2018年3月1日大阪東教会主日礼拝説教 「愛の裏切り」 吉浦玲子
<民の代わりの死>
「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」
この言葉は、ユダヤの大祭司カイアファの言葉でした。これはヨハネによる福音書11章で主イエスが病気で死んだラザロを生き返らされたときの言葉でした。ラザロが生き返り、それを知った多くのイスラエルの人々が、主イエスを信じました。それを恐れていた祭司長やファリサイ派の人々に対して、大祭司カイアファがこの言葉を言ったのでした。
そもそも当時のイスラエルは、支配者ローマとのきわどい関係によって成り立っていました。イスラエルの権力者の多くはローマの傀儡でした。ローマのご機嫌を取ることによって、自らは権力を得ました。しかしまた実際のところ、そんな彼らによってイスラエルとローマとの平和がきわどく保たれていたのでした。しかし、民衆の中には根強く反ローマの思い、民族独立への願いがありました。民衆はローマを倒してくれるリーダーを待っていたのです。
カイアファの言葉は、主イエスが反ローマの人々にかつがれてリーダーになってしまうと、ローマから睨まれて、結果的にイスラエル全体が滅ぼされてしまうと心配した人々への言葉でした。そのようなローマから睨まれるリーダーとなりそうな人間は死んでしまった方が、イスラエルの民のためなのだとカイアファは言ったのでした。
しかし、この言葉は、カイアファが考えていたことをはるかに越えて、預言者的な言葉として響きます。主イエスはまさに、<民の代わり>に死なれたのです。カイアファは「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と言いましたが、実際に死なれたのは、神であり人間であるお方でした。そしてその死の意味は、カイアファが言ったように、単に<ローマへの反抗分子が死んだほうが民のために良い>ということではありませんでした。神であり人間であるお方が、全人類のために死なれることが全人類の救いにとって好都合であったということです。カイアファが考えていたこととはまったくレベルは異なるのですが、「民の代わりの死」ということにおいて、カイアファはまさに主イエスの死の本質を語っていたのでした。
そのまさに、全人類の代わりに、神であり人間であるお方が、死への道のりを開始されました。主イエスは捕らえられて縛られ、大祭司カイアファのしゅうとのアンナスのところへ連行されます。一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人たちが主イエスを捕らえたことが記されています。これはユダヤ人のみならず、ローマの軍隊も関与したということです。これは普通に考えますと、無力な一人の人間が、多勢に無勢で引っ立てられていっているように見えます。しかし、神の視点で見た時、これは人間の歴史の中で、神の救いの業がまさに怒涛のように始まったということです。救いに向かって時計の針が大きく動き出したということです。しかしまだそのことは、主イエスが逮捕された時点では、主イエス以外はだれもうかがい知らぬことでもありました。
<一人一人の出来事>
神の出来事が進んでいくことと並行して、今日の聖書箇所には、一人の人間の物語も描かれています。「ペトロの否認」として有名な箇所です。神の救いの大いなる業が始まっている、その傍らに人間の裏切りの物語が描かれます。これは主イエスは立派に十字架に向かわれているのに対して、ペトロはどうしようもない、という対比のためではありません。
少しわかりにくい言い方になりますが、そもそも神の出来事は、一人一人の人間の物語と直結するものなのです。別の言い方をしますと、大いなる神の業は、人間の目には、小さな人間の出来事として見えるということです。私たち自身の喜びや悲しみの出来事の裏に、神の大いなる働きがあるのです。私たちの目には、うまく物事が運んでよかった、あるいは、思いがけない不幸にあって悲しいというような現実が見えます。しかし、その背後には、神の働きがあるのです。私たち一人一人の個人的な出来事が神のご計画と直結しているということです。今日の聖書箇所の場面でも、神の救いの物語と<ペトロの否認>という出来事はつながっているのです。
<ペトロの否認>というとき、ペトロの弱さ、情けなさを私たちは考えます。しかし、そもそもペトロは最後まで主イエスに忠実であろうとした人でした。逮捕された主イエスが連行された先であるアンナスのところまでついていくのです。しかも人を介して門の中の庭にまで入っていくのです。大祭司の関係者がいるところへ入り込んでいくのです。この時点で、ペトロには迷いも恐れもないように見えます。主イエスを安じる一番弟子として、しっかりふるまっているのです。そのペトロをふいに襲ったのは、敵の剣や暴力ではありませんでした。
「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」
という言葉でした。主イエスを捕らえた側の人々のいる場所、言ってみれば敵の陣中で、主イエスの味方の者であることがばれたというのは恐ろしいことです。ペトロはとっさに「違う」と答えます。これはある意味、自分の身を守るため、ひいては仲間のために当然のこととも言えます。そして何食わぬ顔をして他の人と共に火にあたり続けるのです。エルサレムは海抜が高く、十字架の出来事があった春ごろですと、夜はかなり冷え込むのです。「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」と言われたとき、ペトロの心にぞっとするような冷たい風が吹いたかもしれません。その風を打ち消すようにペトロは火にあたっていました。
一回目の「あなたも弟子のひとりだ」という言葉に対しては、うまくやり過ごしたとペトロは安堵したかもしれません。しかし、再度問われ「違う」と答え、さらに問われて打ち消したとき、鶏が鳴いたとあります。三回、ペトロが主イエスの仲間であることを否定する間、他の福音書を読みますと、1時間ほどの時間が流れているようです。
さて、この鶏が鳴くというのは13章における主イエスとペトロの会話がもとになっています。13章36節で、主イエスはペトロにおっしゃいます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついてくることになる」と。ここで主イエスのおっしゃる<行く所>とは十字架のことですが、もちろん、その時、ペトロはそんなことは知りません。ですから「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と答えます。<命を捨てます>、これはその時のペトロの偽らざる思いだったでしょう。しかしそのペトロに対して「鶏がなくまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とお答えになりました。そして今日の聖書箇所で、<主イエスのために命を捨てます>と言っていたペトロが、実際に、鶏がなくまでに、三度、私は主イエスの仲間ではない、主イエスを知らないと答えたのです。
これは単に、ペトロが卑怯だったとか、弱かったということではないのです。敵の陣中の中にひそかに入って来ていたのですから、そこで「はい、私は主イエスの弟子です。」と答えることなどあり得ません。しかし、このとき、ペトロは知ったのです。主イエスと自分の決定的な隔たりを知ったのです。ペトロは、心の底からどこまでも主イエスについていきたいと願っていました。実際、主イエスが危ない場面で剣も抜いて戦おうとしたのです。逮捕された後もついて来たのです。これだけでも相当に勇気ある行動です。
しかし、人間の勇気や誠実さや頑張りなどの無力さをペトロは知らされたのです。主イエスがどこに今から行こうとなさっているのか、このときもまだペトロは分かっていませんでしたが、決定的に違うところ、遠いところに主イエスは行こうとなさっている、そのことが分かったのです。
<弱さの中で示されること>
<ペトロの否認>の物語は、人間の罪の物語です。ペトロの罪はどこにあったのでしょうか。一つ言えますことは、単純な意味で、ペトロの弱さ、卑怯さにあったのではないということです。むしろ逆なのです。どこまでも自分は主イエスのところへついていく、主イエスをお守りしてみせると思っていた<ペテロの強さ>が問題だったのです。
私たちも通常、この世界で、強くあることを求められます。大人である以上、誰にも迷惑をかけずにしっかりと生きていくことを求められます。そして精いっぱいそれにこたえようと生きていきます。敵に対しては勇敢に剣を抜いて戦い、怖くても我慢をして敵の陣中にだって入っていくのです。私たちは自立した大人としてしっかりと生きていくことを求められ、実際に誠実にそのように生きてきたのです。しかし、神の出来事は、一生懸命、強くあろうと生きて来た私たちの耳に鶏の鳴き声を響かせるのです。
ところで、少し横道に逸れますが、私は子どものころ、長崎県の県営住宅に住んでいたことがありました。平屋建ての長屋のような造りで4軒の家が連なっていました。それぞれの家に狭い庭がありました。我が家と同じ棟の二軒隣の家では、その庭に小さな小屋をつくってその小屋の中で鶏を飼っていました。その鶏が明け方や、昼間でもときどき鳴くことがありました。けっこううるさくて、コケコッコーとその声は響き渡るのです。
私は中学生になって、洋楽のポップスに興味を持ちだしたころ、今の若い方はご存じないでしょうが<ラジカセ>というもので一生懸命音楽を聞いていたのです。ラジオの番組から気に入った曲をカセットテープに録音をするのですが、そのラジカセが壊れていて、録音するとき時々外部の音を拾うのです。ある時、サイモンとガーファンクルの「明日にかける橋」を録音したのですが、その出だしの静かな部分に、鶏の鳴き声が入り込んでしまったのです。音としては大きな音ではなかったんですけど、はっきりと長く響く鳥の鳴き声が録音されていました。ですからその曲を聞くたびに、鶏の鳴き声が聞こえるのです。こう言いますと、なんだか滑稽なことなんですけれど、鶏の鳴き声が何かを打ち破るような響き、静けさを破る響きを持っていることをその鳴き声を聞きながら印象的に感じました。映画やドラマの場面でも夜が明けたとき、鶏の鳴き声を響かせたりします。鶏の鳴き声は夜を破るのです。静けさを破るのです。夜だけではありません、まさに鶏の鳴き声には何かを突き破るような力があるのです。
ペトロの心に鶏の鳴き声が響きました。それまで大人として、誠実に生きて来た、さらにはユダヤ人として律法を守り、神を大事にして生きて来た彼の根底に鶏の鳴き声は鳴り響いたのです。その鳴き声は、精いっぱい大人として鎧を着てきたペトロの鎧を切り裂いたのです。ほんとうはちっぽけな弱い人間に過ぎなかった本当のペトロの姿をあらわにしたのです。そして罪の姿をあらわにしたのです。
彼の罪の本質は、主イエスを知らないと嘘をついたということではありませんでした。もちろんそれも卑怯なことではあります。しかしそれは罪の派生的なことに過ぎません。自分で何でもできる、自分で頑張らねばいけないと、自分に依り頼んでいたことこそが罪でした。善意からであったとしても、そしてまた知らなかったこととはいいながら、神である主イエスにどこまでもついて行けると思っていた、神を神としていなかった思い上がりこそが罪でした。鶏の鳴き声はその罪の姿をあらわにしたのです。
<ここから立ち上がる>
しかし「鶏がなくまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃった主イエスの言葉は、断罪の言葉ではありませんでした。主イエスはペトロがそこから立ち上がっていくことを知っておられたのです。主イエスの言葉は愛の言葉でした。実際、ペトロはそこから立ち上がったのです。皆さんもご存知のように、やがてペトロは大伝道者となりました。ペトロは重い自分の鎧を脱ぎ捨てて、神を神として寄り頼む新しい生き方へと歩み出したのです。弱いままの自分で良い、そこに神の力が働いてくださることをペトロは知らされたのです。私たちも本当に強いお方に、ありのままの自分を明け渡して、新しく生きていくのです。悔い改めとはそういうことです。
このペトロと並んで大伝道者となったパウロに神の言葉がありました。彼は病を癒してほしいと切実に願いつつも病が癒されませんでした。そんなパウロに神は語られました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。自分の鎧を脱ぐとき、自分の剣を捨てるとき、私たちに神の力が注がれます。私たちは弱い、その弱さの中に、神の恵みが注がれ、神の力が発揮されます。そこから私たちは立ち上がります。受難節、まことに神に自分を明け渡して、悔い改め、神の祝福の内を歩んでいきます。
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