうかと。
靖之さんは軍遺族に関する国の配慮を知っていたんですよ。
だから出征前に入籍、入籍とせがまれたのだと思いました。
(もしもの時のことを、靖之さんは考えておられたのですね)
ええ。私はこんなにも深く愛されていたのかと。
これ以上の幸せ者があるだろうかと、思いました。
残念ながら父に再三反対されたために、彼の生前に入籍することはできませんでしたが、
戦死してもなお彼を慕い続ける私を見て、
遂に父も断念したんでしょう。
結婚を許してくれました。
昭和19年1月29日に日田区裁判所で結婚確認の裁判が行われ、
彼からの手紙や海軍省に出されていた結婚許可願などが証拠となって翌日には受理されました。
(では、晴れて靖之さんと結婚することができたわけですね)
ええ。誰1人声も立てない静かな式でしたけど、
私は白無垢姿で靖之さんの遺影とともに式を挙げました。
そして、決心したんです。
軍医になろうと。
まだまだ戦争は続くだろうから、軍医になれば私も戦争にゆける。
そして軍人の妻として運よく戦死できれば、靖之さんと一緒に靖国神社にいけるかもしれない。
それが私にとって最高の望みでした。
だから力いっぱい努力して医者になり、お国のために尽くそうと。
ただ、戦局はいよいよ切迫し、本土への本格的な空襲は目前に迫っていました。
それでも私は軍人の妻としての誇りをもって、
どんな時でも勉強だけは続けようと努力を惜しみませんでした。
そして昭和20年1月31日、東京女子医科専門学校(以下、女子医専)に合格したんですよ。
(軍医への道が開けたと)
ところが、その後は東京大空襲をはじめ連日の空襲で東京は一面の焼け野が原。
とても勉強できるような状況ではありませんでした。
それどころか、その年の7月には山梨県豊村への疎開が決まり、
8月15日の終戦を迎えると、
もう自分がどうすればよいのか分からなくなってしまったんです。
この時ほど、死を願ったことはありませんでしたけど、
弱り果てた末、亡き夫の生家がある大分県玖珠町へと向かいました。
それからしばらくの間は、慟哭と絶望の毎日で、
私は、まさに生ける屍(しかばね)でした。
ただ1つの慰めは、
毎夜のように夢に現れて、
励ましてくれる靖之さんでしたね。
「僕たちは一つなんだから、元気になってほしい。
僕を覚えていてほしい。
君が思い出してくれる限り、
僕は生きているんだよ」
って。
夢の中でも号泣し、自分の泣き声で目が覚める日が続きましたが、
翌月になると思いがけず学校再開の通知が届いたんです。
(医者への道はまだ閉ざされたわけではなかった)
でも、軍医の道は当然のこと、靖国への道も完全に閉ざされてしまったわけでしょう。
目標のない勉強を続けて、何の意味があるのだろうかと随分悩みました。
そうしたら、義兄が私にこう言ってくれたんです。
「義父の言葉を思い出しなさい。
靖之の敷いてくれた道をゆくんだ。
それが妻としての取るべき道だ」
って。
(お義父さんも梅木さんのことを応援してくれていたのですね)
義父は靖之さんが亡くなる六ヶ月前に胃がんで亡くなったのですが、
まるで遺言のように言葉を残してくださったんです。
「この戦局だ。いつ結婚できるか分らないよ。
今度上陸の機があったら、2人だけで結婚するんだね。
そして、靖之に、もしものことがあったら信子さん、
医者になって奉公するんだなぁ」
と。
女子医専を卒業した後、インターを経て、医師国家試験をパスしたのは昭和26年3月。
そして博士号を取得したのを機に、東京都日野市に開業医として内科・小児科医院を開設したのが昭和35年のことでした。
おかげさまで医者として60有余年やってきましたが、
困難にぶつかったこともなく、
身の丈に合った環境で常に充足した毎日を送ることができました。
誰に媚びることなく、諂(へつら)うことなく、
良心の命ずるままに仕事をできたことに、
私は誇りを持っています。
(再婚をしようと思われたことはなかったですか?)
私も他の多くの戦争未亡人のように再婚の道がなかったわけじゃないの。
でも、私には亡き夫を裏切るようなことはできなかった。
それに女子医専の面接試験をしてくださった創立者の吉岡弥生先生に、
「再婚はしませんね?」
と聞かれた際に、私は
「絶対にしません」
とお返事したんですよ。
(自ら立てられた誓いを守りとおされたと)
私と同じように、英霊と結婚した人は他にもいたと思います。
あの頃の愛は神聖で真摯そのもので、
自分を捨ててでも相手のことを思いやるのが当たり前でした。
でもね、紆余曲折が世の習いいでしょう。
誠を貫きとおせた人は多くないと思うんですよ。
その中にあって、
私は彼への愛を貫きとおすことができた幸せな人間だったと
心底思うんです。
「愛するということは、自分の愛する相手の生を生きることである」
これはロシアの小説家トルストイの言葉ですけどら
愛する人を与えられ、その人の亡き後もその愛に守られた私の生涯に何一つ悔いはありません。
(靖之さんもまた信子さんと結ばれて、本当に幸せでしたね)
以前、彼が手紙の中で、こんな歌を書いてくれたことがありました。
仇討ちて 還ると思ふな 敷島の 我が家に咲きし なでしこの花 靖之
そしてこれが私の返歌。
なでしこの 花よと我を 呼びし君
海中にひとり 淋しからずや 信子
一人残された私は、なでしこを自分の花と決めて、長い間絶やすことなく育て続けてきました。
私たち2人にとって、なでしこの花は、生命の象徴でもあるんですよ。
(おしまい)
(「致知」6月号 97歳医師 梅木信子さんより)
これ、二回読むと、涙が溢れます。
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