2022年6月5日大阪東教会主日礼拝説教「神が見せてくださる幻」吉浦玲子
<ヨエルが預言したことの成就>
最初にお読みしましたヨエル書第3章に「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。/あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」という言葉がありました。聖霊降臨のときに読まれる聖書箇所です。旧約聖書の時代、神の言葉は特定の預言者、先見者にのみ与えられました。しかしやがて「すべての人に」神の霊が注がれる日が来る、とヨエルは預言しているのです。あなたたちの息子や娘、すなわちあなたたちの子孫は、皆が預言するようになるというのです。神の言葉を直接聞くことができるようになる、というのです。そしてヨエル書全体から読み解くとき、これは「主の怒りの日」、つまり終わりの日の前兆、さきぶれとして起こるのだとヨエルは語るのです。
まさにヨエルが預言した神の霊の注ぎが二千年前の五旬祭の時、起こりました。主イエスが昇天なさったあと、百二十人ほどの弟子たちが祈っていた、その時に、炎のような赤い舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。弟子たちは聖霊に満たされ、言葉を語りだしました。それもほかの国々の言葉を語りだしたとあります。そこで語られていたのは神の業についてでした。激しい風の音のようなものが響き、近隣の人々がやってきて驚きました。その後、ペトロの説教が語られ、その日三千人の人々が仲間に加えられたと記されています。
<裁きの前兆として>
何かとんでもない特別な出来事が起きて、三千もの人々が洗礼を受けた、それが聖霊降臨日の出来事です。そしてこれが教会の誕生のときであると言われます。さきほど、この聖霊降臨を預言したヨエル書は終わりの日の前兆として神の霊の注ぎが起きると申し上げました。終わりの日とはなんでしょうか。それは裁きの時です。罪の裁きの時、まさに「主の怒りの日」です。その裁きの時に先立って、聖霊が注がれるのです。それはとりもなおさず救いのためです。私たちが裁きにあうことなく、終わりの日を迎えることができるように、神は先立って聖霊を注いでくださったのです。聖霊降臨において、熱狂的な集団催眠のようなことがおこったわけではなく、神の愛と憐みのゆえに、人間を救われる神の業として聖霊は注がれました。
そもそもイエス・キリストの十字架において、救いは成就しました。その救いの出来事が私たちに結びつけられたのが聖霊降臨です。私たちは主イエス・キリストを信じることによって救われます。その主イエスの御業を私たちに知らせてくださるのが聖霊なのです。私たちは聖霊の力なしには主イエスを信じることはできませんし、そもそも聖書を読むこともできません。聖霊の力がなければ、聖書はただの昔の人が書いた文学書に過ぎません。主イエスは2000年前イスラエルに現れ一時的にもてはやされて死刑になった宗教家に過ぎません。主イエスがまことに救い主であること、神から来られた神であることは聖霊によらなければ分からないのです。
実際、主イエスと三年半生活を共にしていた弟子たち、さまざまな奇跡を目の当たりにして、復活のキリストにすら出会った弟子たちでしたが、聖霊を賜る前は、主イエスがどのようなお方で何をなさったのか分かっていませんでした。使徒言行録の1章を読むと昇天される前に主イエスに「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と弟子たちは聞いているのです。彼らには故国イスラエルのローマからの独立ということを離れて主イエスの救いの業を考えることができなかったのです。
しかし、聖霊を注がれた弟子たちは一変しました。使徒と呼ばれる十二人の弟子たちは立ち上がり、今日この時の出来事が預言者ヨエルによって預言されていたこと、そして十字架につけられた主イエスについて力強く語ります。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」こう大胆に語ったのです。この日は五旬祭ですから、まだ十字架の出来事から50日余りしかたっていません。主イエスを十字架につけた権力者たちに目をつけられたら、自分たちに危険が及ぶ可能性もあります。しかし、主イエスが逮捕されたとき三回「イエスなんて知らない」と言ったペトロを始め、かつて主イエスを置いて逃げ去った弟子たちは、三千人の前で堂々と語ったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と主イエスはおっしゃいましたが、まさに弟子たちは驚くべき力を与えられ、キリストの証人として語ったのです。
<心を打たれ>
そしてその言葉はおのずと悔い改めを迫るものでした。十字架の出来事を知っている群衆に対して、その中には主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人々もまじっていたかもしれません。その人々に「あなたが主イエスを十字架につけて殺したのだ」と語ったのです。聖霊が注がれて語られる言葉は、単なる主イエスの知識ではありません。人間の罪をあらわにする言葉なのです。しかし罪をあらわにされながら、聞いた人々は怒り出すどころか「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」たとあります。ここの「心を打たれた」という言葉は単に感動したということではなく「心を激しく刺された」という意味です。刺されて心が痛みを覚えたのです。聖霊によって語られる言葉は心地よい言葉とは限らないのです。私たちの心に突き刺さり痛みを生じさせる言葉でもあります。逆に言いますと、甘い言葉、耳触りの良い言葉、知識としての言葉、人生訓のような言葉だけを求める人には聖霊は働かないのです。聖霊によって語られるのは、「主イエスを殺したのはあなただ」と悔い改めを迫る言葉です。
ここにいる私たちも主イエスを殺しました。主イエスを十字架につけた者たちです。ここにいる誰一人として主イエスなんて知らない、2000年前のことなんて関係ないと言えないのです。2000年前、キリストは私たちのために十字架にかかられました。私たちはそのことを聖霊によって知らされます。2000年前のことを自分のこととして知らされます。十字架の出来事はほかならぬわたしのためであったことを知らされます。私を愛して命まで捨ててくださった方がおられる、そのことを知らされます。神のとてつもない愛を知らされます。聖霊は神の愛を私たちに知らせてくださる神です。キリストである神が命を捨てて私たちを愛してくださった、そのことを聖霊なる神に知らされる時、私たちは変えられます。変わらざるを得ないのです。新しい人間とされます。キリストの証人とされます。キリストを語るべき言葉が与えられます。人を新しくする言葉が与えられます。人を愛する者に変えられます。愛するということは単にやさしい言葉を語ることではありません。神の愛を伝える、時として心を刺す言葉を語るのが愛の行いです。
<ビジョンによって開かれる未来>
なぜ私たちは語ることができるのでしょうか。「若者は幻を見、老人は夢を見る」とヨエル書の中に記されているように、神から与えられた神の霊、聖霊によって、幻や夢が与えられているからです。夢、幻というと儚くて、現実的でないことのように、特に日本語では感じられます。しかし幻とはビジョンです。私たちはこの現実の社会の中で、将来のビジョンをどうするのか?ということをよく問います。国や社会の将来であれ、企業の将来であれ、ビジョンを提示するということは大事なことです。会社員時代、今後の技術動向を探り、開発するべき技術を提案する将来ビジョンの検討をしたことがあります。それは過去の技術進化からいくつかの法則性を抽出して、現在の技術に当てはめて未来の姿を検討するという特殊な手法を用いて行いました。なかなか楽しいものでした。一方、昔、「教会の将来ビジョンを考えよう」と言ったら、ある人から「そういうビジネス用語は使わないでください」と言われたことがあり、たいへん驚きました。一般的に教会においてビジョン、幻という言葉は使われますし、国や社会や企業より何より、教会はビジョン、幻を大事にするからです。ビジネス用語だと言った方は教会でビジョンという言葉を聞いたことがなかったのでしょう。ビジョンのない教会におられた方だったのです。
しかし、教会こそ、幻をみなければなりません。特別な手法や統計によるのではなく、神が見せてくださる幻を見なければなりません。今、目の前の現実ももちろん大事ですが、神に示される幻を見なければなりません。明日は今日の続きで、未来は今日と変わらない、なんてことはないのです。信仰者の日々も、教会も、日々新しくされるのです。神に与えられたビジョン、幻が示される時、本当に新しくされるのです。実際、ビジョンがなければ、教会は立っていけません。1945年3月に大阪大空襲でこの地域は焼け野原になりました。会堂の影も形もなくなりました。目の前にある現実はがれきだけです。そして皆は日々食べていくだけで精一杯の生活でした。たとえば社会インフラや人間が生きていくために必要なものであれば、速やかに復興しようと人間は考えます。しかし、日々の生活で精いっぱいの中で、教会の建物や礼拝のためのものというのは必需品というのではありません。しかし、先人たちは復興させたのです。そこには幻があったからです。神の民のとしてのビジョンがあったからです。
<老人こそ夢を見る~希望の原動力>
一方、老人は夢を見る、とありますが、これは平安の内になお未来の希望を持てるということです。若者は幻で老人は夢というと年齢で差別しているのか、という気になりますが、未来への希望を与えられるという点においては同じです。解釈する人によっては、ここの夢と幻を区別しない人もあります。夢から覚める、とか、夢が破れる、というように夢というのもふわふわした現実性のないもののように思えます。夢ばかり見ている子供ということも言われます。しかし、聖書は子供ではなく、むしろ人生を積み重ね、この世の現実をいやというほど知っているはずの老人に夢が与えられると語ります。神の与えられる夢ははかなくもなければ、破れもしないのです。以前、いくたびかお話したことがありますが、私が信徒のころいた教会は、公民館を借りて礼拝を捧げていた伝道所から始まりました。一人のご高齢の婦人が「この地域に教会を造る」という夢を与えられて始められたのです。牧師を呼んできて、ほそぼそと礼拝を続けていました。そのころ、高校生の女の子がその伝道所のおばあさんに誘われて礼拝に行きました。女の子におばあさんは「いずれ礼拝堂を建てるねん」と語ったそうです。女の子はこんな数人しかいない伝道所で会堂を建てるなんて、夢みたいなこと言ってるなあと内心笑って聞いていたそうです。でもおばあさんは、「あそこに建てるんや」と窓の外のある場所を指さしたそうなのです。その女の子はその後、その地域を離れ、二十年後に引っ越しをしてその町に戻ってきました。久しぶりの町を歩いていたら、新しい教会が建っていました。その時、自分が高校生だった時のことを思い出しました。まさにその場所は、あの数人だけの小さな伝道所のおばあさんが「あそこに会堂を建てる」と指さした場所だったからです。その会堂に入っていって牧師に問い合わせると、まさに20年前の伝道所が、教会となり、この地に会堂を建てたのだと聞き、腰を抜かすほど驚いたそうです。一人の老人の夢が、教会を立て上げたのです。それは個人の夢ではありませんでした。神が与えられた教会の夢でした。
夢や幻なんてばかばかしい、そう一般には思われています。そのばかばかしいことの上に立ち上がっていくのが教会です。夢も幻もないところに教会は立たないのです。聖霊降臨、かつて預言者だけに与えられていた神の言葉、夢と幻が、今、私たちにも与えられています。一人一人に赤い舌のようなものが降りてきて与えられました。若者は幻を見、老人は夢を見ます。幻と夢を見続けるのです。そこから教会と、私たち一人一人の日々が未来に向けて歩みだします。
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