2017年11月19日 大阪東教会主日礼拝説教 「主にあるひとつの体」吉浦玲子
<聖なるいけにえ>
これまでパウロは信仰によって義とされるという信仰義認について、そしてまた救いに関する神の大いなるご計画について語って来ました。11章までがパウロによる信仰の理論的な説明であったと言えます。それに対して12章からは、神に救われた人間の新しい生き方について書かれています。実践編ともいえます。聖書の信仰はただ頭で理解したり悟っておしまいというものではなく、現実の世界に生きていくことそのものと関わっているからです。神の愛と憐みによって、罪赦され、救われた者として、そして神によって恵みをいただいた者として、現実にどのように生きていくのかということをパウロは語っています。
繰り返して申し上げることですが、このような箇所を読む時、注意しないといけないのは、どのように生きれば神に救われるのか愛されるのかと語られているのではありません。これから語られる生活のあり方は救いの条件ではありません。すでに救われている者としてのあり方をパウロは語っています。
「こういうわけで、「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。」」とパウロは語りはじめます。こういうわけで、ということは、これまでローマの信徒への手紙で語られてきた神の愛のご計画を踏まえているということです。「神の憐みによって」というのはすでに神の憐みの中にあるあなたがたに、ということです。すでに神によって、キリストの十字架によって、救われた者として、恵みにある者として、このように生きることができるはずだとパウロは語っています。
まず語られていることは、自分の体を聖なるいけにえとしてささげなさいということです。いけにえというと、聞き様によってはおどろおどろしく聞こえます。宗教的な儀式とむすびつけられて、いけにえという言葉は良く聞きます。パウロは、私たちは生きたささげものとして自分をささげるのだ、と語っています。そしてそれこそが礼拝なのだとパウロは語っています。旧約聖書の時代から、人々は神殿に動物をもってやってきました。動物をいけにえとしてささげたのです。律法にはたいへん細かく動物の捧げ方の規定が記されています。多動物は人間の罪の贖いのため、また神との和解のために捧げられました。
しかし、いま、私たちは動物を教会に持ってくる必要はありません。御子キリストご自身が、私たちの罪の贖いのためのささげものとして十字架によって、すでに捧げられたからです。私たちは罪赦された者として、神を礼拝するために教会にきます。そして、かつてキリストがご自身を捧げられたように、私たちもまた、自分を捧げます。日曜日の朝、それぞれの場所での働き、活動をやめて、教会に集います。自分の力と時間と労力を捧げて神を礼拝をするのです。まさに自分の体をささげるのです。聖書の神を信じる信仰は、単に心の中で神を思ったり、頭の中で神のことを考えるのではなく、自分たちの現実の体、肉体を伴うものです。現実の生活の中で、生きていく日々の時間の中で、礼拝に、自分自身の肉体をもって出席するのです。
<自分を変えられる>
そしてその礼拝は形式的な儀式ではありません。もちろん、礼拝を捧げる中で、なんとなく荘厳な気持ちになったり、心清められる気持ちになることは、ごく自然なこととしてあるでしょう。でも礼拝はなんとなくありがたい儀式ではなく、なんとなく心清められるような時間であるだけではないのです。あるいはまたそこでなにか良いお話をきく、人生をゆたかにするような時間を得るということでもありません。「心を新たにして自分を変えていただき」とパウロは語っています。私たちは礼拝において自分を変えていただくのです。礼拝において自分になにかプラスをするとか、なにかを良いものを持ち帰るというより、自分自身が変えられるのが礼拝です。もちろん毎週毎週、会堂に入ってきたときとは別人のようになって会堂から出ていくということはないでしょう。でも、礼拝では、神の御前に御言葉を聞き、聖霊によって、自分を変えていただくのです。とはいえ礼拝に出たからと言って劇的に変わったと自覚をすることはほとんどないかもしれません。しかし、礼拝に招かれながら礼拝生活を続けていくうちに、確実に、どなたも変えられていきます。性格が変わったり、考え方が根本的に変わったりすることはないかもしれません。しかし、生き方の根本にかかわる部分がいつのまにか変えられていくのです。ある日、ふと気付くと、自分でもそういえば何となく変わったなあと感じることがあるでしょうし、周囲の人から「変わった」と思われることもあるでしょう。いま、何となくと申し上げましたが、実際のところは誰でも、「劇的」に変えられているのです。情感的な共感や理知的な理解を越えて、自分が変えられていく、それが礼拝です。自分をささげ、素直に神の御前に立つ時、神ご自身が、私たちを変えてくださいます。
ところで、そもそも、私たちは、どこまでいっても罪人です。神の御前で自分自身を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」だなどと、私たちは胸をはって言えるでしょうか?神ご自身が私たちを変えてくださらなければ、私たちは「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」にはなり得ないのです。いまここで、自分自身を礼拝において神の御前に捧げさせていただいていること、そのこと自体が、すでに神の憐みによって実現しているのです。私たちを「聖なる」ものとして喜んで受け取ってくださる方がおられる、日々、多くの罪を犯し、聖なる者などとは到底言えないものを、なお喜んで受け取ってくださる方がおられる、その憐み深い神ゆえに捧げることができるのが礼拝です。
<この世に倣わない>
そして「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」とパウロは続けます。世に倣うというのは世の価値観、この世界のあり方に従うということです。しかし、これは個人においても教会においてもきわめて難しいことなのです。なぜならば、私たち一人一人も、教会もこの世の中にあるからです。私たちは修道院のような世界から隔絶された場所で生活をするわけではありません。いえ修道院であっても、この世の中で立っています。この世と全く関わりを持たずに立っていくことはできません。この世界に生きる時、切実なことがあります。生活をしていかなくてはいけませんし、生活のために必要なものを得なければいけません。それは生半可なことではありません。その切実さのなかにあって、なお私たちは世に倣うことなく生きていくというのは、ある意味、とても困難に思えることです。実際、困難なことなのです。しかし、一見、困難な生き方のようでありながら、世に倣わない生き方は、ほんとうのところは、自分自身をまことに生かす生き方でもあります。
世に倣う生き方は、人間中心の価値観に生きる生き方です。その価値観は単に生活のためにあくせくするということではなく、よりよく生きたいという人間の願いに基づいたものでもあります。自分の夢を追うとか、自己実現をするという言葉に代表されるような価値観も含みます。自分の夢をかなえる生き方、自分の本当にやりたいことを見つけて自己実現をしていく生き方、それはとても素晴らしいことのように思えます。夢が現実にはかなわなくても、それでも夢を追いかけつづける姿は美しいことのように考えられます。そのような美しい物語をテレビなどのメディアは流しています。それを見て多くの人は感動をします。実際、自己実現のために努力をする姿はすばらしいことのように思われます。
しかし、私たちは世に倣って生きている時、実は本当の自分の夢や実現すべきことというものは見えていないのです。自分自身の思いにいっぱいいっぱいになって、私たちは見果てぬ夢を見つづけるか、どこまでいっても実現できない自分の本来のあり方を見つけるために無限にさまようことになります。
神に「心を新たにして自分を変えていただいた」とき、はじめてわたしたちは、本当の自分のあり方を見つけることができるのです。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」私たちは礼拝において、あるいは日々の祈りにおいて、神の御心を聞き、また問います。もちろんそこで示されることもあります。しかしなにより、神ご自身が、私たちを変えてくださることによって、私たちが神の御心や神が善しとされることを理解できるようにしてくださるのです。そして、この世に倣うのではなく、神に自分を変えていただき、御心を知るとき、私たちはほんとうにあるべき自分の姿で生き始めることができるのです。
<慎み深く>
その新しい生き方をはじめた人間にパウロが勧めているのは「自分を過大評価してはなりません」ということです。私たちはよほどうぬぼれの強い人間でなければ、自分を過大評価などはあまりしないのではないでしょうか?もちろんしらずしらずのうちにうぬぼれていることは往々にしてありますが。しかし、ここでいう過大評価というのは、神が一人一人に与えられている賜物、能力をあたかも自分自身の資質であったり力であるかのように思うことを指します。そしてまた「過大評価してはならない」ということは神から与えられた恵みに対して必要以上に舞い上がってはいけないということでもあります。おそらくパウロの時代の教会の中にも、さまざまにがんばって教会のために働く人がいたのでしょう。そういう人たちは信仰に熱くなりすぎて熱心になりすぎて、猪突猛進してしまうようなところもあったのでしょう。結果的に自分はこんなにやっていると舞い上がってしまうような人々に対して言っているのでしょう、
ですからパウロは「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価」しなさいと語っています。ここで「信仰の度合い」という「度合い」というのは、原語でははかり、メジャーという言葉です。人によってはこの箇所を信仰の力量に応じてと解釈をされている方もいます。結局、それはどういうことかというと、信仰によって判断をしなさいと言うことです。この世的な判断をしてはいけないということです。たとえば、多くの人にはできないすばらしい賜物、才能やスキルをもって、教会に仕える人がいたとして、その人が、特別な才能をその才能の高さのゆえに、この世的な評価ゆえに誇っているとしたらそれは思い上がっているということです。慎み深い評価ではないということです。しかし教会に中においても往々にしてそれは起こり得ることです。特別な才能を持った人に対して「あの人はすごいね」と羨望の的になったりします。この世的な評価でもてはやします。逆にその陰で自分なんて大した才能もなくだめだと思ってしまう人が出てくるなどということが起きてきます。
昔、ニューヨークの教会に出席していた方から聞いた話です。その教会に聖歌隊があったそうなのですが、その聖歌隊にはアメリカでも著名なソプラノ歌手が所属していたそうです。でも、その方自身も、また周囲の方も、そのソプラノ歌手である聖歌隊員を特別な存在として扱ってはいなかったそうです。特別にその方がソロを歌うとか、他の人を指導をするということはなく、淡々と一聖歌隊員として奉仕をされていたそうです。この世のその歌手への評価によってその歌手自身も教会も舞い上がっていくことはなかったのです。しかしなかなか、そのようなことは難しいことです。どうしてもこの世的な評価に揺れ動いてしまいます。
<一つの体>
そしてそのことは教会という共同体のあり方とも根本的にかかわっています。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」教会につながる人々は一つの体を形成しているという言葉は、なにか教会の一体感を現す心地よい言葉のようにも聞こえます。そして互いに部分であって、それぞれに神から与えられた賜物を生かして、お互いを尊重して役割分担をしてやっていきましょうということのように思えます。
しかし、ここで大事なことは、むしろ、それぞれが部分である、ということをわきまえるということです。それぞれが部分以上のものではないということです。つまり「信仰の度合いに応じて慎み深く自分を評価することを徹底する」ということです。
そもそも神によって変えられ、本当の自分の賜物、恵みに気づいた者がそれぞれの賜物を生かして生活をしていくとき、この世的な評価は入り込んできません。この世的な評価から自由に、しかし本当に豊かな者として私たちは用いられていきます。そして自然な形で共同体の中でも役割を果たしていくことができます。そのとき、私たちはキリストに結ばれた者としてさらに豊かにされ、共同体にも喜びが満ちあふれます。
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