③まさかのバトンタッチ
🔹伊藤、諏訪さんはどのようないきさつだったんですか。
🔸諏訪、そもそも私は兄の代わりとして生まれたんです。
兄は白血病を患い、私が生まれる2年前にわずか6歳で亡くなりました。
兄の治療費を稼ぐために、父は親族から人と機械を譲り受けて会社を創業した経緯があり、
次に生まれてくる子供に会社を継がせたいと思っていたんです。
なので、私は男の子みたいに育てられたんですけど、
父からは会社を手伝ってくれとも継いでくれとも一度も言われたことがなく、
私もそれを聞くことで現実になってしまうのが怖くて、
何も聞かずにやり過ごしていました。
ただ、心の中では兄だったらこうするだろうなという思いがいつもあって、
服飾関係の大学に行きたい気持ちもあったんですけど、
父から言われたとおり工学部への進学を選択したんです。
🔹伊藤、生まれながらにして後継者としての使命をお持ちだった。
🔸諏訪、大学卒業後は、父の会社のお取引先様である大手自動車に入社しました。
父からは役員秘書だって言われていたんですけど、
実際は女性初のエンジニア採用で(笑)、
2年間工場の中で修業させていただきました。
同じエンジニアと結婚し、子供を産んだので退社したんですけど、
父から
「会社が大変だから手伝ってくれ」
と言われ、ダイヤ精機に総務として入社しました。
1998年、26歳の時です。
バブル崩壊後、赤字が続いていて、どう見ても仕事量に対して社員が多い。
父にリストラを提案したところ、
「それならお前が辞めろ」と。
半年でクビになり、その後再び会社に戻ったものの、
同じやりとりがあって、
今度は3ヶ月でクビになりました(笑)。
そんな中、私の息子が兄にそっくりだったので、父は
「80歳まで生きて孫に会社を継がせる」
と宣言したんです。
私も女性らしい仕事がしたいと思っていたので、
安心して専門学校に通い直して結婚披露宴の司会をやったり、
パート勤めをしながら、主婦業を謳歌していました。
ところが、2003年に父が肺がんになりまして、
5年生存率は80%ときわれていたにもかかわらず、
半年後に緊急入院したら、
もう4日しかないという話で、…。
亡くなった時は事業継承の準備も全くしていなかった状態でした。
🔹伊藤、突然のことだったんですね。
🔸諏訪、だからほんとに、
「通帳や印鑑はどこにあるの?」
「暗証番号を教えて」
というやりやり取りで最後を迎えてしまって、
次の日にいきなり銀行さんから
「誰が社長やるんですか」
って話があったんです。
まずやはり主人に白羽の矢が立って、
でも主人には後悔しない道に進んでもらいたかったので、
私からお願いすることはしませんでした。
その時ちょうど主人にはアメリカ転勤の話があったため、そちらを選択してもらったんです。
で、社員さんから社長に就任してほしいと懇願されまして。
🔹伊藤、それで引き受ける決断をされたものは何でしたか。
🔸諏訪、周囲の人に相談しましたが、私の場合、イエスともノーとも言ってくれなかったんですよ。
でも、それは今考えるとすごくありがたくて、
それまで自分でちゃんと決断して人生の道を決めるという経験がありませんでした。
ここは自分で決断しなきゃいけない場面だし、
自分が社長をやると宣言した時点で、
この道はワンウェイ、引き返すことのできない道だと。
社員さんみたいに明日辞めますということは絶対にできないですし、
社員さんたちをずっと守らなきゃいけない。
借り入れも背負わなければならないし、連帯保証もしなきゃいけない。
私にそんなことできるのだろうかって思うと怖かったんですけど、
ある女性弁護士さんが
「やってダメだったら自己破産すればいいだけだから」
と言われて、確かにそうだなと。
命まで取られることはないし、前に進むしかないという覚悟が定まりました。
ただ、社長に就任した2004年当時は本当に何をすればいいのか分らなかったので、
最初にインターネットで「社長の仕事とは」って検索したことを今でも覚えています。
🔹伊藤、なんて書いてありましたか?
🔸諏訪、しっくりくるものがなかったんですよ(笑)。
だったら、もう社長じゃなくていいやと。
エンジニアとしての経験を生かして社員さん一人ひとりをフォローしようと思ったんです。
🔹伊藤、結局、自分の得やり方を信じるしかないんですよね。
私はへそまがりな性格なので、あまり人を信用しないっていうか、
例えば誰もが仰ぎ見るような名経営者の本は数多く出ていますけど、
全然興味はありませんでした。
🔸諏訪、すごくよく分かります。
🔹伊藤、もちろん参考になるかもしれませんが、
時代も置かれている状況も違うわけですから、最後はオリジナルで行くしかないと。
私の場合、父と一緒に仕事をしたことがないので、
経営者として父の影響を受けている実感はないんですけど、
その点に関して諏訪さんはどうですか。
🔸諏訪、影響受けていないとずっと思っていたんですけど、
実は影響受けていたんだなと最近わかりました。
というのも、ベテランの社員さんから
「先代に似てきましたね。先代も人を大切にする経営でした」
って言われたんです。
当初私は、父のやり方はダメだと感じていたので、
トップダウン型から意見集約型の構造にしてみたり、
組織の細分化をしてみたり、父とは違うやり方に変えることがモチベーションだったんですけど、
やっぱりやり方は違っても求めているものは一緒だったのかなと。
🔹伊藤、そういう意味で、私の人格形成の原点にあるのは母ですね。
母は私は13歳の時に乳がんだと診断されて、
その後転移して余命1年と言われたんですが、
結果的に8年近く生きたんです。
私が20歳になるまでは死ねないと。
母は死ぬまで絶対弱音を吐かず、
明るく元気で、いつも人に頼られる存在だったんですよ。
🔸諏訪、素晴らしいお母様ですね。
🔹伊藤、そういう強い女性の生き方を間近で見てできたので、
多少なりともその精神を受け継いでいると思います。
(つづく)
(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)
🔹伊藤、諏訪さんはどのようないきさつだったんですか。
🔸諏訪、そもそも私は兄の代わりとして生まれたんです。
兄は白血病を患い、私が生まれる2年前にわずか6歳で亡くなりました。
兄の治療費を稼ぐために、父は親族から人と機械を譲り受けて会社を創業した経緯があり、
次に生まれてくる子供に会社を継がせたいと思っていたんです。
なので、私は男の子みたいに育てられたんですけど、
父からは会社を手伝ってくれとも継いでくれとも一度も言われたことがなく、
私もそれを聞くことで現実になってしまうのが怖くて、
何も聞かずにやり過ごしていました。
ただ、心の中では兄だったらこうするだろうなという思いがいつもあって、
服飾関係の大学に行きたい気持ちもあったんですけど、
父から言われたとおり工学部への進学を選択したんです。
🔹伊藤、生まれながらにして後継者としての使命をお持ちだった。
🔸諏訪、大学卒業後は、父の会社のお取引先様である大手自動車に入社しました。
父からは役員秘書だって言われていたんですけど、
実際は女性初のエンジニア採用で(笑)、
2年間工場の中で修業させていただきました。
同じエンジニアと結婚し、子供を産んだので退社したんですけど、
父から
「会社が大変だから手伝ってくれ」
と言われ、ダイヤ精機に総務として入社しました。
1998年、26歳の時です。
バブル崩壊後、赤字が続いていて、どう見ても仕事量に対して社員が多い。
父にリストラを提案したところ、
「それならお前が辞めろ」と。
半年でクビになり、その後再び会社に戻ったものの、
同じやりとりがあって、
今度は3ヶ月でクビになりました(笑)。
そんな中、私の息子が兄にそっくりだったので、父は
「80歳まで生きて孫に会社を継がせる」
と宣言したんです。
私も女性らしい仕事がしたいと思っていたので、
安心して専門学校に通い直して結婚披露宴の司会をやったり、
パート勤めをしながら、主婦業を謳歌していました。
ところが、2003年に父が肺がんになりまして、
5年生存率は80%ときわれていたにもかかわらず、
半年後に緊急入院したら、
もう4日しかないという話で、…。
亡くなった時は事業継承の準備も全くしていなかった状態でした。
🔹伊藤、突然のことだったんですね。
🔸諏訪、だからほんとに、
「通帳や印鑑はどこにあるの?」
「暗証番号を教えて」
というやりやり取りで最後を迎えてしまって、
次の日にいきなり銀行さんから
「誰が社長やるんですか」
って話があったんです。
まずやはり主人に白羽の矢が立って、
でも主人には後悔しない道に進んでもらいたかったので、
私からお願いすることはしませんでした。
その時ちょうど主人にはアメリカ転勤の話があったため、そちらを選択してもらったんです。
で、社員さんから社長に就任してほしいと懇願されまして。
🔹伊藤、それで引き受ける決断をされたものは何でしたか。
🔸諏訪、周囲の人に相談しましたが、私の場合、イエスともノーとも言ってくれなかったんですよ。
でも、それは今考えるとすごくありがたくて、
それまで自分でちゃんと決断して人生の道を決めるという経験がありませんでした。
ここは自分で決断しなきゃいけない場面だし、
自分が社長をやると宣言した時点で、
この道はワンウェイ、引き返すことのできない道だと。
社員さんみたいに明日辞めますということは絶対にできないですし、
社員さんたちをずっと守らなきゃいけない。
借り入れも背負わなければならないし、連帯保証もしなきゃいけない。
私にそんなことできるのだろうかって思うと怖かったんですけど、
ある女性弁護士さんが
「やってダメだったら自己破産すればいいだけだから」
と言われて、確かにそうだなと。
命まで取られることはないし、前に進むしかないという覚悟が定まりました。
ただ、社長に就任した2004年当時は本当に何をすればいいのか分らなかったので、
最初にインターネットで「社長の仕事とは」って検索したことを今でも覚えています。
🔹伊藤、なんて書いてありましたか?
🔸諏訪、しっくりくるものがなかったんですよ(笑)。
だったら、もう社長じゃなくていいやと。
エンジニアとしての経験を生かして社員さん一人ひとりをフォローしようと思ったんです。
🔹伊藤、結局、自分の得やり方を信じるしかないんですよね。
私はへそまがりな性格なので、あまり人を信用しないっていうか、
例えば誰もが仰ぎ見るような名経営者の本は数多く出ていますけど、
全然興味はありませんでした。
🔸諏訪、すごくよく分かります。
🔹伊藤、もちろん参考になるかもしれませんが、
時代も置かれている状況も違うわけですから、最後はオリジナルで行くしかないと。
私の場合、父と一緒に仕事をしたことがないので、
経営者として父の影響を受けている実感はないんですけど、
その点に関して諏訪さんはどうですか。
🔸諏訪、影響受けていないとずっと思っていたんですけど、
実は影響受けていたんだなと最近わかりました。
というのも、ベテランの社員さんから
「先代に似てきましたね。先代も人を大切にする経営でした」
って言われたんです。
当初私は、父のやり方はダメだと感じていたので、
トップダウン型から意見集約型の構造にしてみたり、
組織の細分化をしてみたり、父とは違うやり方に変えることがモチベーションだったんですけど、
やっぱりやり方は違っても求めているものは一緒だったのかなと。
🔹伊藤、そういう意味で、私の人格形成の原点にあるのは母ですね。
母は私は13歳の時に乳がんだと診断されて、
その後転移して余命1年と言われたんですが、
結果的に8年近く生きたんです。
私が20歳になるまでは死ねないと。
母は死ぬまで絶対弱音を吐かず、
明るく元気で、いつも人に頼られる存在だったんですよ。
🔸諏訪、素晴らしいお母様ですね。
🔹伊藤、そういう強い女性の生き方を間近で見てできたので、
多少なりともその精神を受け継いでいると思います。
(つづく)
(「致知」1月号 諏訪貴子さん伊藤麻美さん対談より)
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