大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙14章13~23節

2018-03-05 16:43:22 | ローマの信徒への手紙

2018年2月4日 大阪東教会主日礼拝説教 「確信に基づく」吉浦玲子(当日、長老による代読)

<不自由な人への愛の配慮>

 何回かお話ししたことですが、クリスチャン以外の方から、時々「クリスチャンって偉いですねー」と言われることがあります。まだ会社に勤めていた頃、贅沢だったのですが、どうしても奉仕の関係で教会に行くのにタクシーで行かなくてはならなくなって、行ったことがあります。もちろん普段は電車で行っていたのですが、どうしても時間に間に合わずタクシーに乗ったのです。タクシーの運転手さんが、行き先が教会であるので、「毎週、教会に行かれてるんですか、えらいですねー」とおっしゃいました。運転手さんは、別に客商売だから、特別におべっかを使われたという感じではなく、熱心に教会ではどのようなことをするのかとお聞きになりました。そして「いやあ、毎週、教会に行かれるなんて、ほんとうに偉いですねー」と繰り返されるのです。「わたしには、とてもとてもそんなことはできませんわー」とおっしゃるのです。「いえ別にむずかしいことをしているわけではないですよ」と申し上げても「いやあ教会の方は皆さん、えらいですねー」と言われるのです。似たような体験は時々します。その根底には、宗教というのは戒律があって、宗教を信じて生きている人はまじめにその戒律を守っている人という感覚があるようです。つまり、自分の自由を放棄して戒律にしたがって生きている「偉い人」、「普通の人にはできないことをしてる人」という感じがあるようです。そういう方に、キリスト教は愛と自由が基本なんだと言ってもなかなか理解していただけません。

 すぐる週、食べ物のこと、あるいは、特別な日のことで、教会の中に分裂がおきていたことを共にお読みしました。それに対してパウロは、神学的に言えば、何でも食べていいし、特別な日を重んじることは不要なことだという考えを持っていました。食べ物や特別な日のことを気にするのは「信仰が弱い人」だと教会の中で言われていたことを、ある意味、パウロ自身もうべなっていました。いわゆる「信仰の弱い人」は肉を食べてはいけないという不自由に生きていた人だといえます。「信仰の強い人」は何でも食べていいという自由を得ていた人だといえます。

 しかし、ほんとうに問題なのは、食べ物のことにこだわる人、あるいは特別な日にこだわる人を「信仰が弱い」と見下し、馬鹿にすることだとパウロは語っていました。「わたしは信仰が強い」「あなたは信仰が弱い」と互いに裁きあうことをパウロは厳しく諌めています。今日の聖書箇所でも「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」と語りかけます。もちろん、パウロは信仰において「なんでもあり」と考えていたわけではありません。異端的な考えや、本質的な誤りについては厳しく指摘しました。

それにしても肉を食べる食べないといったことで教会内が揉めるなどということは今日的には馬鹿げたことに思えます。しかし、すぐる週にも考えましたように、私たちは往々にして肉を食べる食べないレベルのことで揉めるのです。揉め事の根っこにあるのはだいたい肉を食べる食べないレベルのことなのです。一方で肉を食べる食べないのレベルではないこと、たとえば信仰告白のこと、聖礼典にかかわること、礼拝や教会組織の本質的なあり方についてなどの問題については、どうでもいいことでは断じてありません。

パウロはそのようなことを総括して、信仰者としては生まれたばかりの<赤ん坊>の人も、信仰的に<大人>でいわゆる自分たちで「信仰が強い」と言っている人も、共に、キリストの血と肉によって「主のもの」とされていることを覚えるべきだと語っていました。

 「主のもの」とされている者には、まず大事なことがある、そう今日の聖書箇所でパウロは語ります。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心をしなさい。」とパウロは語ります。ここで「決心しなさい」とパウロは語っています。つまり、情感的に皆で仲良くしましょう、相手を傷つけないようにしましょうとパウロは語っているのではないのです。信仰的な判断に基づいて、神の前で決心をするのだというのです。信仰において、キリストの十字架によって、ほんとうの自由を得たはずの者が、実際はまだ不自由なところに囚われている人を糾弾するのではなく、愛の配慮をもって向かい合うべきだとパウロは言うのです。それには信仰の上での決心がいるのだと語っています。その決心こそが愛の実践なのだと語っています。

 実際、「何を食べても良い」という自由をキリスト者はすでに得ています。しかし、食べてはいけないと感じる人のために、その自由をいったん放棄することをパウロは選ぶのだと語っています。「信仰が弱い人」が肉を食べている人を見て心を痛めるならば、その人の前で肉を食べるべきではないとパウロは語ります。それはいってみれば「愛のゆえの決心」をするのです。パウロ自身、コリントの信徒への手紙では、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と語っています。マタイによる福音書で主イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出てく来るものが人を汚すのである。」とおっしゃっています。旧約聖書において、清い清くないというのは大問題でした。細かい食物規定がありました。しかし、主イエスがすべてを新しくされたのち、神の前で清いもの清くないものはなくなったのです。むしろ、わたしたちの口から出る言葉、お前は信仰が弱いとか、分かっていないと言った裁きの言葉こそ、汚れたものなのです。その「口から出てくるもの」こそが人を汚すのだと主イエスは語っておられます。

<聖霊によって与えられる義と平和と喜び>

 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とパウロは語ります。「肉を食べていいんだ」と肉を食べる人が、肉を食べない人に忠告して、肉を食べない人が、心素直に理解できて受け入れることができるのであれば、問題はありません。しかし、頭では理解できても、やはり、どこかそこにわだかまりがあり、なんとなくつらい思いをして肉を食べるのであれば、その人にとっては、悪いことになります。その人にとって肉を食べないことが神に仕えるやり方だからです。もちろん、本来、清いものも汚れたものもありません。しかし、その人が心の中で、やはり汚れていると感じているのなら、その人にとっては汚れているのです。その人にとって汚れたものを無理やりに食べさせる時、その人にとっては、神から引き離される行為を行うことになります。つまり罪を犯すことになるのです。その人の信仰の確信をひっくり返すことになるからです。肉を食べることによって、その人は結局、罪を犯すのです。そして肉を食べる人がそこに導いたのであれば、肉を食べる人は肉を食べない人を罪へ誘ったことになります。

<罪に誘う行為>

 人を罪へ誘うという時、あからさまに背徳的な行為やみだらな行いへ誘うのではなく、むしろそれぞれの信仰の確信のズレがあり、無理やりに信仰の強い人が信仰の弱い相手を自分の考えに引っ張るとき、それが罪へと誘う行為になるのです。実際、こうした方が良い、こうすべきだ、逆にこうやってはいけない、ということは教会の中にも、日々の生活のなかでたくさんあります。

 私自身、受洗して間もないころ、クリスチャンなら、こうやるべきと、逆にこうやってはいけないと、いろいろと思いこんで自分でしんどい思いをしていたときもありました。しかし、そういったことが、ひとつずつ、やがて腑に落ちて来る時があります。これはこうした方が良い、これはしない方が良い、それは自分の信仰の確信に基づいていることが分かってきます。聖霊の働きによって分からせていただくのです。

 逆に、こうした方がいいんだけど、ちょっと嫌だなあということを無理に行うことはむしろそれは罪なのです。また人に対してそれを押し付ける時やはり罪になります。

 先週も申し上げましたように、仏教式の葬儀で焼香をあげるべきかあげないでおくのか、ハロウィンをどう考えるのか、それはそれぞれの確信に基づいて行えば良いことです。ハロウィンはどうでもいいのだと言って、ハロウィンは悪魔崇拝と考える人を無理やりハロウィンパーティに連れて行く必要はないのです。その人にとってはハロウィンは間違いなく悪魔崇拝で、その人を神から自分を引き離すものだからです。

 大事なことは「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」なのです。これはローマの信徒への手紙の前半で語られてきたことの総括でもあります。私たちは聖霊によって、キリストの十字架の意味を知らされます。キリストのゆえに自分がすでに義、正しいものとされていることを知らされています。神との平和を与えられ、喜びに満たされています。

 私たちは自分たちが肉を食べるとか食べないではなく、ハロウィンを祝う祝わないということでなく、ただキリストのゆえに義と平和をあたえられているところに立つのです。すでに神によって、そしてキリストの血によって、義と平和を与えられている者が、食べる食べないというところやハロウィンがどうこうというところで、つまり、<人間の側の行い>によって裁きあうことのないようにとパウロは語っています。そのような愚かなことで、私たちはふたたび「不自由な者」とされることはあってはならないのです。

 それはキリストの十字架の血と肉をないがしろにすることです。キリストの十字架の血と肉の出来事を、聖霊によって悟らされていく時、私たちはまことを平和を与えられます。愛に生きることを得させて頂きます。愛に生きることを決心して生きていく時、私たちと隣人、そして共同体の中にまことの平和が与えられます。

 


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