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料理人の道

2016-01-21 13:11:47 | 物語
「料理人の道」


庖丁(ほうてい)が、文恵君のために牛を料理したことがあった。

手で触り、肩を寄せ、足を踏ん張り、

膝立をする彼のしぐさのたびに、

サクサクバリバリと音がたち、

牛刀の動きにつれて、ざくりざくりと響き渡る。

それがみな音律にかなって快く、
桑林(そうりん)の舞楽にも調和すれば、
また、経首(けいしゅ)の音節にもかなっていた。


文恵君は

「ああ、見事なものだ。

技もなんと、ここまでゆきつけるものか」

と言った。


庖丁(ほうてい)は牛刀を手から離すと、それに答えた。

「私めの求めておりますものは、道でございまして、

手先の技より以上のものでございます。

私めが始めて牛の料理をいたしましたころは、
目に映るものは、ただもう牛ばかりでしたが、

3年経ってからは、もう牛の全体は目につかなくなりました。

このごろでは、私めは精神で牛に対していて、目で見ているのではありません。

感覚器官にもとづく知覚は働きをやめて、

精神の自然な活動だけが働いているのです。

天理に従って、大きな隙間に刀刃をふるい、

大きな空洞に沿って走らせ、

牛の体の本来の仕組みにそのまま従ってゆきます。

支脈と経脈がいりくみ、
肉と骨とがかたまったような微妙なことろでさえ、

試し切りをするようなことはありません。

まして、大きな肉のかたまりではなおさらです。

腕のよい料理人は一年ぐらいで牛刀をとりかえいて刃(は)こぼれがくるのですが、

たいていの料理人は、一月ごとにとりかえながら、牛刀を折ってしまうのです。

ところで、

私めの牛刀は、十九年も使っていて数千もの牛を料理してきましたが、

その刃さきは、

まるでたった今砥石で仕上げたばかりのようです。


あの骨節と言うものには隙間があり、

牛刀の刃さきというものには、

ほとんど厚みがありません。

その厚みのないもので、隙間のあるところに入ってゆくのですから、

まことに広々としたもので、

刃さきを動かすにも、必ずゆとりがございます。


だからこそ、

十九年も使っているのに、
牛刀の刃先が、

たった今砥石で仕上げたばかりのようなのです。

けれども、

それにしても、筋や骨のかたまったところに来るたびに、

私はその仕事の難しさを見てとって、

心を引き締めて緊張し、

そのために視線は一点に集中し、

手のはこびも遅くして、

牛刀の動かしかたは、極めて微妙にいたします。

やがてバサリと音がして肉が離れてしまうと、

まるで、土くれが、もとの大地に落ちたときのようなのです。

牛刀を手にひっさげて立ち上がり、

四方を見回して、しばらく去りがたくたたずんだうえで、

心中に満足し、牛刀をぬぐってそれを鞘におさめるのです」


文恵君は言った。

「素晴らしいことだ。

わしは庖丁の話を聞いて、養生の道を会得した」


(「荘子」より)


道を求めるということは、形ではなく、心なんですね。


無用の用

2016-01-20 14:03:00 | 物語
「無用の用」


大工の棟梁の石が、斉の国を旅行して曲轅(きょくえん)という土地に行ったとき、

櫟社(れきしゃ)の神木である櫟(くぬぎ)の大木をみた。

その大きさは数千頭の牛を覆い隠すほどで、

幹の太さは100かかえもあり、
その高さは山を見おろしくいて、

地上から七、ハ十尺もあるところから始めて枝が出ている。

それも船を作れるほどに大きい枝が幾十本とはり出しているのだ。

見物人が集まって市場のような賑やかさであったが、

棟梁は見かえりもせず、そのまま足を運んで通りすぎた。

弟子たちはつくづく見とれていたから、
走って棟梁の石に追いつくと、
尋ねた。

「我々が斧やマサカリを手にして師匠のところに弟子入りしてから、

こんな立派な材木はまだ見たことがありません。

師匠がよく見ようともせずに足を運んで通りすぎたのは、どういう訳でしょうか」

石は答えた、

「やめろ。つまらないことを言うでない。

あれは役立たずの木だ。

あれ舟を作ると沈むし、
棺桶を作るじきに腐るし、

道具を作るとすぐに壊れるし、

門や戸にすると樹脂(やに)が流れだすし、

柱にすると虫がわく。

まったく使いようのない木だよ。

まったく使いようがないからこそ、あんな大木になるまで長生きができたのだ」


棟梁の石が旅を終えて帰ると、

櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた、

「お前は、いったいこのわしを、何に比べているのかね。

お前は、おそらくこのわしを、役にたつ木と比べているのだろう。

いったい、コボケや梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、

その実が熟するとむしり取られ、
もぎ取られて、大きな枝は折られて、

小さい枝は引きちぎられることになる。

これは、人の役にたつとりえがあることによって、
かえって自分の生涯を苦しめているのだ。

だから、

その自然の寿命を全うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、

自分から世俗に打ちのめされているものたのだ。

世の中の物ごとは、すべてこうしたものである。

それに、わしは長い間、

役に立たないものになろうと願ってきたのだが、

死に近づいた今になってやっとそれが叶えられて、

そのことが、わしにとって大いに役立つことになっている。

もし、わしが役にたつ木であったとしたら、

いったいここまでの大きさになれたろうか。

それに、お前もわしも、物であることは同じだ。

どうして相手を物あつかいして批判することができよう。

今にも死にそうな役立たずの人物に、
どうして、まだ役立たずの木のことがわかろうか」


棟梁の石が目を覚ますと、
その夢のことを話して聞かせた。

すると弟子がたすねた。

「自分から無用でありたいと求めていながら、

社の神木などになったのは、どうしてでしょうか」

石は答えた。

「静かに。
お前、つまらんないことを言うでない。

あの木は、ただ神木の形を借りているだけだ。

わからずやどもが悪口を言うのがうるさいと思ったのさ。

神木とならなくても、

まず人間に伐り倒されるような心配は無い。

それに、あの木が大切にしていることは、世間一般とは違っている。

それなのに、

きまった道理でそれを論ずるとは、いかにも見当はずれである」


(「荘子」より)


無用の用とは、

役に立たないと思われているものが、
実際は大きな役割を果たしているということ。

役に立たないように見えるものでも、かえって役に立つこともある。

この世に無用なものは存在しないという教え。

『老子』には

「埴をうちて以て器を為る。
その無に当たりて器の用有り

(粘土をこねて器を作る。

器の中にある空間は、一見、無用に見えるが、

その空間があるから器が作れるのだ)」

とあり、

『荘子』には

「人は皆有用の用を知るも、
無用の用を知る莫きなり

(人はみんな明らかに役立つものの価値は知っているが、

無用に見えるものが、人生において、真に役立つものだとは知らない)」

とある。



この世に存在しているものには、必ず価値がある。

ムダなものは何もない。

意味があって存在する。

その人のとらえ方しだい。
考え方しだい。

私は、そういう考え方が好きです。

「杉原千畝とリトアニア」

2016-01-18 15:12:07 | 物語
「杉原千畝とリトアニア」


1940年7月、ポーランドを占領したナチスドイツ軍に追われ、

たくさんのユダヤ人がリトアニアへと逃げ込んだ。

当然、もう西へは引き返せない。

トルコ政府がビザの発給をストップしたことで、

トルコ経由でパレスチナへ向かうルートも遮断されてしまった。

唯一、助かる道があるとしたら、長い長い逃避行ではあるが、

シベリア鉄道で極東まで揺られ、
船で日本に渡ったのち
アメリカへ向かう方法しか残されていなかった。

しかも、すでにリトアニアを占領していたソ連軍は、

リトアニア国内の各国大使館・領事館を閉鎖するよう命じたが、

日本領事館はまだ業務を行っていた。

同年7月18日の杉原氏の手記には、次のように記されている。

「6時少し前。

表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然、

人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、

意味のわからぬわめき声は、
人だかりの人数が増えるためか、
次第に高く激しくなってゆく」。

杉原氏は、公邸の鉄柵に身を乗り出すようにして何か訴えている

数百人のユダヤ系の人々の声で目を覚ました。

さっそく避難民の通過ビザの発給について
本省に問い合わせた。

しかし本省からの回答は、

まず、最終的に向かう国の入国手続きを済ませた上で、

しかも十分な旅費と滞在費を持ち合わせている避難民だけに、
日本の通過ビザを発給するように

という、きわめて形式的な内容だった。

熟慮の末、杉原氏は

「ビザの発給を拒否するのは良心に反する」

と、
領事の権限ですべての避難民にビザを発給する決断を下す。

夫人も

「後で私たちはどうなるか分かりませんが、

そうしてあげて下さい」

と賛成し、

息子もユダヤ人の子供を助けて欲しいと懇願した。

杉原氏は本省を刺激しないよう配慮しながら、

一カ月余り寝食を忘れてビザを書き続けた。

万年筆はポッキリと折れて、腕は麻痺して動かなくなった。

すべて手書きでは効率が悪いので、ゴム印を作って手書き部分を少なくした。

記録に残っているだけでも、
2,139枚のビザを書き上げていた。

当時は、1枚のビザで家族が脱出できたため、
6,000人の命を救ったと言われているが、

実際には1万人ほどが助けられたという見方もある。


戦況が激しくなるにつれ、
ソ連政府や本国からも再三再四、退去命令が出た。

もはや命令を無視できなかった。


杉原氏はベルリン行きの列車が出発する間際までビザを書き続けた。

最後の1枚を書き上げると

「許してください。

私にはもう書けない。

みなさんのご無事を祈っています」

そういって頭を下げると、

列車は静かに動き出した。


このとき杉原氏に助けられた、
現在シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長となって、

"金融先物も父"の異名を取るレオ・メラメド氏の証言によれば、

それから彼等はリトアニアから2週間かけてウラジオストクへたどり着き、
さらに船に3日乗って敦賀港へ到着したという。

当時少年だったメラメド氏は、
山々に囲まれた美しい日本の風景と親切で礼儀正しい日本人に心が癒された。

向かった先の神戸にはユダヤ人のコミュニティがあり、
難民支援のために義援金が募られた。

結局、4ヶ月間日本に滞在した
メラメド氏は、

「日本人の並外れたホスピタリティー、
言葉が通じないのに、
見知らぬ私たちに差し伸べてくれた

親切心を忘れることができない」

と思い出を語った。

その後、氏は渡航許可を得てアメリカへ向かった。


一方、

終戦を迎えて帰国した杉原氏は外務省に復帰したが、

訓令違反を犯してビザを発給したことから
省内でうとまれ、

依願退職に追い込まれた。

その後、

仕事を転々として、最終的にモスクワの貿易商の仕事についた。


それから28年が過ぎた
1968年8月のある日、

イスラエル大使館から杉原氏の下に
1本の電話が入った。

氏が大使館に出向くと、そこには新に赴任してきたニシュリ参事官が待っていた。

参事官は

「これを覚えていますか」

といって、

ボロボロになった手書きのピザを差し出した。

彼は杉原氏に助けられた避難民で、
杉原氏と最初に対談した5人の代表のひとりだった。

あれからリトアニアから逃れた避難民は、
感謝の気持ちを伝えたいと杉原氏を捜していた。

しかし、
杉原千畝を「センポ・スギハラ」と音読みしたことで、

外務省に問い合わせてもなかなか在所がつかめなかった。

杉原氏の処遇を知った元避難民は、人道的行為が正しく評価されなかったばかりか、

逆に外務省内で、
"反逆者"
のレッテルを貼られて職場を追われたことに憤慨した。

しかし、
翌年イスラエルに招かれた杉原氏は、

"正義の異邦人"

として国家から顕彰された。

ヤド・バシェム(ホロコースト記念館)での式典で
賞を授与したバルハフティック宗教大臣もまた、

杉原氏に命を助けられた当時の避難民で、5人の代表のうちのひとりだった。

しかし、

日本でようやく杉原千畝の名前が知られるようになったのは、

ユダヤ系アメリカ人のスティーブン・スピルバーグ監督の映画

『シンドラーのリスト』

が、アカデミー賞を受賞した1994年のことだった。

これ以後、

杉原は
"日本のシンドラー"
と呼ばれるようになり、

日本でも徐々に認知されるようになった。

しかし、
ドイツ人実業家のオスカー・シンドラー氏は、
経営上の理由もあって自社工場で働く1,200人のユダヤ系労働者を守ったのに対し、

自分の立場も顧みずに縁もゆかりもない避難民の命を救った

杉原氏の行動は、

それ以上に賞嘆されるべきだという声もある。

ちなみに
日本では、ミュージカル
『SENPO~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』
(主演:吉川晃司、音楽:中島みゆき)
が上演され話題となった。

その後、日本の外務省でも

「外務省として、杉原副領事は勇気のある人道的行為を行ったと認識しています」

との見解に変わった。

これに対して杉原氏は、常々

「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。

しかし、

私に頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。

そして、それは正しい行為だった」

と語っていたという。


ところで東日本大震災の折、

米国にある
世界最大のユダヤ系の食品安全認定機関
「オーソドックス・ユニオン」
は、義援金を募るあたり次のような声明を出した。


「1940年、

杉原領事夫婦は身職を賭して通過ビザを発給し、

6,000人のユダヤ人の命を助けてくださった。

今こそ我々が、その恩義に報いるときである」

と。


(「日本人になりたいヨーロッパ人」片野優・須貝典子著より)


先輩に恥じない生き方をしないと、、、と、日本人として思います。

「トルコと日本」

2016-01-17 16:17:59 | 物語
「トルコと日本」


トルコ人が日本人を大好きなのは、いくつかの理由がある。

そのうちの1つは、
トルコの天敵のロシアを

日本が日露戦争で打ち破ったことに対する感謝と尊敬の念からだ。

ロシア帝国とオスマン帝国の両雄は、

16世紀半ばから第一次世界大戦に至るまでの

350年間に計12回も交戦。

とりわけ1878年の露土戦争では、
バルカン半島のスラブ人の同胞を

トルコから解放するという大義名分を掲げた

ロシアがトルコに戦いを挑んで勝利した。

その結果、

セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立したほか、

トルコは多くの領土を失った。

そのにっくきロシアを

極東の小さな島国の日本がやっつけたのだから、

トルコは大いに溜飲を下げたに違いない。

特にバルチック艦隊を撃破した

連合艦隊司令長官の東郷平八郎や

乃木希典の名前はトルコ全土に響き渡った。

そんなことから、
当時のイスタンブールには「トーゴー通り」や「ノギ通り」があったほか、

英雄にあやかろうと自分の息子に
「トーゴー」「ノギ」と命名したトルコ人の父親は少なくなかった。

いくらアメリカ贔屓の日本人がいたとしても、
子供に「ケネディー」「ジェファーソン」などと名づける親は見かけない。


また第一次世界大戦の敗戦後にトルコ革命を指揮し、

今も

"新生トルコの父"

と慕われているトルコ共和国の初代大統領に就いた

ケマル・アタチュルクは
明治天皇を敬愛し、その写真を机の上に飾っていたと言う。

政教分離、トルコ語の改革(アラビア文字からラテン文字)、女性の権利拡大、

苗字法の施行、農業改革など、

西欧化・近代化を急いだアタチュルクの口癖は、

「日本を見習え!」だった。


しかし、

トルコ人が日本人をこよなく愛する理由はほかにもある。

1890年9月16日、皇族の小松宮夫婦がトルコを訪問した返礼として、

トルコ政府は約50人の将校を含む609名の特使を乗せた
軍艦「エルトゥールル号」を派遣した。

その帰途、

船は和歌山県大島村(今の串本町)沖合で嵐に遭遇して沈没し、

587名の死者・行方不明者を出す大惨事となった。

このとき、村人が自分の食料や飼っていたニワトリをつぶして

必死に介護したことで、69名の命が救われた。

これを知った明治天皇は、

現地に医者や看護婦を送って看病に当たらせたのち、

二隻の軍艦で生存者をトルコまで送り届けさせた。


また、

トルコ人のために何かしたいと義援金を募ったのが
茶道の家元の山田寅次郎で、

事故から2年後には5,000円(現在の約1億円)を届けにトルコへと旅立った。

トルコ皇帝は寅次郎の真心をことのほか喜び、
そのままトルコに残るよう提案。

その後、

寅次郎は日本語教育や日本文化の普及に努め、
トルコで、計20年近くも暮らしたという。

このとき彼が士官学校で

日本語を教えていた生徒の中には、
ケマル・アタチュルクの姿もあった。

なお、

寅次郎が皇帝に献上した先祖代々の家宝の甲冑は、現在もトプカプ宮殿に大事に保管されている。

この話には、後日談がある。


イラン・イラク戦争のさなか、

突然、フセイン大統領は

「今から48時間以内に、

敵国のイラン上空を飛行する飛行機は

すべて撃ち落とす」

と宣言。

そのとき、イラン国内にいた215人の邦人はパニックに陥った。

当時は、JALもANAもテヘランには乗り入れていない。

邦人は外国機を使って必死の脱出を試みたが、

どの国の旅客機も自国民を優先して助けてくれない。

一方、

すぐにでも救援機を飛ばしたい日本政府だったが、

イラクから航行の安全を保証してもらえず身動きが取れなかった。

そんなとき

タイムリミット1時間15分前に、
スーパーマンのように日本人を作って救出してくれたのは

トルコ政府だった。

トルコの特別機を

テヘランに向かわせた当時のオザル首相は、

「なぜそんな危険を犯すのですか?」

とマスコミから質問されたとき


「それは日本人だからです…」

と答えた。


救出劇の舞台裏では、

在イラン日本大使が窮状を訴えたことに加え、

オザル首相と個人的に長い付き合いがあった日本人商社マンの友情に応えたものだった。


しかも

トルコ航空内で救出に向かうパイロットを募ったところ、

パイロット全員🌸が志願✊したという。


「エルトゥールル号の事故について、

大島の人たちや日本人🇯🇵がしてくださった献身的の救援活動を

今でもトルコ国民は忘れていません。

私も子供のころ歴史の教科書で習いました」

と語った、

ネジアティ・ウトカン在日大使の言葉が忘れられない。


(「日本人になりたいヨーロッパ人」片野優・須貝典子著より)


日本を見習う外国が多いことを誇りに思います。(^_^)